FC2ブログ
FC2 Analyzer

安倍政権の合理と不合理

4月11日現在、日本で確認されている新型コロナウィルスの感染者はあくまで氷山の一角にすぎないのは確実だが、一方ですでに数十万人規模で感染が広がっているとすればごまかしようもないのであろうから、現時点ではそこまでは感染は拡大していないといったあたりなのだろう。

深刻なのは、では日本でいったいどれほど感染が広がっているのかを、科学的根拠をもって推計することさえできないことだ。一万に近い数万なのか、十万に近い数万なのか、それ以下なのか以上なのか、ただ勘に頼るほかないのである。

日本政府の対応はOECD諸国の中では最低レベルと言い切って構わないであろうが、にも関わらず謎の理由によって日本での感染拡大のスピードは遅いのも間違いないだろう。そして日本政府は、この状況を活かすどころか、わざわざドブに捨て続けている。

布マスクを1世帯に2枚配布するという愚策に顕著なように、安倍政権の対応は単に動きが鈍いというだけではなく、不合理極まりないものとなっている。ではその不合理な動きはどこから来ているのかといえば、それは安倍政権的な合理主義から来ているとすべきだ。要は高をくくっているのである。このままでは安倍政権が吹き飛ぶだけでは済まない、次の選挙で自民公明両党が潰滅的敗北を喫するかもしれないという危機感は、今のところ政府与党内には全くないのだろう。

思い起こしてほしいが、モリカケ問題のみならず、「赤坂自民亭」によって、この政権はただ利権漁りを繰り広げるだけでなく、被災者には無関心であることを顕わにしながら、2018年の衆議院選挙でも19年の参議院選挙でも自公は圧勝。さらに同年9月の台風15号によって千葉県の広い地域で長期の停電が起こったが、東京の目と鼻の先で起こったこの災害を前に日本のメディアが何をしていたのかといえば、隣国韓国におけるチョ・グクの疑惑を延々と、常軌を逸して報じ続けたのである。これはワイドショーだけでなく、テレビのニュースも、そして新聞においてもそうであった。

さらに停電の最中に、何ら必然性のない、つまりは安倍晋三個人の権力強化のみを目的とした内閣改造が行われたが、メディアはこれを批判するどころか、今度は「進次郎、進次郎」の大合唱が始まった。千葉の停電についてまともにメディアがとりあげるようになったのは、台風から一週間近くがたち、内閣改造が終わった後であった。では内閣支持率はどうなったかといえば、さすがに大幅増とはならなかったがほぼ横ばいであり、内閣改造が行われた状況を考えればこれには言葉を失ってしまう。ちなみにチョについて日本のメディアは「こんなひどいこと日本ではありえない」などとわめきたてていたが、この内閣改造で法務大臣に起用されたのは河井克行であった。

パンとサーカスどころか、パンを手するのは一部の特権的立場にある者だけ、あとはオリンピックや「娯楽」としての差別という「サーカス」さえ与えておけばどうにでもなるのだから、安倍政権が日本社会や日本のメディアを舐め切るのは当然の帰結であろう。公人としての使命感を持ち、合理的な政策を行うなどというのは愚の骨頂となってしまったのである。


すでに散々指摘されているように、安倍政権の感染症対策の誤りの発端はオリンピックを予定通りに開催することへの固執であろう。オリンピック開催のために感染者数を数字上少なく見せかけたい政府と、少ないリソースで爆発的感染拡大を防ぐという専門家会議の「クラスター対策」とが噛み合ってしまったのであった。恐らくは2月中旬あたりにはこれが誤りであったのに両者とも気づいていたのだろうが、無責任体制ゆえに政策転換ができず、また政策転換しようにも日本の医療インフラなどがあまりに貧弱なため能力的にもお手上げ状態に陥ったといったところだろう。

根拠なき楽観論をふりまいていた安倍政権は、2月下旬にIOC内部からオリンピック延期論が浮上してくると、科学的根拠を説明できないまま一斉休校を「要請」をするなど政策を一転させた。全国一律かはともかく、ウィルスの性質を考えれば広範囲の休校などの措置は遅かれ早かれ必要となるのはこの数週間前からわかっていたはずなのに、何の準備もしないまま無為に時を過ごしたあげくの見切り発車であった。さらにはオリンピックを予定通り開くためには5月までには上辺だけでも収束したということをアピールしなければならないために、これまた科学的根拠のないまま3月中旬には一斉休校の解除方針を固めた。

一斉休校の最中に安倍は卒業式を開いて思い出作りをするよう突如言い出したが、防衛大学は3月22日に卒業式を開催し、安倍はそこに出席すると改憲を主張したのである。平時においてでさえ現職首相が防大で改憲を訴えるということ自体が異常な言動としか言いようがないが、その性格上本来ならば率先して式典の中止をすべき防大が卒業式を行うだけでなく、安倍がわざわざ出席したというのも、オリンピックへの固執とも関連している。オリンピックは安倍とその取り巻きが肥え太るための利権の分捕り合戦であるだけでなく、メディアをコントロールするための道具でもあり、ナショナリズムを煽りに煽って改憲へとなだれ込むというのが安倍政権が描いていたシナリオであった。オリンピックへの執着はそのまま改憲への執着の表れでもある。


しかし時系列順に振り返ると、合理的思考の持ち主であれば奇妙な印象を持たざるを得ないであろう。もし予定通りにオリンピックを開催したかったのであらば、遅くとも政策転換した2月下旬には徹底した検査体制を構築し、上辺だけでなく実際に感染拡大を防ぐのに全力を注ぐべきであったのではないか、と。前述の通り、やりたくても能力的にできなかったというのが実態であろうが、そればかりではないだろう。安倍とその取り巻きにとっては、上辺だけごまかせれば、少なくとも日本社会に対してはそれで十分であった。

多額の税金を投入しての布マスク配布は感染症対策として行われるのではない。いくつか報道があったように、あくまでこれは世論対策なのである。そして安倍らは、この程度で世論を懐柔できると踏んでこの愚行へと走った。

これもまた思い起こしてほしいが、テレビ全局だけでなく全国紙のほとんども、延期が決定するその瞬間まで「オリンピック・プロパガンダ」とされても仕方のない異様な報道を繰り広げ続けた。いや、過去形ではなく、この状況に至ってなお「オリンピック・プロパガンダ」を垂れ流し続けている。

ロイターが東京オリンピック招致にからむ贈賄疑惑の詳細を報じたが、日本の主要メディアに後追いするものはなく、記事で中心人物と名指しされた元電通でオリンピック組織委員会理事の高橋治之や森喜朗に対し公の場で説明責任を果たすよう求めることすらしないのである。

NHKを含む日本の多くのメディア企業自体がオリンピック利権のプレイヤーであり、そのヒンジとなっているのが電通である。といっても、個人的には「電通陰謀論」は話半分で聞き流すべきものだと考えているが、ゆえに実態はむしろ深刻だとすべきだ。日本のメディアでは電通批判がタブーになっているのではなく、本来は批判的に検証されなくてはならないはずの電通をはじめとする大手広告代理店をチェックするという意識が欠如しているというだけのことなのだろう。問題だと思っているが圧力によって記事にできないのではなく、問題を問題として認識することさえできないのである。

オリンピックがらみでは為末大をはじめとして邪悪な人間も跋扈しているが、主要メディアの少なからぬ人間は、安倍が目論む改憲に協力するために「オリンピック・プロパガンダ」を繰り広げようとしているのではないばかりか、オリンピックでがっぽり稼ぐぞとさえ思っておらず、括弧つきの「純粋」に、「自然」なこととして、オリンピックを盛り上げたいのであろう。要は批判的思考能力を失った状態に陥っているということであり、このようなナイーヴさは、政治権力からすればなんともちょろいものである。


繰り返しになるが、そんなにオリンピックが大事であらば、2月の時点でむしろ積極的な感染症対策を取るべきであったし、オリンピックオリンピックと騒ぎ立てる日本のメディアこそがそう主張すべきであった。しかし日本のメディアに蔓延したのは、やみくもな検査拡大によって韓国の医療が崩壊したというデマであった。

「韓国医療崩壊」報道は日本の報道崩壊を何よりも表すものだろう。検査件数を増やさない(増やすことが能力的にできない)日本政府にとって、韓国が医療ベンチャーなども駆使して多数の検査を行っているのは疎ましいことであった。そして失政と能力不足をごまかすために、政治家や官僚やその周辺の専門家が、韓国のやっていることがうまくいくはずないという誘導を行ったことは想像に難くない。

特にウヨっているという印象もなく、外国語で情報収集する能力のある人までもが、日本でのみ流通した「韓国医療崩壊」報道を無批判に事実として受け取ったのをいくつも目にした。このような人でさえ正常化バイアスと韓国への蔑視によって判断能力を失ったのであるから、日頃から「官報」を繰り広げ、差別意識を恥じることなく全面に押し出すメディアが、日本政府の思惑通りに「韓国医療崩壊」を繰り広げたのはむべなるかなというところだ。

ここで重要なのは、「このままのやり方では韓国で医療崩壊が起こるのは時間の問題」という逃げ道を残したメディアだけでなく、「医療崩壊した」と言い切ったメディアまであったことだ。もし医療崩壊したのであらば致死率は跳ね上がっているはずだが、そうではなかった。ならば韓国政府は虚偽の数字を発表しているとしたのかというと、そのように報じたメディアはさすがになかった。ということは韓国の医療は崩壊していないということになるのだが、いったいこの矛盾をどう説明するのだろうか。

自分の行っている「報道」が支離滅裂になっているにも関わらずそれに気づきさえもしないか、もしくは支離滅裂になっているのをわかりながらも、三度の飯より韓国叩きが好きな「普通の日本人」はそんなことを気にも留めないはずだと判断したのかのいずれかであり、どちらであるにせよ、報道の名に値しないものである(「報道」としたように、ワイドショーに顕著な傾向であったが、それだけでなく『報道ステーション』をはじめとするニュース番組においても見られた)。

そんなにオリンピックが大事であるならば安倍政権の感染症対策をまず批判しなければならないはずが、これを正当化するばかりか、意図的にか無意識にかはともかくデマさえ流し、さらに合理的な思考さえできればデマを見破るのはたやすいにも関わらずこの手の報道を疑問に思うことなく少なからぬ日本人がそのまま受け取ったのであるから、安倍政権が改めてオリンピックとはこれほど利用価値があるものなのかと考えたのは当然であろう。ゆえに2年ではなく1年の延期にこだわったのである。


安倍政権が対応を誤ったもう一つの理由が、経済を止めたくないというものだ。ワクチンがなく、いつ開発されるのかの目途すら立たず、対症療法も限られているという状況では、とにかく経済を止めてでも人の流れを絶ち、接触を減らし、感染拡大のスピードを落とすしか手はない。ポール・クルーグマンなどもいうように、今は経済に麻酔をかけ、生命維持装置として休業補償や現金給付などを行いながらしのいでいくしかない。

安倍政権が経済を止めるのをこれほど嫌がる第一の理由が、株価の暴落を恐れているからだろう。各種指標を見ると、日本経済は2019年の半ばにはすでに景気後退に陥り、消費増税がとどめをさしたといった状態であった。つまりは新型コロナ禍以前にすでにひどい状態に突入していたのである。これに限らず、例の如くに平然と政府は嘘をつくのであるが、第二次安倍政権誕生以降、実際には数度にわたって景気後退が起こっており、また経済成長率も一貫して低調なままである。それを糊塗するのが株価であった。株価維持のために莫大な公的資金を投入しているために暴落が許されないというのもさることながら、株価が低迷すれば、日本経済の実態を糊塗できなくなってしまうのである。

しかしこれも合理的考え方をすると奇妙なものに思える。現在の日本政府の対応では感染拡大を防ぐことはできず、また長期化するのは避けられない。つまりは大量の死者のみならず、大量の生活困窮者をも生じさせてしまうのも確実である。そうなれば経済はますますひどい状態になってしまうではないか。

ここで安倍政権が経済を止めたくない第二の理由が浮かんでくる。それは安倍のイデオロギーによるものだ。安倍が経済を止めたくないのはなぜか、それは休業補償や個人への一律の現金給付をしたくないからである。休業補償や個人への一律の現金給付が財政上の理由によってできないために経済を止めたくても止められないのではなく(経済に麻酔をかけないことには、結果として長期的には財政状況をさらに悪化させるのは確実だ)、休業補償や個人への一律の現金給付をしたくないがために経済を止めたくないとすべきだろう。

布マスク配布にしろ、見せかけの「30万」給付にしろ、安倍政権は執拗に世帯単位にこだわるのであるが、これは実務的な理由からとは考えられない。安倍がこだわるのは家父長的「イエ制度」への復古であり、渡すにしてもあくまで家長に対してであって、分け隔てなく個人に給付されるなど受け入れがたいのであろう。

安倍や麻生太郎は貧乏人が生きようが死のうが関心がないと思っている人がいたとしたら、それは明確に間違いだと言っておく。安倍や麻生やその取り巻き連中は貧乏人に無関心なのではなく、貧しい人を憎んでおり、貧しい人は貧しいという理由によって罰を受けるべきであり、さらには貧しい人たちを痛めつけるのに嗜虐的快楽さえ感じるような連中なのである。

自民党から度々出る生活保護の現物支給案は、むしろコストの増大を招き、実務的にもナンセンスだ。しかしにも関わらずこれを主張する議員が跡を絶たないのは、無知であるのではなく、貧乏人は貧しいというだけで懲罰の対象とすべきだという発想によるものだろう。

安倍政権は生活保護費を引き下げ、それ以外にも懲罰的としかいいようのない嫌がらせを続けている。これはデフレからの脱却に明らかにマイナスに働く。つまりは、安倍は看板に掲げるデフレからの脱却が頓挫するのも厭わずに、貧困層への嗜虐趣味に勤しんでいるのである。

これは「ネオリベ」に多く見られる現象で、富裕層や大企業への累進性を強め社会保障を強化した方が安定的で持続的な経済成長をもたらすことになり、結果としてそれは富裕層や大企業の利益になるのがわかってはいても、貧乏人を踏みつけ痛めつけるという快楽を失いたくないのだ。健康のためなら死んでもいいよろしく、再分配を強化するくらいなら経済や社会が滅んだほうがマシなのである。

冷徹に、合理的に政策判断を下しているのではなく、不合理な政策は単なるイデオロギー的偏向によるものとすべきだ。

では安倍やその取り巻きはこのイデオロギーのためなら政治生命を失っても構わないと考えているのだろうか。そうではあるまい。権力を失うのを何よりも恐れているのは安倍とその取り巻きだ。見方を変えれば、安倍は阿鼻叫喚の地獄絵図が日本で繰り広げられることになっても、自分たちは権力を失わないと「合理的」に計算しているのである。

どれだけ膨大な死者が出ようが、生活困窮者が溢れかえろうが、「東京オリンピックで日本復活!」というエサさえ与えれば、これをしのげると考えているのだろう。オリンピックを2年ではなく1年の延期にしたのは、森喜朗がいうように安倍がワクチンが早期に開発されるのに賭けたのではなく(仮にそうだとしてもそんな賭けをすること自体が許されないが)、徹頭徹尾己の権力維持のためであり、それは日本社会と日本のメディアに対し高をくくっているところからくる判断なのであろう。

経済を止めたくないがゆえに対応を誤ったのは日本だけではない。アメリカ合衆国では、おそらくは2月中旬あたりにはすでに感染は拡がっていたのだが、トランプは大したことはない、「アンダーコントロール(!)」と叫び、無為無策のまま感染を拡大させた。日本ではあまり報道されないがトランプはワクチン陰謀論者でもあり、もともとが科学的思考ができない人物であるが、このような行動に走らせたのはそれよりも経済を止めたくなかったからであろう。

トランプがなぜ経済を止めたくなかったのかといえば、それは無論大統領選挙のためであった。一方でまた皮肉なことに、相変わらず支離滅裂な言動を繰り返しながらも、日本より迅速で広範な手当を行ったのは、これも選挙をにらんでのことであった。このままでは選挙に負けるという危機感がトランプと共和党に広範で大規模な給付を行わせたのである。

つまりは安倍の政策を変えさせる方法は一つしかない。突如公人としての使命感に目覚めるなどということは有り得ない下劣極まりない人物を変えるには、このままでは権力を失うという危機感を与えるしかない。このままでは選挙に負け、その結果お縄を頂戴することになると思えば、政策を変えざるを得ないだろう。実際安倍とその取り巻き官僚が、とりわけネット上での批判にこれまでになく神経を尖らせているのは間違いない。しかしそれはまだ布マスク2枚程度の危機感にすぎない。安倍内閣の支持率が半減し、自民党の支持率が野党に抜かれれば、政策は全く違ったものになるだろう。

以前から繰り返し書いているが、安倍政権の政策的なコアな支持層はせいぜい3割弱といったところだ。ではあとの十数パーセントはなにかといえば、もう一度政権交代をするくらいなら民主主義などやめていい、どれだけ腐敗し無能であろうとも安倍で構わない、政治など自民党と官僚に任せておけばいい、といったあたりだろう。しかし権力者が自分が権力を失うことがないと確信すれば、単に腐敗するばかりでなく、何をしようが選挙で負けることはないという「合理的」判断に基づき、不合理な政策に邁進することになってしまうのを、今目の前で見せつけられている。


韓国や台湾は、日本のメディアがつまみ食いするように単に検査件数やマスクの分配に優れていただけではない。キーとなったのはレジティマシーとアカウンタビリティーだ。専門的、科学的知見に基づき政策を立案し、透明性を確保し、説明責任を果たしている。とりわけ韓国は拡大防止のために個人情報を広く集めそれを公開するという、かなり危ういともいえる政策をとっている。では韓国人は安全のためなら民主を手放し、権威主義に屈し政府に盲従したのかといえばそうではないだろう。ムン政権は権力の濫用が起こらないように気を配ったし、強権化したのではなく、強権化しないよう、その懸念を与えないようにしたのであった。「韓国医療崩壊」デマは論外であるが、同時に韓国などの対策を都合よく切り取ることにも注意しなければならない。日本ではすでに憲法のせいで、人権のせいで強力な対策をとることができなかったというプロパガンダが繰り広げられているだけに、韓国政府が何をしたかと同時に、何をせずとも感染拡大を今のところ食い止めているのかも重要な教訓として学ばねばならない。

そのためにはやはり主要メディアの役割が重要となるのだが、安倍政権の感染症対策がOECD諸国で最低レベルであるように、日本のメディアのレベルもお粗末なものである。

日本のメディアが日本でしか流通しない概念や擁護を平気で使うのには異様な印象を受けるが、その中でも際立つのが「三密」と「オーバーシュート」だ。とりわけ後者は、専門家がうっかりジャーゴンを一般向けに使ってしまったのではなく、正式な専門用語でも一部で流通するジャーゴンでもないものをあたかもそうであるかのように装って使用するという悪質なものだ。専門家会議のメンバーのみならず政治家も好んで使うように、そこには何らかの意図があるのではないかと疑うべきである。メディアが果たすべき役割はそのような言葉をきちんと批判し、ミスリードを狙ったりいかようにも言い逃れできるような定義不能な造語を使用させないことだが、日本ではメディアは逆に無批判に「三密」や「オーバーシュート」を一緒になって垂れ流してしまうのである。

前述の通り、新型コロナ対策という点ではアメリカ合衆国のそれもひどいものであり、それは主としてトランプ政権の失政によるものであるが、世界最高峰とされていたアメリカのCDCの不手際もあった。国立感染研究所所長のアンソニー・ファウチは誤りや不手際を率直に認めた。腐っても鯛というべきか、アメリカでは広く尊敬を集めるファウチのような人物がそれでもいてくれるのであるが(ファウチがトランプに配慮して定義不能なわけのわからない用語を使い始めるというのはまず起こり得ないだろう)、日本の専門家会議は日本政府と一体化してしまう始末であり、さらにそこにメディアまで加担してしまっている。

韓国や台湾の政府は政策的正統性と説明責任に気を配っているが、日本政府の振舞いはその対極にある。そしてそれを許しているのはメディアの堕落という要素も大きいであろう。

2月には厚生労働省のホームページに機械翻訳を使っての珍妙な英文が掲載されたということもあったが、行政のホームページのデザインや機能性だけをとっても、韓国や台湾と日本では次元が違う状況にあるように思えてしまう。あえてこの言葉を使えば、日本はすっかり「三流国」になってしまったのだが、当の日本人はその現実から目をそらし続けている。これは表層的なものに限らず、国際的な比較における日本の官僚の「低学歴化」(つまり専門性の欠如)をはじめ、行政やメディアを含む企業の深い部分においてもそうであろう。ところがテレビをつければ、「ニッポンすごい! 世界がうらやむニッポン!」なるものが溢れかえっている始末だ。このような状況は単に精神を腐らせるばかりでなく、愚かな政策にも結び付き、人の命を左右する結果になっていることを、メディア内部の人間はまず自覚せねばならない。

この手の話となるとつい主要メディア批判ばかりしてしまうのであるが、それは最早テレビや新聞など必要ないということではない。この両者、とりわけ地上波のテレビの役割は極めて重要であると考えているからこそなのであるが、第二次安倍政権誕生以降状況は著しく悪化するばかりであり、それがさらなる絶望感となってしまうのである。
プロフィール

佐藤太郎(仮)

Author:佐藤太郎(仮)
shopliftersunionあっとhotmail.co.jp

最新記事
月別アーカイブ
カレンダー
03 | 2020/04 | 05
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
カテゴリ
twitter
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QR