新型肺炎に関する情報

ランブルのような店での会話




300km/hかあ、と友は言う。
出してみたい、と。
そうなの?と私は言う。
自分の中で、出してみたいという気持ち
が沸かないからだ。
それはレースの世界を除けば200km/hの
世界が夢だった頃のすぐあとに200km/h
を超えた時、なにも変わらなかったこと
を知っているからだ。
1970年代に漫画で描かれていたように、160km/hの壁があり、そこから先はトン
ネルに見える(石井いさみの作品)なんて
のも嘘だった。そんなTON-UPは新大宮
バイパスでマッハであっという間だった。
トンネルなどはない。そんなもんは見え
ない。景色は同じだ。

それでも、レーサー125で200km/h超え
など普通という時代に、大排気量車では
なく、どれだけの小排気量で抜けた速度
が出るかという焦眉の中で、なかなか簡単
に公道車で200km/h超えをする中排気量
車は出てこなかった。
しかし、1980年代末期には何と250cc
(未満)で200km/hオーバーどころか、
220km/hに迫るモデルが各社で出た。
だが、まだ国内は750規制があり、大型
免許も限定解除時代だった。
その時代のすぐ後にはレーサー125は
250km/hに達しようかとしていた。
レーサー250は270km/hだ。
そのうち、免許制度が変更になり、限定
解除が無くなった。
大型免許は中型、小型と同じになり、
教習所で買える免許となった。
そして、750cc以下の認可制が消滅し、
ビッグバイク時代の到来となった。

私は自分が運転する車両では二輪でも四輪
でも260km/h以上は出したことがない。
経験がない。出せる車であっても、それ
以上は未知だ。
速度が上がっても、限界を求めず、ま、
これ位でいいか、という感じで妙に冷め
ている。
速度計のない車両では区間タイムの計算
により速度は出てくる。

かつて200km/hが雲の上だったのが、
それが10年ほどで250cc未満の一般公道
市販車でも200km/hオーバーになった。
そして、大排気量車では300km/hを超え
た。
今の時代、二輪車で400km/hが出てしま
う。

私は最高速の速度そのものには興味はな
い。私は絶対的な数値的速度ではない
スピードを求めている。
数値的な速度、それは自分が出している
のではなく、機械が出しているからだ。
二輪車ならば伏せて、四輪車ならば座った
ままで、アクセルを開ければ速度は出る。
全て機械次第だ。
速度計比較や加速比較など、数値上の
事はくだらない事だ。
速度だけ速いのに乗りたいのならば、
新幹線や旅客機に乗ってろ、という事
なのだ。
自分が乗る車両の機械速度を誇るなどと
いうのは愚の骨頂で、これほど頭が弱い
事はない。
俺の乗ってる新幹線なんて何百キロだぞ、
お前の地下鉄は何キロじゃないか、と
真顔で言うようなもので、頭がおかしい。
じゃあ、お前、お前の脚力だけで駆けっこ
してみるか?という事なのだ。
だが、世の中、自分が速度の出る車に
乗っていると、最高速や加速は自分の
実力で出したと勘違いしている人間が
掃いて捨てる程いる。いわゆる塵の類。
つまりゴミだ。
特に最高速などでその手のド勘違い屋が
多い。
免許と同じで金を出せばそんなものは
買える。

ただ、なんとなく分かる。
そのような感性の持ち主たちは、遅い
車に乗っていると、まるで自分の能力が
劣っているかのような劣等感を持つ人種
なのだろう。
それの裏返しで、速度が出る車を所有して
それを転がすことで優越感を持てる。
そうでもしないと、精神が崩壊するのだ
ろう。
だが、事実としては、その速度は自分の
力で得たものではない。

ソルトレイクを走ってるんじゃない。
私はもっと別な次元の事に車との接点を
求めている。
まして、排気量による性能差を差別的に
侮蔑したりの歪んだひがみ根性などは、
何それ?だ。
50ccで7.2PSしかないことを揶揄しても
意味がない。
50cc7.2PSで90km/h出たとする。
ではその10倍の70PSだと900km/h出
せるのか?という事なのだ。
7.2PSで90km/h出るということは、とん
でもない「高速」なのである。
この定理は数値的な単純速度単位概念を
超える。
言い方を換えるならば、70PSで210km/h
出る車よりも7.2PSで90km/h出る車両の
ほう性能は良い。
身体160センチの人がジャンプして届く
3メートルと身長180センチの人がジャンプ
して届く3.1メートルでは、身長160センチ
の人のほうがジャンプ力はある。
これは当たり前のことだ。
この定理こそが車両の性能比較の根幹だ。
それゆえ、その公正数値化のためにパワー
ウエイトレシオなどが考案された。
排気量差での数値的な速度差などは意味
のない空虚な脳内妄想なのだ。

レースが何故スポーツとして成立し、
どうしておもしろいか。
それは、イーブンの制限規定の車両で、
競争して「人間力」を競うからだ。
車の開発も開発陣の人の力の集合だ。
レースはチームスポーツであり、自分一人
では何もできない。
そして、125ccと500ccを対決させる
ことはしない。プロ野球選手は少年野球
チームと試合して勝ったとしても何の自慢
にもならない。
だが、車の世界では、四輪も二輪もそれを
わきまえずに大きな勘違いをしている人間
ゴマンといる。
250ccクラスの中で加速が速いのは速いの
だ。そして、2スト全般は2ストロケット
と呼ばれて来た。
同排気量では4ストが2ストに最高速も加速
も勝てた歴史的事実は地球上には存在しな
いからだ。
4ストが2ストに勝つには排気量を上げる
という反則技のようなことをしなければ
逆立ちしても勝てない。
そして、ビッグバイクが開発されて以降
は、2ストの宿命である「1000cc以上の
2ストは性能を出せない」という物理法則
によって、4ストが圧倒的な速度を得るに
至った。
世界グランプリの最終局面では、2スト 
500に対し4ストは倍の排気量で同一クラス
とする無理なレギュレーションを実行した。
予想通り、2ストは勝てなくなった。

だからといって、2ストが遅い、4ストが
速いということにはならない。
同じ排気量でやっていないからだ。
2スト4ストに限らず、イーブンの条件で
はないので、優劣などは存在しない。
存在しないことを以て云々するのは、それ
はオツムのネジが外れ過ぎている。
だが、その手のネジ外れ人間が実に多い。

同一排気量の車、規定レギュレーション
で周回コースを競うのは、マシン勝負も
あるが、そのマシンの能力を引き出す事
ができる人間の勝負となる。
だからレースは面白い。スポーツとして
成立する。直線だけの機械まかせでは
ないからだ。
脳内ソルトレイクを走りたい奴はずっと
走っていればいい。
機械任せなのに自分の実力であると誤認
したまま。

なんなのだろうなあ。
やっぱり、何か精神病理学的なコンプレッ
クスとか、何かの疾病なのだろうね。
自分の力ではない機械任せでそれに依拠
したところから精神的優越感とかが発生
するというのは。
そして、概して、何事にも差別的概念を
増幅させることで自分を保っている。
それ、吸排気の同調以前に、脳のマップ
が壊れてるんじゃない?
人としての機能不全として。

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