表町通信
数か月前、本紙の編集長と久しぶりに岡山で話した。心に屈託する所があったのか、彼はめずらしく泥酔し、俺がくたばる前に一度でいいから論壇時評を書け、最後の依頼だと言い出した。とうに閉店時間をすぎた、がらんとした呑屋の空間に、彼の声が声そのものとそのこだまの二つに割れて、後者がわずかに遅れて届く。かなり昔、大西巨人の与野の自宅に二人で定期的に通った帰りも、どこかで時々これを経験した。
私には彼に感謝と借りがある。それは、最近の私が書評でも何でもない文章ばかり、本紙に寄稿してきた事実が端的に示している。今日の言論状況において、様々な苦情や嫌がらせが、しかも匿名の陰湿なそれが届いたはずなのに、彼は一度もその件を話そうとしない。毎回原稿がそのまま掲載される事態に、かえってこちらが当惑(?)したほどだ。だから書くしかないが、一つ問題がある。私には、この執筆をどうしても「論潮」の題名でやれない。大まかな理由は以上で示したが、『世界』や『中央公論』等のかびの生えた美文はもちろん、そもそも朝日や読売レベルの駄文を誰かに毎日読ませること自体、罰ゲームでなければ単なる犯罪だ。自主規制や忖度の後のうわずみから、何かの胎動が生じることはない。だから工夫する。「工夫」と言っても、好き勝手に読み、好き勝手に書き散らすだけだが――それで構わない奴は、毎月勝手に読むがいい。(最後に一言。感覚的に、私はルクセンブルクを気安く「ローザ」と呼びたくない。できるだけ「ルクセンブルク」と呼んできたし、今後もそう努めるが、やむなく名前で呼んだ場合、それは主に字数の都合のせいである。)
追記――初稿送付後まもなく、『思想』12月号のルクセンブルク特集が刊行されたが、すでに詳述する紙面がない。一つだけ、酒井隆史が(主にゲランに依拠して)彼女の大衆ストライキ論とアナキストのゼネラルストライキ論の「深い共鳴」を説いた個所(「赤いローザと黒いローザ」の「二」)、この視点は平板で「またかい」「よくあるパターン」だと感じた。これでは、論者に興味ある発言同士の類似を要素的にとりだせても、ルクセンブルクに固有の思考を批評的で創造的な統一 として決して理解できない――私が言うのは、一方でカウツキーの議会中心主義を徹底破壊し大衆ストライキをそれに対置しながら、他方で議会の反革命性を公開的に弾劾しそれとの闘争を広く訴えるためにも議会への参加が不可欠だと主張する(そのため共産党結成時にも少数派になってしまう)、彼女のみかけ上の ( ジグザグのことである。革命的な闘争と日常的な闘争、法創設的な闘争と現行法内部の闘争を一挙に同時に結合させる、改良主義者/ボルシェヴィキ/アナキストのいずれにも存在しない、原理的な二正面作戦の選択とそれを促す根拠のことである。釈迦に説法だが、現象としてのゼネスト(大衆スト)「評価」だけなら、ルクセンブルクやバクーニンはおろかベルンシュタインすら試みたことであり、今日の決定的課題はあくまで一歩先、その政治的意味付与の固有性を把握することにある。少くとも、彼女はバクーニン派と違って、ゼネストが「四週間以内」にブルジョアを屈服させる云々と一切書いたことはなく、この差異は戦術的都合どころか、革命の超長期性への洞察の有無にかかわるが、酒井に限らず、アナキスト連中はいつもこの急所を避けていないか(なお、45頁下段の「ユニウス・ブロシューレ」は「大衆ストライキ・党および労働組合」の誤記か)。
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更新日:2020年1月18日
/ 新聞掲載日:2020年1月3日(第3321号)
表町通信 ・1月 ―― ローザ・ルクセンブルクの頭蓋骨
第5回
「論潮」から「表町通信」へ
数か月前、本紙の編集長と久しぶりに岡山で話した。心に屈託する所があったのか、彼はめずらしく泥酔し、俺がくたばる前に一度でいいから論壇時評を書け、最後の依頼だと言い出した。とうに閉店時間をすぎた、がらんとした呑屋の空間に、彼の声が声そのものとそのこだまの二つに割れて、後者がわずかに遅れて届く。かなり昔、大西巨人の与野の自宅に二人で定期的に通った帰りも、どこかで時々これを経験した。
私には彼に感謝と借りがある。それは、最近の私が書評でも何でもない文章ばかり、本紙に寄稿してきた事実が端的に示している。今日の言論状況において、様々な苦情や嫌がらせが、しかも匿名の陰湿なそれが届いたはずなのに、彼は一度もその件を話そうとしない。毎回原稿がそのまま掲載される事態に、かえってこちらが当惑(?)したほどだ。だから書くしかないが、一つ問題がある。私には、この執筆をどうしても「論潮」の題名でやれない。大まかな理由は以上で示したが、『世界』や『中央公論』等のかびの生えた美文はもちろん、そもそも朝日や読売レベルの駄文を誰かに毎日読ませること自体、罰ゲームでなければ単なる犯罪だ。自主規制や忖度の後のうわずみから、何かの胎動が生じることはない。だから工夫する。「工夫」と言っても、好き勝手に読み、好き勝手に書き散らすだけだが――それで構わない奴は、毎月勝手に読むがいい。(最後に一言。感覚的に、私はルクセンブルクを気安く「ローザ」と呼びたくない。できるだけ「ルクセンブルク」と呼んできたし、今後もそう努めるが、やむなく名前で呼んだ場合、それは主に字数の都合のせいである。)
追記――初稿送付後まもなく、『思想』12月号のルクセンブルク特集が刊行されたが、すでに詳述する紙面がない。一つだけ、酒井隆史が(主にゲランに依拠して)彼女の大衆ストライキ論とアナキストのゼネラルストライキ論の「深い共鳴」を説いた個所(「赤いローザと黒いローザ」の「二」)、この視点は平板で「またかい」「よくあるパターン」だと感じた。これでは、論者に興味ある発言同士の類似を要素的にとりだせても、ルクセンブルクに固有の思考を批評的で創造的な
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