思いの外「The Last of Us」の考察が好評なので、もう少し補足と本作の脚本家に対する反論とを兼ねて再考してみる。

 

ゲームに限らず、映画でも小説でも、すべての芸術作品に関して言えることだと思うが、作者が意図した通りには作品が仕上がることはない。意図して、計画通りに作品が出来たとしても、それが傑作と呼ばれるものになるとは限らないということだ。

 

逆に、作者が意図していない、あるいは無意識のうちに作品に吹き込んだ芸術性とでも言えばいいのか、そういったものが作品に宿ることがある。さいきんの例で言えば「万引き家族」などがそうかもしれない。あの作品の監督はある種のイデオロギーを懐きつつ制作に挑んでいるようなことを述べていたが、それがそのまま作品には投影されずに多くの共感を呼んでいるのは好例と言える。

 

もし監督のイデオロギーが作品において見事に表現されていたなら、ここまでの好評は得られはしなかったはずだ。同じことが「The Last of Us」にも言える。制作に携わった脚本家によれば、「エリーは、ジョエルが嘘をついたことに気づいており、そのことに失望している」とのことだが、この筋から本作を捉えると、実につまらない作品になってしまう。

 

ジョエルの見え見えの嘘に、エリーが気づいて失望などするはずがない。エリーはジョエルがなぜ嘘をついたのかくらいお見通しだからだ。伊達に二人で修羅場を潜ってきたわけではない。初めはジョエルはエリーにとって保護者であったに違いないが、ジョエルが瀕死に陥った際、エリーの奮闘によって命を救われた後は、エリーは既に戦士として成長を遂げている。

 

さらにエリーは過酷な環境のなか人間的にも成長している。彼女は人を信じることと、疑うこととを既に学んでいる。信頼関係を築いてよい相手かどうかの峻別を、まるで「マッド・マックス」のような世界のなかで身につけているのだ。それも当然で、そうでなければ簡単に騙され裏切られて、蹂躙されるのがオチだ。そんな世紀末的状況では生き残るためには、必須の処世術と言っていい。

 

そんなエリーにジョエルがなぜ自分に嘘をついたのかくらい察せないはずがないわけで、彼女はジョエルが人類の存続と自分の命とを天秤にかけたとき、自分を選び、さらに自分を傷つけまいとして咄嗟に思いついた嘘だということを直感したはずなのだ。それはジョエルにとって守りきれなかった娘に対する贖罪意識から生まれたエゴかもしれない。が、我が子を守ろうとする親の慈愛の裏返しでもある。

 

また、特に大の男にとって、弱い者、つまり女、子供は保護すべき対象だ。と言えば、男女平等論者に叱られそうだが、しかし、男性にとって愛すべき存在である女性や子供、特に我が子であれば、それらを生命を賭して守ることは男の本懐であると言える。その失敗は男性性の否定にも繋がり、男としての存在意義を問われることになる。そうでなければ、ジョエルは娘の死をあれほど苦しまないはずだからだ。

 

エリーはジョエルがある程度自分に娘を重ねていることに戸惑いながら、それでもその想いを受け止めている。彼女も親を亡くした子供だから、自分を保護してくれる大人を求めることは自然の感情だろう。彼女が無意識に親を求めていても全然不思議はない。つまり二人は擬製的な父娘関係にあると言っていいだろう。

 

そうであれば、エリーがジョエルの嘘に気づいたところで、簡単に失望するはずがないと考えても無理はない。むしろ人類の救済という大義よりも、自分を選んでくれたのかと喜んでもいいくらいだろう。とはいえ、エリーはその大義に殉じる覚悟を固めていたのだから、喜ぶことはしないだろう。事実、彼女は喜んではいなかったし、無念の思いもあったのかもしれない。

 

いずれにせよ、エリーは生き残った。いや、生き残ってしまった。あれからジョエルと別れて研究施設へ引き返すことも出来たが、それをしなかったということは、彼女自身も生きることを選択したからだ。それはつまり人類に対する裏切り行為なのだが、嘘だと知りつつあえて本当だとエリーがジョエルに誓わせることで共犯関係になった。

 

強調するが、ジョエルが自分から嘘を本当だと取り繕うために、嘘に嘘を上塗りしたのではなく、エリーがジョエルに嘘の上塗りを自ら積極的に強要したことが重要なのだ。ジョエルの人類に対する裏切り行為はジョエルにのみ着せられる罪だった。ジョエルは嘘をつくことでエリーに生き残ることに罪の意識を持たせまいとしていたのだが、エリーが嘘に気づいた時点でそれはもう失敗している。

 

失敗した以上もはや嘘を続ける道理はない。にもかかわらず、エリーはジョエルに本当だと誓わせている。共犯関係になったのなら、強固なパートナーとしての関係の可能性が生まれる。そうなれば別れる理由はなくなる。「The Last of Us」は「我々人類の最後」ということになり、エリーがジョエルに失望し別れることはありえない無理筋だと考える。

 

ところで、実はジョエルはここで、親であれば採る選択を誤っている。というのも、エリーが自分に嘘を本当だと誓わせた時に、嘘を見抜かれていることに彼は気づいたはずだ。気づかないまでも、エリーが嘘に疑いを持っていて、将来それが露見してしまう可能性があることは直感できたはずだ。そうなれば、エリーは自分を責めることは自明のことだろう。ならば彼が採るべき行動は一つ、嘘を嘘だと白状し、その上でエリーを腕尽くでも研究施設に引き返させないようにすることだ。

 

そのせいでジョエルはエリーに恨まれるかもしれない。が、エリーは罪の意識を持つことから免れるのだ。なぜなら、自分は人類のために研究施設に引き返したかったが、ジョエルが横暴にもそれを許さなかった、と言い訳が成立するからだ。しかしジョエルはそれをしなかったのはなぜか。おそらくエリーと離れたくなかったからかもしれないが、そこはわからない。

 

いずれにせよ、彼はエリーに罪の片棒を担がせてしまった。だから彼は誤ったというわけだ。親であれば子に罪を背負わせるようなことはしない。子のためになら悪魔に魂を売り、地獄にでも堕ちられるのが親というものだ。それをしなかったということは、やはり娘ではなかったせいか、あるいは成長したエリーを共犯関係にもなれるパートナーとして認めていたせいか。

 

もしジョエルが嘘を嘘だと白状する選択をしていたならば、エリーとは一緒にはいられないだろう。なぜなら人類を裏切った男と一緒にいては、人類に対しても、また自分に対しても言い訳が成り立たないからだ。ジョエルを許しては自分も裏切り者になってしまう。ならば、別れる他ない。そしてエリーはジョエルのもとを去り、「The Last of Us」は「我々人類の最後」であり、「私たち二人の最後(別れ)」とってなっても良かっただろう。

 

そうなればジョエルは娘に果たせなかった、親としての使命を全うすることができる。親として子を守り、成長させ(戦士として)、巣立たせる(別れる)という使命を。円満な別れにはならないだろうが、親は子が自立するためには恨まれるのも仕事のうちだ。エリーもエリーでジョエルの気持ちを酌み取って彼を恨みきれないだろうが。

 

しばらくして最後に立ち寄った水力発電所から、エリーは黙々と旅支度をして去っていくだろう。その際、ジョエルとエリーは言葉少なに別れるはずだ。

 

ジョエル「もう行くのか」

エリー「うん」

ジョエル「その・・・気をつけて行けよ」

エリー「わかってる」

ジョエル「・・・・・・」

エリー「・・・・・・じゃあ」

ジョエル「ああ・・・・・・」

 

振り返らずに去っていくエリー。そんな情景をぼくは勝手に想像する。