表町通信
大学に入学してまもなく、野村修の『バイエルン革命と文学』をぱらぱら読んだ。無知な私に、周囲の知人があきれて勧めた本だと思うが、それが誰かを覚えていない。とにかく、その冒頭で野村は次の意味のことを書いていた。若いブレヒトがルクセンブルクの死を歌った詩=「くれないのローザのバラード」は、数行を除いて散逸したと伝えられるが、決してそうでない。誰も気付いていないが、この主題は後年の作品=「水死したむすめについて」の中に、換骨奪胎されて生きている。その最終連で、「あおざめたからだが水のなかで腐ってゆくと(略)/かの女はもう腐肉、無量の腐肉とともに。」と歌った時、ブレヒトは隠された「ローザの影」を通じて、オフェーリア伝説を解体しようとした。「水死した女性」を純白な「百合の花」や「高山の雪」でとらえる、ランボー以来の美的なイメージの克服を試みたのだ、と。
分析は、見える詩の中に見えない主題を見いだそうとしている。心が少し動いて、これが「批評」なのか、とあの時確かに感じた。だが時間が経つにつれ、この発見には何か芯棒がない、とも思えてきた。「百合の花」を裏返した醜悪な「腐肉」は、前者を破壊しそれを必要十分に切断しているか。それは、繊弱で美的な性質を本当に脱していると言えるのか。同じことが野村の仕事、というより彼がこだわるブレヒトの仕事全体に言える。『夜打つ太鼓』が示す所の、スパルタクス・ブントに対する主人公の反射的で軽薄な関与――そこから始める限り、この戯曲家が正面からルクセンブルクを扱える日は来ないだろう。彼女を主人公とする戯曲は、ブレヒトの私的事情でなく発想自体の根本的錯誤によって、永久に「構想中」に終るだろう。何より、あの小難しい「真実を書くさいの五つの困難」、特にその第五「策略」の章が疑わしかった。ある時私は、この章が成功例として引くエピソードがいずれも、思想家達の短期的な、その時点での技巧的な抜け目なさにかかわるもので、物事を率直に、公開的に言わない習俗が革命運動にもたらす長期的な打撃 を、少しも考慮できていない事実に気付いた。活動家であれ学者であれ今日の日本の臆病者達が、この章を何かと言えば、自分が真実を言わない ( ための小利口な居直りとして使っている事実に気付いた。
それに比べると、ルクセンブルクがレッシングやフッテン(マイヤー)から学んだ、簡潔で明快なあの格律が私ははるかに好きだった。「真理を教えようとするなら、完全に教えるのが義務だ。曖昧に、どっちともつかず、謎めかして、遠慮しながら、真理の力を信頼せずに教えたりしてはならぬ」。ブレヒトの長たらしい五章を、この透明な素朴さが圧倒していた。策略や擬装転向の豊かさ(?)についての無限のおしゃべりは、愚行への加担を卑しく値引きするちゃっかり屋の自己合理化か、やれる時にやるべきことを回避した、弱虫の長々しい自嘲に帰着する。「腐肉」を熱唱する者には、いつも肝心の「骨」が欠けている。
――以上は白痴のたわごとにすぎない。だが、かなり後に土本典昭の『パルチザン前史』を見た時、幼い疑問は根拠ある確信に強まった。主人公(竹本信弘=滝田修)や仲間の京大生どもの浅薄さを、後出しであざける必要は感じなかった。ラジオ体操レベルの軍事教練等は無様な限りだが、その恥しさは彼ら自身が痛切に、むしろ過剰に大げさに自覚していた。真の不幸は、自覚し意識するだけではその無様さから決して脱出できない事実にあり、これら全てを明るみにするのが、映画の終盤に出てくるルクセンブルクの「骨」だった。
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更新日:2020年1月18日
/ 新聞掲載日:2020年1月3日(第3321号)
表町通信 ・1月 ―― ローザ・ルクセンブルクの頭蓋骨
第2回
ローザの真理がブレヒトの策略を圧倒する
大学に入学してまもなく、野村修の『バイエルン革命と文学』をぱらぱら読んだ。無知な私に、周囲の知人があきれて勧めた本だと思うが、それが誰かを覚えていない。とにかく、その冒頭で野村は次の意味のことを書いていた。若いブレヒトがルクセンブルクの死を歌った詩=「くれないのローザのバラード」は、数行を除いて散逸したと伝えられるが、決してそうでない。誰も気付いていないが、この主題は後年の作品=「水死したむすめについて」の中に、換骨奪胎されて生きている。その最終連で、「あおざめたからだが水のなかで腐ってゆくと(略)/かの女はもう腐肉、無量の腐肉とともに。」と歌った時、ブレヒトは隠された「ローザの影」を通じて、オフェーリア伝説を解体しようとした。「水死した女性」を純白な「百合の花」や「高山の雪」でとらえる、ランボー以来の美的なイメージの克服を試みたのだ、と。
分析は、見える詩の中に見えない主題を見いだそうとしている。心が少し動いて、これが「批評」なのか、とあの時確かに感じた。だが時間が経つにつれ、この発見には何か芯棒がない、とも思えてきた。「百合の花」を裏返した醜悪な「腐肉」は、前者を破壊しそれを必要十分に切断しているか。それは、繊弱で美的な性質を本当に脱していると言えるのか。同じことが野村の仕事、というより彼がこだわるブレヒトの仕事全体に言える。『夜打つ太鼓』が示す所の、スパルタクス・ブントに対する主人公の反射的で軽薄な関与――そこから始める限り、この戯曲家が正面からルクセンブルクを扱える日は来ないだろう。彼女を主人公とする戯曲は、ブレヒトの私的事情でなく発想自体の根本的錯誤によって、永久に「構想中」に終るだろう。何より、あの小難しい「真実を書くさいの五つの困難」、特にその第五「策略」の章が疑わしかった。ある時私は、この章が成功例として引くエピソードがいずれも、思想家達の短期的な、その時点での技巧的な抜け目なさにかかわるもので、
それに比べると、ルクセンブルクがレッシングやフッテン(マイヤー)から学んだ、簡潔で明快なあの格律が私ははるかに好きだった。「真理を教えようとするなら、完全に教えるのが義務だ。曖昧に、どっちともつかず、謎めかして、遠慮しながら、真理の力を信頼せずに教えたりしてはならぬ」。ブレヒトの長たらしい五章を、この透明な素朴さが圧倒していた。策略や擬装転向の豊かさ(?)についての無限のおしゃべりは、愚行への加担を卑しく値引きするちゃっかり屋の自己合理化か、やれる時にやるべきことを回避した、弱虫の長々しい自嘲に帰着する。「腐肉」を熱唱する者には、いつも肝心の「骨」が欠けている。
――以上は白痴のたわごとにすぎない。だが、かなり後に土本典昭の『パルチザン前史』を見た時、幼い疑問は根拠ある確信に強まった。主人公(竹本信弘=滝田修)や仲間の京大生どもの浅薄さを、後出しであざける必要は感じなかった。ラジオ体操レベルの軍事教練等は無様な限りだが、その恥しさは彼ら自身が痛切に、むしろ過剰に大げさに自覚していた。真の不幸は、自覚し意識するだけではその無様さから決して脱出できない事実にあり、これら全てを明るみにするのが、映画の終盤に出てくるルクセンブルクの「骨」だった。
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