電脳筆写『 心超臨界 』

誠実な心が誠実な行動を生む
( ブリガム・ヤング )

読む年表 《 南京攻略 》

2020-04-13 | 04-歴史・文化・社会
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『読む年表 日本の歴史』
【 渡部昇一、ワック (2011/6/3)、p240 】

1937(昭和12)年
《 南京(ナンキン)攻略 》
自分は逃げ出しながら首都防衛線を行わせた蒋介石(しょうかいせき)の責任

盧溝橋(ろこうきょう)で始まった日中両軍の衝突は、通州(つうしゅう)、上海(シャンハイ)と飛び火していき、全面戦争の様相を呈(てい)してきた。適当なところで戦争を収束させたかった日本軍は南京(ナンキン)攻略をめざした。首都を占領してしまえば、さすがに国民政府も和解に応ずるのではないかという期待があったのである。

日本軍はまことに慎重(しんちょう)であった。籠城(ろうじょう)する国民政府軍に対して投降(とうこう)勧告を出し、彼らが拒否したのを確認してから攻撃したのだ。これは当時の国際社会が日中の戦争に注目し、決して日本に同情的ではない多くの外国人ジャーナリストがシナ大陸で注視していたからである。松井石根(いわね)将軍は「後世の模範となるよう行動すべし」と全軍に軍規の徹底を呼び掛けていた。

南京攻略は、昭和12年12月10日から始まった。しかし、こともあろうに蒋介石(しょうかいせき)ら国民政府の首脳部は、20万人近くの市民を置き去りにしたまま、夜間脱出してしまっていた。

当初、国民政府軍の抵抗は激しかったが、途中で唐生智(とうせいち)将軍まで脱出してしまったこともあって戦意は急速に衰え、日本軍は13日には城内に入ることができた。正式に入城式が行われたのは17日のことだが、日本軍が南京を陥落(かんらく)せしめたとき、城の中には責任者と呼べるような敵の将軍がいなかったのである。

この南京攻略に関して、いまだに一部で信じられている「南京大虐殺」は東京裁判において連合軍が捏造(ねつぞう)したものである。その論拠はいくらでもあるが、詳しくは本シリーズ『日本の歴史 第6巻 昭和篇』を参照していただきたい。

問題は、蒋介石が首都防衛戦を命じておきながらさっさと脱出してしまい、南京の町と市民を文字どおり「捨て石」にしたこと、さらに南京死守を蒋介石に誓った唐生智将軍も部下を置去りにしてこっそりと逃げ出したため、南京に残ったシナ兵たちは秩序ある降伏ができなくなったことである。このため、陥落間近の中国兵は軍服を捨て、平服に着替えて便衣隊(べんいたい)、つまりゲリラとなり、非戦闘員が居住する安全区に逃げ込んで、隙(すき)あらば日本兵を襲おうとした。

ただちに「便衣隊狩り」が行われることになったのは言うまでもない。ハーグ陸戦規定(1899年のハーグ平和会議で採択。1907年、第二回ハーグ平和会議で改定)ではゲリラはその場で殺してもかまわないことになっている。ゲリラ戦を始めると、無辜(むこ)の市民にまで犠牲が及ぶことになるから、いかなる理由があってもゲリラはやるべきではないし、やった人間を許してはならないというのが国際社会の常識である。だから日本軍も容赦(ようしゃ)せず、多数の便衣隊を狩り出し、処刑したのである。

ところが、これが東京裁判では「一般人に対する暴行」という話になった。あろうことか、「いったん軍装を脱いで安全区に入ったのであれば、それは民間人と見做(みな)すべきである」という屁理屈(へりくつ)で、死者が水増しされ、また「便衣隊と間違えて、無辜の市民を多数殺した」ということにされたのである。これはまったくの言いがかりにすぎない。南京の市民の中には、不幸にも便衣隊と間違えられて殺された人はいたであろう。しかし、それはあくまでも遺憾(いかん)な事故であって、これを組織的な「虐殺」と言うことは許されない。

そのことを責めるなら、まずそうした活動をさせた蒋介石の責任を追及するのが筋というものではないか。捕虜(ほりょ)になる資格すら認められていない便衣隊を国民政府が許したときから、無辜の市民が間違って殺されてしまうのは、目に見えていたことである。

さらに言えば、そもそも蒋介石は松井将軍が降伏勧告を出し、開城を求めたときに、これに応じるべきであった。そうすれば、ゲリラ戦などやらずに済んだはずである。正常な判断力を持った指導者なら、首都攻防などという悲惨な道は選ばず、オープン・シティにしてしまう(街を開放する)。首都防衛戦は、一般市民の生命や財産をも巻き添えにするからである。

南京のことを問題にしたいのであれば、まず問われるべきは、南京防衛という最悪の選択肢を選んだ蒋介石自身の責任である。

結果的に、南京を占領しても戦争は終らなかった。蒋介石は和解交渉を拒絶し、日本側も近衛文麿(このえふむまろ)首相が「国民政府を対手(あいて)にせず」と声明し、和平の道を閉ざしてしまったからである。
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