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ニュースを問う韓国の「愛知村」を追って (1)海渡った漁民(蒲郡通信局・木下大資)「おふくろの父は自分の漁船で朝鮮に渡って、終戦まで麗水(れいすい)にいた」 愛知県蒲郡市の漁業について調べていたとき、三谷漁協の小林俊雄組合長(74)からそんな話を聞いた。戦前に日本が朝鮮半島を統治した時期、三河地方を中心とする漁業者らが現在の韓国南部の麗水(ヨス)に移住して「愛知村」を形成していたという。学生時代に韓国へ留学した経験がある私は、興味を引かれた。 「当時は帆船で、油をたかなくてもいいので、終戦直後に周りの家族も乗せて逃げてこられた。今で言うボートピープルだね」 小林さんの祖父と麗水生まれの母(ともに故人)は麗水を懐かしんだようで、約四十年前には引き揚げ者でつくる「麗水会(れいすいかい)」という団体で現地を再訪したこともあった。「おじいさんは朝鮮人もうまく使っていたみたいで、おふくろの世代まではけっこう交流があった。生きていれば詳しく聞けたけど…」 戦時中の徴用工を巡る韓国最高裁の判決を発端に悪化した日韓関係は、今も着地点が見えない。日韓の“火種”であり続ける日本統治期を、地元とのかかわりから見つめてみたい。私は昨夏、愛知村の痕跡を探しに麗水を訪れた。 手掛かりは、蒲郡市博物館が所蔵していた史料。大正から昭和の初めごろに移住者が書いた「愛知県移住漁村経営之方法及成績」という書物に、村の所在地や当時の漁の様子が詳細に記録されていた。 ◆残った日本式の漁船そこに記された地名を頼りにたどり着いた海辺の食堂で、帆を張った木造船の模型が目に入った。 「ウダセという船だ。日帝時代に日本人が魚を取るのに使った」。店主の説明によると、日本人が敗戦とともに引き揚げた後もこうした漁船が麗水で造られ、漁に使われたという。 蒲郡では、機械の力で網を引くようになった今も、小型底引き網漁船のことを通称「打瀬(うたせ)」と呼ぶ。聞き覚えのある日本語が出てきて、私は驚いた。約二十年前まで残っていた日本式の家屋群は「ナラビ」、船だまりは「タマリバ」と呼んだそうで、植民地期の名残とおぼしき日本語が端々に登場した。 店主の紹介で、近くで生まれ育ったという女性(81)に会うことができた。父は日本人が経営していた造船所で働いて技術を習得したという。 -当時の暮らしぶりはどうだったか。 「この辺では漁業くらいしか仕事がなく、みんな日本人に雇われて働いた。解放前に自分の船を持っている韓国人はいなかったのでは。日本人は金持ちで、私たちは貧しかった」 -日本人に悪い感情を抱いていた? 「その頃は幼かったからよく知らないけど。国を奪われていたのに『良かった』という人間がどこにいるっていうの」 ちょうど日本政府が韓国向けの半導体材料の輸出管理を強化し、韓国内で反感が広がっていた時期。彼女は語気を強めて、安倍晋三首相への批判もまくしたてた。 歴史に詳しい人を尋ね歩き、麗水市の文化観光解説士として勤務する明鎬運(ミョンホウン)さん(63)に話を聞いた。 麗水には愛知県以外の移住者も含め、終戦時点で数千人の日本人が住んでいた。解放後は水産都市として発展したが、植民地期に日本人から習得した漁業技術がその基礎になったのは確かだという。 -だからといって日本に感謝はしないでしょう? 「もちろんそれは違う。ただわが国に力がなく、日本が先に発展したのも、そこから技術を学んだのも事実。それは記憶の中にとどめるべきで、現在の日本人に対して悪い感情を抱くことはないですよ」 ◆輸出管理強化に苦言明さんは日本の輸出管理強化には苦言を呈した。「遅れて発展した国を助けてくれればいいのに、強い立場を利用して圧力をかけてきたのは残念だ」。その数日後、文在寅大統領が光復節(八月十五日)の演説で「先に成長した国が、後を追って成長する国のはしごを外してはいけない」と日本を批判したが、明さんはほぼ同じ趣旨のことを言っていた。こうした心情を共有する韓国人は少なくないのだろう。 滞在中に街で見かけた横断幕や報道で知ったが、韓国の世論は日本の輸出管理強化を「経済侵略」という言い方で受け止めていた。日本人からすると大げさとも思えるが、かつて植民地支配を受けた過去があるゆえの表現だろうか。 韓国では一般的に日本による統治は「侵略」や「収奪」と考えられている。ところが取材を始めると、そう単純に割り切れないとも感じた。「愛知村」をどう捉えたらいいのかという問いは、現地を訪れた後も自分の中に残された。 ◇ 過去の歴史を巡って日韓がすれ違う背景には、どんな構図があるのか。およそ百年前の一九一八(大正七)年、麗水にできた愛知村の歴史を追いながら考えた。 PR情報
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