表町通信
彼女は「死体」をたじろがずに見ていた。「ショックだ」としょげる代りに、進んで「血と肉をわけた仲間」を「抱きあげ」、彼らと肩を並べて「声たかく叫」んでいた。同情や思いやりでそうしたのでない。それは、カスプシャクの処刑直後に「革命万歳!」を書いた動機が、ただの同志愛から来たのでないのと同じだ。戦いの性質がルクセンブルクにそれを強いるのだ。革命運動に参加し、それを創造することそのものが、死者への視線を――死者との実践、それとの共同行動を我々に求めずにいないのだ。その協働の仕事の延長上に、今度は自分が「口をきかぬ、みにくい一個の物体」と化す順番を、彼女は自ら引き受けたのだ。
「スパルタクス・ブントは何を求めるか」や「綱領について」は、今なおいくつもの「革命の条件」を読者に教える。我々の目的が単なる政治革命でなく社会革命であること、正確には革命を実現する過程の大衆的で多様な広がりが、当の実現目標と決して切り離せないこと、そこでは一人一人が下からの政治変革に参加し、あらゆる政治権力の行使が絶えず全ての人民の統制にさらされること、そのために我々は、闘争のただ中で闘争することを学び、大胆な政治行動のただ中で政治的な創造性と作戦計画の熟練を身に付けねばならないこと――これら全てを、彼女は誰よりも強力に教え続けている。だが私見では、意識的に「綱領」として明示し、言語化しなかったにもかかわらず、ルクセンブルクがその「批評」の全体を通じて生きぬいた決定的な条件がもう一つある。それは、運動における死者と生者の対等 、という理念である。革命運動の絶えざる核心たるみずみずしいインターナショナリズムが、ただ生者同士の差異、貧富や民族や社会的境遇の差異を乗りこえさせるだけでない、それは死者をも生者と対等で平等な存在に変えるという理念、それを通じて死者達が初めて「らっぱよりも大きな声で語り、炬火よりも明かるい光を放」ち始める、という理念なのである。
「死者」と言っても、所詮はめでたい大往生でしかない死にざまを、自ら渋面をつくろい憤死に見せかける、小雑魚の末路が問題でない。「生者」と言っても、その場限りの賞味期限を競い合ってはひからびる、目立ちたがりやほめられたがりは元々数に入っていない。にもかかわらず、状況打開の決定的な手がかりがこの理念の実現にあるのは確かだ。たとえば、今日の自称 ( 左翼諸党派の愚行の習俗を思うがいい。議会主義であろうと、ボルシェヴィズムであろうと、「死者」の言葉をそれそのものとして語らせることに少しも関心がなく、「生者」の打算と自己都合のためなら、それらを一切の歯止めなく歪曲し「なかったこと」にしてはばからない、あの吐き気をもよおす積年の悪習を考えるがいい。カウツキーがエンゲルスの「序文」を改竄して自らの議会主義を権威づけ、ジノヴィエフやスターリンが「ルクセンブルキズム」をでっち上げたあげくそれを得意気に排除してみせた――左翼の亜流にとって、それらは自明の初歩的範例でしかない。結局彼らは、何らかの対象(「資本家的生産様式」でも「天皇制」「封建遺制」でも何でもいい)を打倒しようとして、当の対象の卑しい習俗にのみこまれ、それらを縮小再生産しているにすぎない。それに対して、「死者と生者の対等」に固執し、これを活動の絶対的な原則とする批評運動が出現したらどうか。客観的に、この運動がルクセンブルクやヨギヘスの苦難を再びたどることは避けられない。だがその実践を欠く限り、我々が不倶戴天の敵を根こそぎ変革し、しかも「左翼」を内側から透明に自己浄化しうる可能性も全くない。
おそらく、ルクセンブルクの理念は革命運動の時間性への洞察から生まれた。革命が我々を「砂漠をこえるユダヤ人」に変え、この運動の担い手たる誰もが特定の時点で「みにくい一個の物体」と化すほかない事実、その平等と対等とを彼女が直視する所から生まれた。それについては、「革命運動の精神――特にその時間性の問題」(『メタポゾン』11号)で書いた。今や、我々自身が自らの状況下で、自分の言葉で「死者と生者の対等」を生みだすべき時だ。別に「ベルリンの浮浪者の死体」やルクセンブルクの頭蓋骨に限らない。思い付くまま、『死首のゑがほ』の宗や『鋳剣』の眉間尺、あるいは『地底の原野』の山本詞を挙げてもいい。今日彼らの実践と深く交響し、互いに入り乱れて新たな戦線を構築し、めざましい作戦を死者とともに創造する、力ある生者の言葉がどこにあるか。「批評」にとって、それを見いだすことが「あたらしい闘争の年」=明日の考察を作りだすことである。生きながらにして死者と化したあの連中、歯止めなく生きていることでそのまま「腐肉」の塊になり下がる連中を揚棄する条件なのである。
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更新日:2020年1月18日
/ 新聞掲載日:2020年1月3日(第3321号)
表町通信 ・1月 ―― ローザ・ルクセンブルクの頭蓋骨
第4回
死者と生者の対等
彼女は「死体」をたじろがずに見ていた。「ショックだ」としょげる代りに、進んで「血と肉をわけた仲間」を「抱きあげ」、彼らと肩を並べて「声たかく叫」んでいた。同情や思いやりでそうしたのでない。それは、カスプシャクの処刑直後に「革命万歳!」を書いた動機が、ただの同志愛から来たのでないのと同じだ。戦いの性質がルクセンブルクにそれを強いるのだ。革命運動に参加し、それを創造することそのものが、死者への視線を――死者との実践、それとの共同行動を我々に求めずにいないのだ。その協働の仕事の延長上に、今度は自分が「口をきかぬ、みにくい一個の物体」と化す順番を、彼女は自ら引き受けたのだ。
「スパルタクス・ブントは何を求めるか」や「綱領について」は、今なおいくつもの「革命の条件」を読者に教える。我々の目的が単なる政治革命でなく社会革命であること、正確には革命を実現する過程の大衆的で多様な広がりが、当の実現目標と決して切り離せないこと、そこでは一人一人が下からの政治変革に参加し、あらゆる政治権力の行使が絶えず全ての人民の統制にさらされること、そのために我々は、闘争のただ中で闘争することを学び、大胆な政治行動のただ中で政治的な創造性と作戦計画の熟練を身に付けねばならないこと――これら全てを、彼女は誰よりも強力に教え続けている。だが私見では、意識的に「綱領」として明示し、言語化しなかったにもかかわらず、ルクセンブルクがその「批評」の全体を通じて生きぬいた決定的な条件がもう一つある。それは、運動における
「死者」と言っても、所詮はめでたい大往生でしかない死にざまを、自ら渋面をつくろい憤死に見せかける、小雑魚の末路が問題でない。「生者」と言っても、その場限りの賞味期限を競い合ってはひからびる、目立ちたがりやほめられたがりは元々数に入っていない。にもかかわらず、状況打開の決定的な手がかりがこの理念の実現にあるのは確かだ。たとえば、今日の
おそらく、ルクセンブルクの理念は革命運動の時間性への洞察から生まれた。革命が我々を「砂漠をこえるユダヤ人」に変え、この運動の担い手たる誰もが特定の時点で「みにくい一個の物体」と化すほかない事実、その平等と対等とを彼女が直視する所から生まれた。それについては、「革命運動の精神――特にその時間性の問題」(『メタポゾン』11号)で書いた。今や、我々自身が自らの状況下で、自分の言葉で「死者と生者の対等」を生みだすべき時だ。別に「ベルリンの浮浪者の死体」やルクセンブルクの頭蓋骨に限らない。思い付くまま、『死首のゑがほ』の宗や『鋳剣』の眉間尺、あるいは『地底の原野』の山本詞を挙げてもいい。今日彼らの実践と深く交響し、互いに入り乱れて新たな戦線を構築し、めざましい作戦を死者とともに創造する、力ある生者の言葉がどこにあるか。「批評」にとって、それを見いだすことが「あたらしい闘争の年」=明日の考察を作りだすことである。生きながらにして死者と化したあの連中、歯止めなく生きていることでそのまま「腐肉」の塊になり下がる連中を揚棄する条件なのである。
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