by misumi on 7月 1, 20127:22 PM
TYPE-MOONとビジュアルノベルの10年



坂上:少し射程の長い話になりますが、ビジュアルノベルでは90年代後半の作品と2000年代半ば以降の作品では大きく雰囲気が変わっていると思うんです。前者は作品のトーンがひたすらに暗かったり過度な狂気を孕んだりしていたけれど、後者になると分かりやすい萌えの記号を安定供給してくれる作品が売れるようになった。たとえば今18歳の子って生まれたのが1993年になるから、平成不況の真っただ中に生まれ落ちて、思春期を過ぎたら大震災と原発事故を経験することになっている。だから希望というものが凄くイメージしにくくなっているはずなんです。そうすると強い希望を提供してくれる物語よりも、気軽に楽しめてコミュニケーションツールにもなるような作品に目が向くというのも自然なことかもしれない。そこよりも10歳や20歳上の世代になると、今度は地下鉄サリン事件という人為的な大事件、人間が持つ狂気というものを体験していることになる。だからこそTacticsの『MOON.』のようにオウム真理教をモチーフとした作品を、不気味さを覚えつつ楽しめるような回路を持っている。そうした狂気が今成立するのかというのはやはりひとつ疑問としてあるんですよね。

奈須:『月姫』と『Fate』の違いで言うと、『月姫』は旧世代のゲームに属していて、主人公の志貴は自己認識が確立しておらず自分の傷を世界に対してオープンにするキャラクターになっています。「僕はこんなに厳しい状況にある。それを分かってほしい」ということをテーマにしている。『新世紀エヴァンゲリオン』に限らず、90年代後半までは色々なジャンルで行き詰った主人公が「僕は世界から見放されてるんだよ。もっと構ってよ」と主張する物語が描かれてきました。それが可能だったのは、まだバブルの残り香があって余裕を持っていたからだと思うんです。人々に、他人の傷に目を向けるだけの余裕があった。ところが2000年代に入ると、みんなが完全な個人主義になって他人の傷に構っていられなくなった。「お前はそう言うけど、俺だってツラい」という状況に陥ってしまった。そこで傷をアピールされても正直ひいてしまうんですよね。そうしたこともあって、『Fate』では本人ですら自分の傷に気づいていない男を主人公にしました。彼は凛やセイバーに指摘されないと自分が傷ついていることすら分からない。こういった形で時代が変わっていったんだろうと思います。90年代までは自分の傷をアピールする主人公、2000年代は自分の傷に気づきすらしない我々の比喩としての主人公。ここから先はどのような主人公が受け入れられるようになるのかは、時代を見ていかないと分からない。……まあ、どのタイプの主人公どころか、“もう主人公さえいらない”物語がメインになる日も来るとは思いますが。

坂上:もうひとつ重要な点として、ビジュアルノベルというジャンル内部だけで考えてもいわゆる「ボーイ・ミーツ・ガール」のイメージが変わってきていることが挙げられます。単に男性主人公がヒロインを救う物語というイメージからは離れてきているように感じる。『Kanon』や『AIR』といったkey作品がこれまではそうしたイメージを作ってきたと思うんですが、現在では作品内における女性は単に守られるだけの存在ではなくなっている。少年が一方的に頑張って少女を救うのではなく、共に闘ったり行動したりすることで初めて世界が開けるような構造を持つものが増えています。

奈須:ジェンダー的に単に女性が上位に行くということではなく、共存している状態ですね。

坂上:タカヒロさんの『つよきす』や女装男子ものである『るいは智を呼ぶ』のような作品をプレイすると、性的なバランスがビジュアルノベルの中で大きく変わってきていることが分かりますね。

武内:物語内に男性が不在でも問題ないというケースが増えている。

奈須:『東方』のヒットで一番驚いたのは、自分を投影する男の子が作品内に存在しなくても成り立つ方法論があるということでした。もう自分を作品内に送り込まず、あの可愛く作られた世界を眺めているだけでもOKなんだな、と。

武内:男性側が自分も可愛い女の子になりたいという風に感じ始めたということもあるでしょう。今美少女ゲームが売れなくなってきている理由として、単純に男の子たちの性欲が減ってきたということもあると思うんです。

奈須:草食系どころかとうとう草そのものだったと言われていますからね(笑)。家族を持っても国に未来がないという気持ちもあるだろうし、娯楽が異様に増えてしまったこともあって、この国では最早奥さんや子供を持つことだけが正解ではなくなっている。そうした感覚が2000年代に入ってから続いている以上、男尊女卑に戻すのは難しいと思いますよ。

村上:オタク文化が封建的な構造から女性上位の世界にスライドしたとして、どうもそれが新しい物語を生み出すということはない気もするんですけどね。『けいおん!』って女性上位の典型的なものですけど、そこに物語はないじゃないですか。

奈須:いや、あれは女性上位というより単に男性不在だと考えるべきでしょう。女の子を一番大事にしているように見えるけど、男をそもそも登場させないなら敵対勢力のいないファームを作っているに過ぎない。そういった意味では、女性をよりマスコット化……軽視しているかもしれない。作り手側ではなく、視聴者側が。自分の作品で言えば、僕はしばしば「奈須さんは女性の権利を認めていますよね、強い女の子が活躍する物語を書いているから」と言われて、自分でも納得していたんですが、最近そうじゃないのかも、と思いはじめました。『月姫』にしろ『Fate』にしろ、前線で闘うのはアルクェイドやセイバーといったヒロインで主人公は後ろにいる。『空の境界』にしたって、戦闘はヒロインである両儀式に任せっぱなしで、主人公の黒桐幹也はやっかいなヒロインに餌を与えるだけの男になっている。これってなかなかひどい男尊女卑の構図ですよ。暴力としての強さと心の強さという二つの強さを考えた時に、獲得するのが難しいのは後者でしょう。武器を手にしてしまえば誰でも強くなれてしまうけど、メンタルな強さというのは物を手にするだけでは得られない。奈須きのこの作品は戦闘面での強さをヒロインに預け、男性キャラには心の強さを象徴させている。これに気づいた時、自分の中にも凝り固まっている部分があるんだな、と感じました。たとえばアルクェイドはTYPE-MOONの世界で最強だと言われているけれど、同時に志貴にベタボレなので彼のいうことには負けてしまう側面も持っている。その時点で男性の方が上位になるわけです。本当にフラットに行くんだったら、アルクェイドは有り余る破壊力を用いて志貴をぶっ飛ばせばいいんですよ。「この二股野郎が!」って感じで(笑)。

坂上:アルクェイドは強い二面性を持った特殊なヒロインですよね。普段志貴と話している時はアーパー吸血鬼と言われていたように幼児性や純粋性を見せるんだけど、話題が真祖の起源や敵の正体に及ぶと途端に真祖の姫君としてのシリアスモードに移行する。




奈須:ちゃんと力を持ったヒロインには、それに応じた精神スペックを持っていてもらいたい気持ちがありますから。凛もセイバーもアルクェイドも単におバカなヒロインではないんです。ただ、心が強いだけの主人公がそうした完璧なヒロインに何かを悟らせるということ自体が、現実社会では男の方が勝つという構造のメタファーに見えないこともない。フラットな世界を目指すのなら、『けいおん!』のように男性を消すのでもヒロインが惚れた弱みを一方的に見せるのでもない、対等な関係を考えるべきです。

坂上:今回、この雑誌のタイトルに美少女ゲームという言葉を含めず、ビジュアルノベルという言い方を用いたのもそうしたことが理由なんです。美少女ゲームと言ってしまうと、その瞬間に男の子が女の子を攻略するゲームというイメージが揺るがないものになってしまう。けれど、実際には現在美少女ゲームと呼ばれている作品でも、少女との恋愛や少女の救済という要素が薄いものも増えてきている。最近のビッグタイトルで言えば、keyの『Rewrite』も全年齢対象になり、セクシャルな部分もほとんど登場しなくなっています。

奈須:セクシャルな部分の有無は、その物語に必要か否かで考えるものなので問題ではないのですが、今回の『Rewrite』はゲーム部分の進化が問題だと思います。なにをもってADVがゲームとして成り立つのか。選択肢やマルチエンドだけではなく、「画面で、絵と文を見せる」という点の進化を止めてしまっている。他のメーカーならいいのですが、keyは業界を代表するトップメーカーです。先頭に立つものがシステムの向上を見なければ、後に続くものたちも足を止めてしまいかねない。ビジュアルノベル低迷の理由のひとつは、演出面での頭打ちです。ひとつのフォーマットを十年以上も続けてたらそりゃみんな飽きますよ。これは批評をやっている人には耳の痛い話でしょうが、ビジュアルノベルを語るときにシナリオだけで判断しないでほしい。システム、演出、CG、音楽から、果ては売り方やパッケージングまで含めてひとつのゲームなので、全体を見るべきなんです。シナリオの話をするだけなら小説を語ればいいんですから。一消費者ではなく、批評する側の人間なら、「ゲームを作ってから批評しろ」なんてバカなコトは言いませんが、「この商品はどういった過程で作られるものなのか」ぐらいは学んでいてほしい。制作者の為ではなく、これから制作者を志す次代の人たちの為に。

坂上:それは肝に銘じておきたいお話です。

村上:本当に仰る通りですね。『Rewrite』に関してもう少し喋らせてもらうと、端的に言ってあれは凄く惜しい作品だと思った。作品内でマッピーという携帯電話を使った機能が登場するんですが、それが全然上手く扱えていなかったんですね。たとえば『Steins;Gate』や『THE IDOLM@STER』のように、携帯電話を上手くシステムの中に組み込んで新しいプレイ体験を作ろうとする潮流がある中でそれを回避してしまっていることが残念でした。本当はシナリオ重視のゲームであればあるほど、面白く読ませるためにプラットフォームへの工夫が必要になるはずなんです。無論、技術的な困難さは承知の上ですが。

坂上:ビジュアルノベルに人々が熱狂してきた大きな理由として、ゲームならではのシステムや演出を使って小説とは別の快楽を生んできたという点が挙げられます。そこの更新が止まってしまうと、じゃあゲームにしないで挿絵付きの小説でいいじゃないかという話になる。

奈須:枝分かれする物語でゲーム性をだすか、ゲームのフォーマットでしか味わえない物語を演出するか。ADVを制作する際、制作者はそのどちらによったものなのか定めるべきです。ゲームであるコトとはなんなのか?と。突き詰めていえば、ゲームに自由度は存在しません。ただ、そのジャンルでしか味わえない満足感があるだけです。話はループものに戻りますが、“小説やアニメでは許されない、トライ&エラー”という面白味として、ループものは優秀なんですね。同じシーンなのに微妙に異なっている……といった演出はゲームじゃないと難しい。小説では基本的にできない……というか、ページの無駄になってしまう。唯一の欠点は、ループものは多用できないという点。各メーカーで一回しか使えないものなんです。二回やったら「このメーカーはまたこのやり方か」と思われてしまいますから。そうすると、次にゲームとしての価値をどこに求めるかを考える。それこそ『Steins;Gate』のように我々の日常における文明の進化をギミックとして作品に取り入れていくか、あるいはスクウェア・エニックスのゲームのように全体のクオリティを上げていくかという話になる。前者のように今の現実に合わせたゲーム性を活かすためにはシナリオもそこにピントを合わせたものになる必要がある。初めから「今回のテーマはネットや携帯です」ということが決まっていればシナリオの方向性も定まってくる。2005年の『最果てのイマ』がまさにそうしたテーマを扱った作品ですが、あれは見事に時代性をとらえたものだったと思います。マシンインターフェイスの上で楽しむノベル、という。


7/7ページ 奈須きのこの新境地――そしてビジュアルノベルの未来へ向けて



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