奈須きのこの世界観――IFを含んだ箱庭、感性と理性、壊れた主人公
坂上:TYPE-MOONというブランドが特別だなと感じるのは、制作スタッフの作品への愛がもの凄くストレートにユーザーにも伝わってくるからだと思うんですね。僕がそれを最初に感じたのは、2001年のまんだらけによるインタビューで奈須さんと武内さんのエピソードが中学時代から語られているのを読んだ時なんですけど。
奈須:うわー、若いなあの頃(笑)。
坂上:他にも「月姫通信」で『月姫』制作の苦労話を読み、凄い情熱をかけているんだということが伝わってきたりもしました。それを受けるようにして色々な出版社からアンソロジーやムックが出て、そこで描いていた佐々木少年さんが後に漫画版『月姫』の作画を担当することになった。そうした二次創作的な側面も含めてTYPE-MOONのブランドイメージは作られているように思います。
村上:僕も2000年末に『月姫』が出てからTYPE-MOON作品やその二次創作を追っていたんですが、2004年に『Fate』が出てひとつ思うところがあったんです。『Fate』では自分の理想に邁進せよというメッセージが強く発せられる一方で、無時間的な存在であるサーヴァントが箱庭的に存在し、「ここに行けばみんないるよ」というような安心感を与えてくれるシステムにもなっていた。実際、『Fate』の同人誌を見ているとアヴァロンのような場所で英霊たちがワイワイと騒いでいて「ちょっと呼ばれたから行ってくるぜ!」というように召喚される話が多かった。それを考えると消費者は二次創作的な箱庭を楽しむ気持ちが強く、そこが先ほど奈須さんと武内さんが抱いた違和感に繋がるのかなと思います。
奈須:他の書き手の方は分かりませんが、少なくとも自分は強烈な終わりが用意されている箱庭って安心できるんですよ。終わりがあるのであれば箱庭の中で何をやっても許される。そして終わりがあるからこそ切なさやカタルシスを感じることができる。
武内:自分は逆ですね。奈須が書く作品の場合、物語が終わっても作品が死なない印象を受けるんです。それは奈須が初めから死に方まで含めて物語を設計しているからだと思うんですね。『月姫』や『Fate』は物語の中にIFが大量に内蔵されているからこそ、物語が終わってもお客さんは色々なことを想像できる。TYPE-MOONの二次創作が流行った大きな理由としてそこが挙げられるのは間違いないと思います。けど、終わっても大好きだと思えるのは強烈な死に様があってこそなので、そこをコントロールできるというのは奈須の大きな魅力ですね。
坂上:奈須さんの物語は単発じゃないんですよね。世界観が少しずつ重なっている。それは物語としても面白いし、戦略的にも強いことだと思います。新しい作品を作るたびに新しい世界が生まれるんだけど、過去の作品と共通している世界観があるからこそ英霊を呼びだすようにして過去作のキャラクターにもう一度息を吹き込むようなことが可能になる。それは二次創作に対して非常に開かれた空間になっていると思います。『アーネンエルベの一日』のように、オールスター集結というような作品が可能なのも同じ理由でしょう。
奈須:今のところ、大きな世界、大きな箱庭になっているのは『月姫』と『Fate』だけですが、新作の『魔法使いの夜』はこの二作品のさらに基盤になっているものなんです。『魔法使いの夜』という世界から二つが産まれたんですね。この三つの勢力を内包したさらに巨大な箱庭としてTYPE-MOONのイメージができているように思います。この箱庭には確固たるルールが共通のものとして存在しています。この世界は遊びやすいものとなっているのは、そのあたりの基盤が共通認識として伝わってくれたから、だとも思います。
村上:武内さんがよく「奈須はTRPG
xが好きで、自分で設計までする男だ」とおっしゃっていますが、今のお話はそのことを上手く表していると思うんですよ。ルール、基礎設計、キャラクターとその動かし方を用意し、それに則って個別のソフトウェアを作っているという印象を受けます。そこに関しては意図的なんでしょうか。
奈須:意図してはいますが、そこまで理詰めの男というわけでもないですね。世界設定とキャラクターの設定、それとテーマを決める。ここまでは理詰めですが、その後プロットを考え始める時期には半分程度感性で書いています。僕はやはり感性に頼る作家だと思っています。だからこそ、どの作品を書いても作家の色というものが分かりやすく出てしまう。逆に虚淵さんは完全に理詰めの作家ですね。僕らは互いに懇意にしていますが、それは書き手としてのタイプが真逆だからなんですよ。お互いの作品が大好きなんですが、フランス料理と中華くらいに離れているという意識があって激突することはない。だから気持ちよく付き合えるんです。『まどマギ』が始まる前に鋼屋ジンさんがすごいこと言ったんですよ。「虚淵さんは基本的に昆虫である」と。「昆虫!?」って聞いたら、「人間の感情を理解しているが己の中にはおかない。あの男はそういうシステムなのだ。―――まこと、恐ろしい男よ」って(笑)。半分ギャグだったんだけど、今では本当によくわかる。理詰めで書くというのは自分の中にシステムを持っているということなんです。僕はどんなに理詰めで頑張っても最後には感性に依ってしまう。だからどの作品でもカラーリングは一緒なんです。奈須きのこの作品を好きになってくれる人はそのカラーリングを愛してくれていると思うんですが、それが絶対に存在するが故に合わない人はどうしても入れない。『月姫』や『Fate』が局地集中型の人気なのはその表れでしょう。僕と武内は奈須きのこというライターがマスに受けるものではないと理解しています。言ってみれば、魂の色が合う人間だけをMAXに喜ばせる装置のようなものだと思っています。
坂上:奈須さんの世界観、カラーリングを特徴づけるものは色々ありますが、その中でも「壊れた主人公」という要素は常に重視されているように思います。『月姫』の志貴は生物や物質の死を見てしまう人間ですし、『Fate』の士郎も生き方そのものが歪だったりする。そうしたモチーフはどの程度意識しているんでしょう。
奈須:それは僕や武内が生まれた年代にも起因している問題です。僕らはバブル期の少し前、日本が成長を続ける中で何も憂うものがないという時代に生まれたんですね。だから自分たちは身体に全く傷を負っていないんだけど、その分父親が傷を持っている。その親父を見て育つと、自分に傷がないことが恥ずかしくなってくる。ただ平和になっていく国において世界と向き合うには、自分は誇らしくなれないのではないかという思いがずっとあって、正常であることを異常と感じてしまうようなコンプレックスを抱えていた。それが自分の骨子となっているので、どうしても描く物語の主人公にも、何かしらの欠損やコンプレックスがないと世界と対峙させられないという思いがあったのかもしれません。
村上:『DDD』の場合はそれが全面化している印象を受けます。
奈須:そうですね。もともと『DDD』は『hollow』とリンクさせるつもりだったんですが、後者に時間がかかり過ぎてそれはできなくなってしまった。なのでテーマを完全に分離して、『hollow』ではゲームとしてできることをやる一方、『DDD』では当時の自分が言いたいことを全て語ろうという気持ちで執筆しました。『DDD』は『空の境界』以降で初めて自分の趣味を全開にした小説なので、特にそういう部分が強いかと思います。
村上:たとえば『Fate』において士郎は物を直すことができますけど、それは彼の能力の本質ではないわけですよね。そもそも直すっていうのは異常なものを正常なものに戻すってことじゃないですか。しかし、この世界に正常なものなど存在せず全てが異常なんだから、修理ではなく適度なメンテナンスによって調整して生きていくしかない。そういった主張が、『DDD』において主人公の石杖所在が迦遼海江の義手メンテナンスを行うようなシーンに象徴されているように思います。
奈須:ありがとうございます。そういった読み方をしていただけるのはとても嬉しいです。
坂上:『hollow』と『DDD』のような同時進行の場合に限らず、全体としてゲームのシナリオを書く時と小説を書く時では全く別の作業という意識になりますか。
奈須:そうですね、別の作業になります。先ほど自分の作風はマス向けではないと言いましたが、それでもビジュアルノベルの場合は十万人から二十万人のユーザーに対して売るものなので、自分のやりたいこととユーザーの求めるものをミックスしながら作ります。それに対して小説は自分の欲望が優先事項としてMAXですね。余裕があれば今の読者が喜ぶ要素を入れようくらいの気持ちで書きます。
坂上:奈須さんの世界観に関わるお話としてもう一点お伺いしたいんですが、昔『コンプティーク』誌上でTacticsの『ONE』
xiから強い影響を受けたと仰っていましたよね。僕は今でもそれを不思議に思っているんです。何故かというと、奇跡とか超越性という重要なテーマに対する考え方が、奈須さんと麻枝准
xiiさんでは逆の方向を向いているように感じられたからなんですね。
奈須:あ。そうですね、たしかにテーマは逆になりますね。
坂上:麻枝さんの描く奇跡というのは無条件にみんなを幸せにしてしまうものです。個人のレベルで解決できない事象があるところに超越的な存在が介入して全てを救済に導くという圧倒的な力を持っている。しかし奈須さんの場合、奇跡を叶えるはずの聖杯を邪悪な結果を呼び寄せるものとして描いている。
奈須:key作品における奇跡は全能であり、物語が求めた装置のような気がします。傷ついたものに、その傷を乗り越えた分だけの幸福を、という。反面、自分の場合は傷と幸福を差し引きゼロにできない。単純に書き手の方向性なんでしょうね。『月姫』にしろ『Fate』にしろ、どこかで救えないもの、叶えられないものが生じています。そうした大きな価値観の違いではないでしょうか。それとは別に麻枝さんの書く日常を面白く思う気持ちがあります。あのギャグセンスは紛れもなく至宝ですよ。でも、『ONE』で僕が最も感銘を受けたのはゲームとしてのパッケージの部分なんです。当時僕はPCを持っていなかったのでノベルゲームの体験が『弟切草』
xiiで止まっていた。そんな時、PS版の『ONE』が出た時のファミ通レビューで「SFとしては普通かもしれないが、それでも光るものがある」というような文章を目にしたんです。しかもヒロインの一人である七瀬留美の声優が横山智佐
xivさんだった。「智佐か、買うしかねえな」と思いました(笑)。そうして実際にプレイしてみると、『弟切草』のフォーマットでありながらギャルゲーとして仕上がっていた。青天の霹靂でした。こういうものがありなら自分もやってみたいと思ったんです。
武内:でもPS版しかやってないんだよね。
奈須:そう、それで武内くんと論争が起きたんですよ。「PS版やってる? クソだな、『ONE』はPC版が真実。それ以外は黒歴史」とか言われたんです。それでPC版を見せてもらったら、テキストボックス形式で、しかもボイスがないという大きな違いがあった。そこで「何言ってるんだ君は。横山智佐こそが真実の光」ということで宗教戦争が始まりました。あ、どうでもいいですよね、この話。失礼しました(笑)
村上:『ONE』との出会いはかなりの部分が偶然に支えられていたんですね。システムに驚いた話をもう少し伺ってもいいでしょうか。
奈須:何より里村茜のシナリオに感じ入りました。いくら待っても想い人が来ないというシーンのテキスト表示が、文章として美しかった。そこで感じたのが、ビジュアルノベルというのは文字のバランスと演出のタイミングも含めて「ひとつの絵」として成立させるものなんだということです。ただ文章を流すだけじゃないからこそ美しい。一画面ごとにユーザーがグッとくるようなバランスを考えなければいけないんだと悟りました。『月姫』の頃には自分でスクリプトも組んでいたんですが、当時の演出にはそうした意識も入っています。赤い文字を入れたり画面下部にだけ文字を表示したりといったやり方は絵を描けない物書きなりの精一杯の演出でした。『Fate』になってからは凄まじい映像センスを持つ男が入ってきたので「俺の時代は終わった」となってしまいましたけど(笑)。そこからは文字をどう表示するかという勝負をする必要がなくなって、純粋に絵にあったテキストを書くことを第一としていますが、隙あらば文字表示の気持ちよさを差し込んでいます。
5/7ページ 世界とルールへの意識――TRPGからの影響、『東方シリーズ』という新星団、フィクションの役割
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(x)テーブルトーク・ロールプレイングゲームの略称。本文で語られている『D&D』、『T&T』もTRPGに属する。
(xi)PC版は1998年に発売。スタッフのほとんどが後にkeyブランドへ移籍しているため、keyの作品と一続きに語られることも多い。『To Heart』と同様の学園生活を舞台にしたほのぼの恋愛ストーリーかと思いきや、日常がいつか終わるかもしれない/いつ終わってもおかしくないという不安感の具現化として、「永遠の世界」が登場し、主人公折原浩平は現実世界から一度消えてしまうという喪失を描いた物語となっている。「えいえんはあるよ、ここにあるよ」というみずかの呪詛はビジュアルノベル史に残る至言。
(xii)ビジュアルアーツのブランドであるkey所属のシナリオライター。Key人気の立役者であり、関わった作品は『MOON.』、『ONE』、『Kanon』、『AIR』、『CLANNAD』、『リトルバスターズ!』など。日本を代表するシナリオライターの一人だが、keyの最新作『Rewrite』ではシナリオ執筆は行わず、QC(クオリティコントロール)を担当した。作詞家、作曲家としても活躍。
(xiii)1992年にチュンソフトより発売されたスーパーファミコン用ソフト。同社によるサウンドのベルシリーズの第一作。後のビジュアルノベルに与えた影響は計り知れない。また、Leafの『雫』や『痕』における、周回プレイを前提にしたゲームデザインも本作によって確立されている。
(xiv)声優、愛称はちさタロー。『NG騎士ラムネ&40』のミルク役、『サクラ大戦』の真宮寺さくら役などを務めた。今はなき「ジャンプ放送局」でアシスタントを務めていたことも有名。