渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

走りの真実 真実の走り

2019年12月04日 | 公開情報

『キリン』で描く東本劇画の描写は、創作
劇画でありながら「バリ伝」以上にリアル
だ。
何がリアルなのか。
走りの現実的描写がだ。

しかし、そのことを日本国内の乗り屋の
何人が見抜いているのだろう。
二輪にただ乗っているだけの乗り人では
ない。「乗り屋」である。
東本劇画は、乗れる乗り屋と乗れない
ダサ坊の乗り方のフォームまで描き分け
ている。(それは別項にて)

峠の走りはサーキットとはまるで異なる
のが現実世界だ。
すべてが異なる。
ただし、マシンの操作は同じだ。
だが、走りは異なる。
このことの弁別と意味も、どれだけの
乗り屋が解っていることか。

だが、少なくとも、劇画作家東本氏は
理解していることは描画から看破でき
る。
走行ライン、アクセルワーク、どこで
どうすればどうなるからどのように
すれば良いのか。
東本氏はすべて解っている。









































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この二代目キリンの青年は絶対に転倒
しない。しかし、爆速だ。
この悪のガルーダの中にあって、蒲生
はMCに走りと共走りを求めている。
悪のガルーダの良心ともいえる。
蒲生は、若い頃、MCに入るつもりは
なかった。
たまたま道で見かけた渡辺長介を
追いかけていて、チョースケの走り
に圧倒されて乗り屋に敬意を抱いた
のだった。
喫茶ランブル(とりとめないという
意味)のマスターの長尾泰三がずっと
初代キリンに憧憬にも似た経緯を
抱いていたような感情をこの蒲生は
チョースケに持っていた。
名も知らぬその走りを見せた長介に
若い蒲生は別れ際にSAでラーメンを
御馳走してもらい、とめどもなく涙
を流す。
東京から気づくと広島まで追いかけて
走っていたのだった。

蒲生は長介の姿を追いもとめて、似た
ような恰好をしていたMCガルーダ
のメンバーになったのだった。
いつかロードでまた出会えるかも
しれないと。
「あいつ、どうしているだろうなぁ」
と蒲生が思いを馳せるシーンが劇中
にある。
だが、その時、現実では、長介は
首都高バトルで四輪車の半グレチーム
にやられてしまい、トラックに巻き
込まれて死亡していた。とうの昔に。
蒲生が思い出すのは長介が死んでから
10年後のことだからだ。
だが、その蒲生も、ガルーダの
チンピラメンバーに刺されて公園の
トイレで死んでしまう。

この画像のシーンは、走りを愛した
ガルーダの蒲生が最後に箱根に走り
に行くシーンだ。
そこで蒲生は二代目キリンに偶然
出会う。
気づくと互いに敬意を抱き、二人で
朝まで箱根を走っていた。
キリンとガルーダの抗争がし烈化し、
やがて死人が出るだろうと予想され
たような中で、蒲生はキリンの事を
見たことがなかったので気づかな
かったのだった。

この箱根ターンパイクでの走りは
実にリアルだ。
ちなみに、キリンは私とまったく
同じ走り方をしている。
峠(やま)には峠の走り方がある。
サーキットとは異なる理屈が存在
する。
どうすれば安全に速く走れるのか。
このことは、バイクは自分を抑える
為に乗るものとか言ってる良俗たち
には絶対に理解できないだろう。
また、同時に、乗れてもいない人間
からバイクの運転方法を教わろうと
することがいかにバカバカしい事で
あることか。
教えるほうも、てめえが乗れても
いない、乗れもしないのに教えたがる。
高邁な安全運転指導者面して。
でもね、それって、根本的なところで
はものすごく危険なことなんだよ。
立脚基盤そのものが。

上の画像での、右コーナーと左コーナー
での走り分け、進入、旋回、脱出に
おける場面ごとの操作の使い分け。
なぜバンク角を浅く取っているのに
キリンは速いのか。
このことは『バリバリ伝説』の峠編
の中でも描かれていた。
グンのCBよりも、秀吉のカタナの
ほうがずっと起きていることを
小学生がグンに指摘するのだ。
だが、グンはあまり複雑なことを
考えられない頭脳なので、そのこと
の意味には高校生の時には気づかない。
勉強はそこそこできたようだが、
グリップを失って左右に揺れる
タイヤに対し「カレーライスにして
食っちゃうぞ!」と怒鳴るような
のがグンであり、あまり知性はない。
高校生の時のグンは感覚だけで走って
いた。ゆえに知的でクレバーな走り
をする秀吉の前を一度もグンは走れ
なかった。
そして、峠で死んだ秀吉の影を追う
ように世界グランプリにグンは行く
のだった。

走りの描写においては、『バリバリ
伝説』よりも『キリン』は現実に
近いどころか、異様なほどにリアル
に描き切られている。
しかし、繰り返すが、それをどれ
ほどの読者が、いや、読者のうちの
二輪乗り、もっと絞れば乗り屋たち
が作者の描写意図を正確に見抜いて
いることか。
なぜ二代目キリンは爆速であって
も一切転ばないのか。
これの答えは、作者が描く画の中に
すべて表現されているのである。

正解が解ったからといって、人に
言ったり、人に可否を確認するもの
ではない。
なぜならば、謎解きの答えは、自分
の走りと有機的に結合しなければ
全く意味を持たないからだ。
言葉よりも走り。空想夢想語りより
も現実。不言実行。
バイクとはそういうものだ。

バイクの世界、評論家が乗れてると
いうことは、古今東西、聞いたことが
ない。




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