AX アックス
伊坂幸太郎、幻の<殺し屋シリーズ>未完中編「Drive」、期間限定試し読み⑦ 文庫『AX アックス』発売記念(〜4月30日まで)
2/21(金)に発売された伊坂幸太郎さん文庫最新刊『AX アックス』は、「AX」「BEE」「Crayon」「EXIT」「FINE」の全5編の連作集。各編の頭文字が「A」「B」「C」「E」「F」となっており、「D」が抜けていることにお気づきでしょうか?
幻の「D」は、実は「Drive/イントロ」という題名で「小説 野性時代」2015年11月号に掲載されたものの、書籍には未収録。
今回は文庫『AX』の発売を記念し、その未完中編の全文を、特別に期間限定で公開!
『AX』の主人公「兜」が家族とドライブ中に、物騒な事態が……。新たな殺し屋も登場。ぜひお楽しみください!
本作について、伊坂幸太郎さんよりコメントを頂きました。
▷伊坂幸太郎さんより:「Drive」について。
◆ ◆ ◆
>>前話を読む
「君が佐々木さん?」
「はい」佐々木は鼓動が少しずつ落ち着いてきた。警察官の制服姿に、安心感とともに感動すら覚えた。警察とは何と頼りがいのある存在なのか。庭のほうを見に行っていたのか別の警察官もやってきた。「あ、君が通報してくれた人?」とこちらは少し柔らかい訊き方をしてきた。
そこから佐々木は、自宅で起きたことを必死に説明する。斧寺の通報通り、二人の男たちが家に上がり込んで、自分を殺そうとしたのだ、と。
佐々木の必死の説明のかいがあったのか、警察官はすぐに家の中を調べに入ってくれた。佐々木は怯えながら居間に入ると、「ここで自殺させられそうになりました」と訴えた。
ダイニングテーブルが少し斜めになっていたが、先ほどの争いの跡は見当たらない。あれは本当にあった出来事なのか、と自信を失いかけた。
「自殺? 殺されそうになったのでは?」
「いえ、自殺を」と言いかけ、「自殺をさせられる」とは言葉としておかしいと気づいた。「自殺に見せかけて殺されそうに」
「ああ、なるほどね。で、どうやって」
「ロープを」「どこに?」「ここに」「いや、どこにあるロープで」
すでにロープは消えている。あの男たちが持ち帰ったのか。
「臭いけど、これは何?」警察官が部屋に漂う空気を払うようにした。
「それは殺虫剤。おまわりさんが虫だったらちょっとまずいよ」
その声に振り返れば、斧寺がいた。警察が来た時点でもう帰ったのかと思っていたが、まだ残っていたらしい。当然のように自分の家に上がり込んでいる図々しさを、不快には感じなかった。
「殺虫剤を室内で、そんなにまき散らしたわけ?」警察官の顔に不審が浮かぶ。非常識な若者だと思われたのかもしれない。彼らの不審感を速度計のようなもので見られるとすれば、数値がどんどん上がっている。
「その恐ろしい男たちを撃退するために、必死だったんだ」斧寺はむすっと説明した。その強気な態度に、警察官の顔が強張る。「だいたい、どうして命を狙われるの? 心当たりは?」
佐々木はそこで、「いえ」と答えるしかなかった。まさか歯医者でカルテの改竄作業をしていたので、そのせいです、とは言えない。いや、打ち明けるべきだ、という気持ちもあったが踏み切れない。
「まったくどこまで本当なのか」警察官同士が顔を見合わせ、肩をすくめるようにした。
これはまずい。佐々木は少し焦る。あの、その。親の関心を引こうとする子供のようだ。
このままでは警察官が何事もなかったように帰ってしまうのではないか。警察官の一人が居間から廊下に出て、しばらくすると、「一応、署まで連れて行くことになった」と言った。
佐々木はほっとする。とにもかくにも安全な場所に移動したかった。
「そうだね、そのほうがいいよ」斧寺も腕を組み、うなずいている。
詳しい事情を訊かれることは怖かったが、容疑者ではないのだから、執拗に追及されることはないだろう。そう納得する。ここにいるよりは何倍も安心できるはずだ。
玄関を出て、鍵をかけると誘導されるがままにパトカーの後部座席に乗り込んだ。警察車両に乗り込む体験が、自分の人生に用意されているとは佐々木も思っていなかった。車の中から自宅を眺める。子供の頃からここで自分は生きていたのだと改めて思う。
いいことなんてなかった。小学生の自分も、中学生の自分も、高校生になっても、ここで生きている自分は暗い日々を暮らしていたのだ、と考えてしまう。
が、なぜかそこで、佐々木の頭に浮かんだのは、半べその自分を慰めてくる母の様子で、彼女の表情はぼやけていたのだが、穏やかながらこちらを心配する顔つきをしているのは分かる。母親がこんな風に自分を気にかけたことがあっただろうか。記憶なのか、それとも自ら作り上げた姿なのか、はっきりしなかった。母がいないことが、急に心細くなる。
いつから一人きりになってしまったのだろう。
気づけばパトカーが発進していた。警察官は二人とも前に座っている。
後ろに体を捻る。リアガラスの向こう側には斧寺が立っており、手を左右に大きく振っていた。その動きはどうにも子供じみており、外見とは不釣り合いであるために、滑稽にしか見えない。
「犯人たちのことは追ってくれているんですか」佐々木は前を向き、訊ねる。
はじめは返事がなく、胃が締まる感覚に襲われた。話しかけてはいけなかったのだろうか。
無言の間の後、助手席の警察官が、「一応、パトロールはしているけれど」と面倒臭そうに言う。「だって、具体的な情報がないじゃない」
佐々木は慌てて、警察官に対し、自分の記憶から取り出した男たちの外見を話した。必死に身振り手振りを加えて説明したが、彼らの外見は曖昧にしか覚えていなかったことを自ら痛感する羽目になるだけだった。
「本当に襲われたわけ?」運転席の警察官はついにそう言った。
「もちろんですよ!」佐々木は咄嗟に声を大きくしてしまい、はっと口を閉じる。反射的に目をやったバックミラーには、警察官の体温のこもらぬ目が映っていた。
「さっきのは友達だったっけ?」助手席の警察官が言う。
「あ、いえ、まあ」真の意味では友達ではなかったが、認めたほうが楽に思える。「昔の。十年ぶりに会って」
「懐かしい友との再会かあ」
「あ、いえ、まあ」
「何かちょっと変わった感じだったな」助手席の男が、運転席に向かって言う。「ずんぐりむっくりで」
「埴輪みてえな顔していたな」
「ああ、埴輪な。鼻の穴を膨らませて、力んでる感じで、可笑しかった」
佐々木は自分の目の前で、斧寺をからかうような会話が交わされていることに驚く。せめてそういった悪口を言い合うのだとしても、自分のいない場所で話すべきではないのか。
しかもやっぱり埴輪と呼ばれるのか、と佐々木は感慨深い気持ちになる一方で、腹立つ自分がいることにも気づく。
悪口はやめてください。
そう言いたかった。もっと別の言い方が良いだろうか。悪口はやめてくださいよお、とへらへら笑いながら言えば、相手にも柔らかく伝わるだろうか。
考えていたところ、パトカーが停車した。警察署に着いたのかと思うが、周囲を見渡しても暗く、まわりには交番も民家もない。隣は空き地なのか、と目を凝らせば、鉄筋が重ねられた骨組みのようなものが建っている。工事車両も何台か、仕事に草臥れて目を閉じているかのように並んでいた。
「いったん、ここで降りる」助手席の男が言うと、ドアを開き、降りた。
え、と思う間もなく佐々木は外に降ろされる。「ここは」
「俺たちはこの後、別の事件のために行かなくちゃならないからな。ここで待っていてくれ。すぐに別のパトカーが迎えに来る」
もちろん佐々木は状況が呑み込めない。こうしてバトンリレーのように、保護した人間を道の途中で降ろすことが、一般的な手順なのかどうか、常識的なのかどうか判断できない。ただ、心細いのは間違いない。「乗せてください」と縋っていた。
隣でエンジンが動いたままのパトカーの、その音と震えが、佐々木の鼓動を煽り立ててくる。怖いだろ、恐ろしいだろ、と心臓を揺らすかのようで、脈が速くなった。
「危ないから、ここにいろ」警察官は言う。「いいから、ここにいろ」
問答無用だった。別れ話に納得せぬ恋人を強引に引き剥がすかのような、無慈悲な態度で、警察官は佐々木を振り払い、「いいか、待ってろよ。動くとまずいぞ」と車内に戻っていった。
パトカーはあっという間に消えた。佐々木の鼓動だけがその場に残り、しんと静まり返った工事現場の脇で、音を立てている。まわりを眺めるが、人通りはない。どうしたものかと右へ数歩歩き、逆方向に戻る。行ったり来たりを繰り返す。同じ場所に留まってはいられなかった。
スマートフォンを取り出すが、やはり電源を入れる勇気がない。先ほどの男たちが、自分を捜しているのだとすれば、位置情報がばれるのではないかと怖くなる。
どれほど時間が経ったのか。しばらくすると、左方向に灯りが見えた。ヘッドライトだった。徐々に近づいてくる。だんだんと車体が明らかになるにつれ、それが警察車両なのは分かったため、佐々木はほっとする。
「ここですここです」と手を振った。
乗っているのが、先ほど佐々木を自殺させようとしたあの二人組だと気づいたのは、パトカーが完全に停車した時だ。
やられた、と思った時には遅かった。いや、先に気づいたとしても対処はできなかったのかもしれない。
鷹は顔を歪めながら、思った。午前十時過ぎの太陽はまだ、目をはっきりと見ひらく前のようでもあって、痛みに呻く鷹を薄目で眺めている様子だった。
しくじった。
噂には聞いており、やられる恐怖を感じ、身構えていた時期もあったが、そのうちに自分とは無縁のことだろうと気にかけなくなった。油断大敵、気を抜いた頃に敵は襲ってくるのだと経験上、知っていたにもかかわらず、すっかり頭から抜け落ちていたのだ。
鷹はよろけるように道の真ん中から端へと避け、壁に寄り掛かる。スーツの尻ポケットからスマートフォンを取り出すと電話番号を呼び出した。
何度かのコール音の後で、「はい、シロです」といつも通りの生真面目な声が聞こえる。
「来てくれ」と鷹は言う。「急ぎで」電話を切った後で、スマートフォンのアプリを操作し、自分の今いる位置情報をシロの端末へと送信した。
シロがどこで何をしていたのかは分からぬが、予想以上の早さで現われた。黒色のトヨタ・ハリアーが到着する。前回の仕事の際に使った車種と同じだ。あの時はシロがどこからか調達してきたのだが、その見た目が気に入ったのか自分でも正規に買ったようだった。
「鷹さん、大丈夫ですか、どうしたんですか」シロが駆け寄ってくる。「撃たれたんですか?」
「いや、違う。大丈夫だ」鷹は言った後ですぐに、「大丈夫ではないな」と自ら言い直す。
「誰にやられたんですか」シロの眼の色がわずかに変わった。今すぐにでも車に乗り、その相手のところに駆けつけるつもりなのだろう。
「いや、誰にやられたわけじゃない。強いて言えば」
「誰ですか」
「腰だ。たぶん、これがぎっくり腰というやつなんだろう」鷹の体は折れ曲がったまま、動かすことができない。壁に体重を任せている。
「こんな路上で?」
「そこに段ボール箱が落ちてるだろ。ごみ集積所の近くに」鷹は目だけで指す。
「ありますね」
「中に雑誌や本が入ってるんだ。そういう資源ごみの回収の日なんだろう。ただ、集積所と離れた場所に置かれていたからな」
「ちゃんとしたところに運んであげようとしたんですね」
「どうして分かる」
「鷹さん、そういうところ真面目じゃないですか」
おまえに言われたくない、と答えかけたところで、「昔はそうじゃなかった」と言った。「それで、段ボール箱を持ち上げた瞬間だ。腰にぴきっと音が走った。聞いてはいたが、本当に、ぴきっとしか言いようのない感覚だな。腰が曲がったまま、伸ばせない。くの字のままだ」
「痛いんですか? どうなってるんですか?」
「痛い。このままの恰好ならまだ大丈夫だが」
「そのままの恰好では生きていけないですよ」
「まず部屋に戻りたいんだが」
「分かりました」シロは言うと、鷹の体を抱えようとするがもちろん持ち上げることはできない。不用意に動くと激痛が腰を貫くため、ゆっくりと、よちよち歩きの子供のように手を引かれながら、トヨタ・ハリアーの後部座席に横たわった。気を配ってはいても、時折、激痛が背中を襲い、そのたびに呻いてしまう。運転席に腰を下ろしたシロが、「行きますね」と車を発進した瞬間、また腰に痛みが走る。
マンションの自宅まで戻ると、鷹は床にそのまま横になった。ベッドはあったがそこに寝る気にはなれなかった。
シロがコンビニエンスストアの袋に氷を大量につめ、寄越した。「これを腰に当てておいてください」
「冷やすほうがいいのか?」
「今、ドラッグストアの店員に訊いてきました。とにかく冷やすしかないようです。風呂も駄目みたいですよ」
ビニール袋を腰に押し当てる。冷たさにぎょっとしたが、これで痛みが緩和するのならばと思う。
「問題は明日の仕事だな」鷹は、腰の打撃を受けてからずっと考えていたことを口にする。先日、業者〈DIY〉を殺害した後で、依頼主が別の仕事の話をしてきたのだ。海ほたるにやってくる男を射殺してほしい、という内容で、詳細情報がはっきりしないものの、さほど難しい仕事ではなかったものだから引き受けた。「この状態じゃ無理だ」
「くの字で寝そべった状態で、ライフル構えられればできるかもしれませんが」
「仮に撃てても、その場から逃げられないだろうな」引き金を絞り、弾が出た反動で、腰に激痛が走る恐怖もある。
「じゃあ、どうするんですか」
「断るしかない。電話を貸してくれ。依頼主に電話する」
「それでいいんですか?」
「こんな状態だ」横に寝そべった姿勢の鷹は苦笑しながら、自分の腰を指差す。「どうにもならないだろ」
「前日キャンセルは金を取られるとかはないんですかね」
「ホテル宿泊とは違うだろ。それにこの場合でいえば、宿泊客があっちで、ホテルが俺たちだ。キャンセル料は、依頼主がキャンセルした場合に、業者側が受け取るものじゃないのか」
「でも、鷹さんが断ったら、向こうは困りますよね」
「俺がこの状態で、仕事をやろうとするほうが、向こうは困る。いいか、こういう場合はとにかく、下手に策を弄さず、シンプルに対応するのが一番だ」
とはいえもちろん、依頼主がどういう反応を示すのかは分からなかった。不安がないと言えば嘘になる。スマートフォンで電話をかける際には緊張感もあった。が、依頼主のグループはデータ重視であるから、義理や人情といったアナログの問題よりも、効率を優先させるだろうという読みはあった。トラブルが起きれば、そのことを責め立てるよりも、次善の策を練るだろうと。
鷹が事情を説明すると依頼主のほうは、特に不機嫌になるでも不愉快になるでもなく、ただ淡々と、「こちらからまた折り返す」と返事があり電話は切られた。
十分もしないうちにまた連絡があり、ぎっくり腰となった人間の経過データを調べた結果、翌日に仕事を十分にこなせる可能性は低い、と数値を並べて、述べてきた。長々とした説明ではあったが、ようするに、「今回は致し方がない」と判断したらしかった。
「代わりの人間は見つかりそうか?」鷹は訊ねる。
「それはこちらの問題です」
「だろうな」
「参考までに、案はありますか? あなたの代わりに仕事をやれそうな人物の」
「分からない」幾人かの名前、もしくは顔は、頭に浮かんだが、その誰が明日の仕事を引き受けられるのかまでは想像がつかない。「ただ」
「ただ?」
「正規に依頼を出すよりは、俺が仕事をキャンセルした、という噂を流すだけのほうが得策かもしれない」
「どうしてですか」
「人間は、降って湧いたビジネスチャンス、ってやつに弱いからだ。他社の失敗は自社のチャンス、というわけだ。勝手に首を突っ込んでくれるかもしれない」
「参考になりますね」
電話を切った後、シロが、どうでしたか、と心配そうに言ってきた。やり取りの内容を話して聞かせると明らかに不満げな面持ちになる。「どうかしたのか」
「いえ、それならば俺が」「おまえが?」
「俺が代わりにやれば良かったと思うんですけど」
「おまえが、俺の代わりに?」鷹は別段、茶化すつもりはなかったのだが、念を押すような言い方をしている。
「そろそろ、俺も試合に出たいですから」
「毎日、素振りばかりではつらいってことか」
「地味な練習も嫌いじゃないですけどね。昔は、墨谷二中に憧れていましたし」
「中学受験の話か」「違います」
「どちらにせよ」鷹は言う。「おまえにはまだ早い」
シロは真剣な面持ちのまま、こくりとうなずいた後で、「くの字になって、横になっている人に言われると複雑です」と続け、すぐに、「あ、冗談です」と言い足した。
了
※本試し読みは、4/30(木)までの期間限定です。
▶伊坂幸太郎『AX アックス』特設サイト(https://promo.kadokawa.co.jp/ax/)