渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

ハマナン

2019年07月20日 | 公開情報


やっぱ、ハマのもんはこのナンバーよね。
ごくフツーに。

こんなのでなくさあ(笑)。


「福山雅治ファン羨望のナンバーらしいすよ」
とか福山ナンバーの奴が言ってたけど、嘘こけ
(笑)。
こないだ川崎ナンバーの女性ライダーに「福山
ってどこですか?」とか言われてたし(笑)。
ふるさと納税制度みたいに、自由納税制度で
ナンバーも好きなとこつけられたらいいのに
なー。

今は無くなったけど、ハマナン以外で私が「う
を!カッケー」と思ってたのは「京」ナンバー
だった。
ダイシンが作った3気筒RZに「京」ナンバーが
着いていたのよ〜。1982年。
あれは決まってた。

これよ、これ。このバケモノ。
これの試作1号車が京ナンバーだった。
なんか、パワーありすぎで、当時はクラッチが
もたなかったみたい。


こちら

まあ、でもユーゾーさんも76年の時点で3気筒
TZ350とか作ってたからね。
エンジンくっつけて。
よくそんなことできるよなあ。
プラモじゃないんだから。
それで世界グランプリ戦うのだから。
昔の職人技ってのは、なんだかすご過ぎる。

そういえば、銃砲類もそうだよね。
幕末にコルトネービーのリボルバーなど、職人
がフルコピーしてる。
ライフリングとかどうやって作ってたんだろね。

こちらオリジナルコルト。


カッコいい!


こちら、井伊直弼を狙撃した日本製コピー品。


よく作るよね、こんなの。
工場製機械工業が存在しない時代の日本で。
ほんと、松本零士先生のトチロー一族みたい。
あれは『ガンフロンティア』という西部劇劇画
で、刀鍛冶のトチローの一族がアメリカ西部に
渡って、向こうで拳銃や刀を作ったという設定
だったけど、あながち漫画フィクションではな
い。
桜田門外の変の時代に既に国産コルト式リボル
バーを手作業で製造していたのだから。
考えられない。
ネジとかどうやったのだろう。
ネジって、ただの螺旋状の物ではないからね。
力学的に締め込むと食い込んでいく山と谷の
断面を持つ精密部品なのだから。
あれは、手作業では無理でしょー。
でも、銃があるのだから、作ったのでしょうね。
コンマミリ単位の寸法出しで。

まあ、鍔でも糸透かしという現代でも解明されて
いない技法があったくらいだから、なんとかうま
いこと作ってたんでしょうね。
昔の人は凄いや。
人間てさ、時代が進むと、機械機器類は高度に
発達するけど、肝心の人間力はどんどん低下して
いくよね。
それは、たった20〜30年でガクッと低下している
のがよく判る。
つい10年ほど前まで鉛筆をナイフで削れない子
どもが98%というのに驚いていたら、今はです
よ、マッチのすり方知らない親だらけなんです
と。
そら包丁も研げなけりゃあれもこれもできねえ
よね。
オートバイもまったくそう。
ぜーんぜん乗れない連中が今の大半どころか9
割以上なんだから。
乗れてるのは、競技選手だけ。
これからバイクに乗ろうかと思ってるという友人
が私に先日言ってた。
「最近、よく道でライダーを観察するけど、ほと
んどヤキトリ、というかヤキトリ以外を見ない。
俺、嘘教えられたのかと思っちゃったくらいに
みんながみんなヤキトリですよ」と。

なんでだろう?と思うでしょ?
韓国の反日教育と全く同じ構造なんだよ。
今の人たちに大嘘ばかり教えてるのがいるから、
ヤキトリ干物殿様載りがスタンダードになって
しまったのさ。
それはね、警察が主導して嘘を教えている。
天下り団体の日本二輪車普及安全協会の手を
借りて。
警察での講習テキストにしっかりと二輪車に
ついて、「背筋を伸ばして乗る」と大嘘が書い
てあるのだから。
これはね、今の危険なヤキトリ干物殿様載りは、
大元は警察が主導してるのよ。
これガチ。

ある別なバイク乗りの友人が言ってた。
「国民愚民化政策ってあるじゃん。
あれと同じ目的で、ヤキトリ指導は、国民を
二輪車に乗れないように、乗りこなせないよう
にとするための国家的陰謀なんじゃない?」と。
結構、当たってたりして(笑)。
そして、洗脳された国民は、きょうも腕突っ張り
背骨伸ばしの顎出し載りをやって、「きつい」
だの「疲れる」だの「しんどい」だの言ってる、
と。
もしかすると、本当に国民を二輪に長時間乗ら
せないための国家的陰謀かも知れない。
ホワイトベースの二宮さんがいいこと指摘してた
よ。
「本来、免許などは、乗る権利がある、ではな
く、国が国民に乗らせないつもりのところ、
法制度上、仕方ないから乗るのを国が許可して
あげているだけ、というものとして存在してい
る」というような趣旨を。
これ、国家権力論(解析)として極めて正しい。
運転免許は本質的には国民の権利ではなく、許
認可制度として機能している。
国家権力がその判断軸の采配を振り、裁量権を
持っているのであるから。
典型例なのは、かつての、限定解除制度ね。
あれは「受からせない為の試験」だった。合格
させる為ではなく、落とす為のものだった。
法制度としておかしな制度でしたよ、あれは。
モロに国民を大型二輪車に乗らせないことを
目的とした国家政策だったのだから。

ほんとに、国民を二輪車に乗らせない、乗った
ら疲れる、もう乗りたくないと思わせるような
巨大な陰謀かもよ(笑)。ヤキトリ指導は。
いや、結構マジで。
そのくせ、白バイだけは乗れるようにヤキトリ
などさせてなくてさ。
乗れる白バイ隊員でヤキトリ干物なんて一人も
いないもの。

となると、俺のような昔の正統で真っ当な乗り
方は、国家権力の謀略策謀へのレジスタンスに
なる。
ならば、大いにやってやろうじゃん。
普通の乗り屋の乗り方をこれからもずっと。
二輪の鉄騎士として。
そして、真の自由と安全と平和を求める自由
鉄騎士団として。



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