AX アックス
伊坂幸太郎、幻の<殺し屋シリーズ>未完中編「Drive」、期間限定試し読み⑤ 文庫『AX アックス』発売記念(〜4月30日まで)
2/21(金)に発売された伊坂幸太郎さん文庫最新刊『AX アックス』は、「AX」「BEE」「Crayon」「EXIT」「FINE」の全5編の連作集。各編の頭文字が「A」「B」「C」「E」「F」となっており、「D」が抜けていることにお気づきでしょうか?
幻の「D」は、実は「Drive/イントロ」という題名で「小説 野性時代」2015年11月号に掲載されたものの、書籍には未収録。
今回は文庫『AX』の発売を記念し、その未完中編の全文を、特別に期間限定で公開!
『AX』の主人公「兜」が家族とドライブ中に、物騒な事態が……。新たな殺し屋も登場。ぜひお楽しみください!
本作について、伊坂幸太郎さんよりコメントを頂きました。
▷伊坂幸太郎さんより:「Drive」について。
◆ ◆ ◆
>>前話を読む
直後、噴射音がした。男たちが罵りの声を発したが、それは悲鳴まじりでもある。
どたどたと何者かが近づいてきて、佐々木の視界を塞ぐ。顔面に覆いをつけられて殺されるのかと思ったが、すぐにマスクだと気づいた。野球のキャッチャーが被るようなものだ。佐々木は考えるより先に、顔にそれを押し当てた。
「よし」
その時はすでにその声の主が斧寺だと分かっていた。目を開ければ彼自身は顔に何もつけていなかったのだが、例の埴輪顔で、手に持ったホースのようなものを左右に振った。白い煙状のものが噴き出した。男二人は噎せ返り、手を動かし、煙を払おうとしている。一人が銃を構えたのが見え、佐々木は咄嗟に、体当たりをした。
「佐々木君、行くよ」
斧寺の声に引っ張られ、佐々木は部屋を飛び出した。廊下を通り、玄関に向かう。靴を履いている暇などなく、斧寺の背中に続いた。
斧寺は原付バイクに鍵を差し、エンジンをかける。斧寺は肩からかけていたボンベのようなものを自分の前、足置き部分に下ろし、シートに座ると、「乗って」と自分の尻のうしろあたりを指差した。
五十ccの一人乗りだがそれを気にするつもりはなかった。佐々木は、斧寺の後ろに腰を下ろした。
原付が発進すると同時に、重みで後ろに倒れそうになり、佐々木は慌てて、斧寺の太った腹に手を回した。
これほど楽な仕事もない。鷹は思わずにはいられなかった。うつ伏せで寝そべった恰好で、ライフルスコープに目をやっている。焦点調整のつまみを少し動かした。
標的の出てくる時間が分かっており、いつまでその体勢でいればいいのかも明確だ。
さらには待っている場所も古いマンションの空き部屋であるのだから、居心地がいい。
過去の仕事では、雪の降る山の奥、岩壁の隅に三日間、横たわっていたこともあれば、ビルとビルの隙間めいたところで、二日間、スコープを見つめて立っていたこともある。
固い床に寝そべらなくてはならないとはいえ、外に比べれば楽園のような快適さだ。
窓を少し開き、そこから銃の先を出している。曇り空で太陽が隠れているのも、陽の反射でスコープが光るおそれがなく、都合が良い。
十階の高さから、真向かいのビルを狙っているが、狙うべき部屋は真正面で、これもまた申し分がない。
これほど条件のいい仕事ばかりだったら楽でいいと思わずにいられなかったが、このような仕事ばかりだったら、ライバル業者が増えることになるのかもしれない。楽な仕事は参入してくる人間も多くなる。痛し痒し、一長一短、物事には両面がある。この仕事を二十年以上続けて来られたのも、その、痛し痒しのバランスが自分に合っていたからなのだろう、と鷹は思わずにいられない。
「俺も二十年後には、鷹さんくらいの名人になっていますかね」シロが以前言った。背筋が伸び、髪は短く、アメリカ映画に出てくる若い軍人めいていた。実際、上官の命令には逆らわぬような生真面目さに満ちている。
「無理だろうな」と鷹は答えた。
シロの眼の色が変わる。真面目な人間はこれだからな、と鷹は思った。自分はやるべきことをやっている、言われた通りにやっている、という自負がある分、批判めいたことを言われると、「どうしてなんだ」とムキになる。真面目にやっていれば何でも叶うかと言えば、そうではない。「どうしてですか」
「俺とおまえは違うからだ」
「それはまあ、そうですが」
もともとは繁華街の百円均一の店でよく見かける若者だった。はじめは気にしていなかったが、ウーロン茶とゆで卵を毎回買っていくのだと気づき、その時から、几帳面な男だなとは思った。それがある時、「お金貸してくれませんか」と鷹に頭を下げてきた。百円均一の店で金が足りないとは、かなりぎりぎりの状態である。ただ、そこまでして、ウーロン茶とゆで卵を買わないといけない理由もないだろう。「ウーロン茶とゆで卵で、毎晩儀式でもやるのか」とからかったが、「いえ、儀式ではありません」と真顔で返事をされる。どうしても欲しいのならば、品物を盗むか、もしくは店員を脅せばいいと思ったが、なぜならその一帯は無法者がよく集まる場所でそういった犯罪は日常茶飯事だったからなのだが、彼はそうしなかった。好感を持つほどではなかったが、金を貸した。「いくらだ」「三十円です」「大の大人が三十円を借りるとはな」「大の大人も、三十円足りなければ買い物できません」「借用書をくれ」「もちろんです」
果たしてどこまでが本気なのか、と鷹は呆れた。
シロ、と名乗るから、それはてっきり、「百」から「一」を引いて「白」、つまり、九十九歳を白寿と呼ぶのと同じ趣向で、百円のものが買えないことを自嘲した名前なのかと思ったが、本人はそのようなことは考えていない様子だった。
それが五年前だ。
いつの間にか鷹の仕事に付き添うことが増え、本人は弟子入りしたようなつもりになっている。鷹は二十代の半ばで銃を手にしてからずっと一人でやってきた。もちろん、仕事を依頼し、報酬をくれる人間がいなければ生きてはいけないのだから、決して一人ではなかったのだが、誰に習うでもなく、試行錯誤を繰り返し、忍耐と練習を重ね、信頼を得る業者となった。いまさら誰かと一緒に仕事をする必要はなく、ましてや自分の仕事の後任を育てるつもりなどまったくなかった。
であるのに、しつこく付きまとってくるシロを助手のように使っていたのは、何度も追い払ったにもかかわらず執念深くついてくるので根負けしたこともあるが、シロがいることで仕事がやりやすくなる面もあると気づいたからだった。
「一人ではやれることに限界があるんですよ」シロが言ったことがある。「映画館に一人で行った時に、そのことに気づいたんですけど」
チームプレイのスパイ映画でも観て影響を受けたのかと思えば、違った。
「ポップコーンの大きいサイズのを買って、観ながら食べようと思ったんです。あ、違いますね。食べながら観ようと思ったんですよ」
「どっちでもいい」
「そうしたら、急にトイレに行きたくなったんです。まだ劇場には入れなくて、ただポップコーンを持ったままトイレに行くのも嫌ですから、困ったんですよ」
「持ったままトイレに行くのは嫌なのか」
「ポップコーンにトイレの臭いがつきそうじゃないですか。それで、もう一人いれば、トイレに行ってる間、ポップコーンを持ってもらえたと気づきまして」
「なるほど」と言ったものの鷹はほとんど身を入れて聞いてはおらず、「映画館にみんなが一人で行かない理由はそれかもしれないな」とふざけて言った。
「ですね。トイレに行く時に荷物を持ってもらうためだと思います」
実際、その時にシロがポップコーンをどうしたのかは訊かなかった。おそらく律儀に、劇場内の座席にポップコーンを置けるまで、トイレは我慢したに違いない。
「一人では物理的にどうにもならないことってありますからね。それこそ、猫の額も借りたいって時は誰にでもありますから」
「額を何に使うんだよ」
「猫と額は使いようでしたっけ」
「おまえは真面目だが、教養がない」
「教養は百円均一の店には売っていなかったので」
実際、人手があることで仕事の幅や、やり方は広がった。囮となることや、複数の人間を追うこともでき、トイレや食事の時間を交代で取ることもできる。
鷹はスコープ越しに、カーテンのかかった窓を見つめている。そろそろだ。向こうの部屋にシロが訪れる。インターフォンを鳴らし、家の中にいる男に話しかけるはずだ。どういった内容を話すかはシロに任せてある。昔は、台本めいた段取りを考えたのだが、鷹もそういったことが得意ではない上に、シロは生真面目ゆえに、暗記した台詞を正確に再現しようとし、棒読みになってしまうことが分かり、やめた。シロの好きにさせたほうが自然で、うまく行くことが多い。
カーテンが開けられた。
窓の向こうに立っている男は肩幅のある、中年男性だ。指示された相手に他ならない。窓に顔を近づけ、下の車道あたりを確かめるように視線を落としている。首を左右に向け、あたりを窺った後で、顔を上げた。スコープの中で、目が合う。
撃った際の反動を考慮し、スコープから少しだけ目を離す。鷹は引き金にかけた指を動かした。
ライフルが振動し、前方の建物の窓に弾が飛びこむのが見えた。ガラスが割れ、男の額から血が出る。後ろに倒れることなく、窓側にもたれかかりながら、崩れ落ちた。
「片づけてその場から逃げることが何より重要な仕事だ」鷹は、シロによく言っていたが、実際そうだった。
狙撃銃の留め具を外し、パーツの取り外しを行う。本体を二つに分け、スコープを離す。ギターケースに似せたケースに入れ、蓋を閉じる。立ち上がり、担ぐ。
犯行現場、向かいのあの部屋には他に人がいないはずで、さらには近くの工事現場の音もあるため、すぐに事件が発覚することはなく、慌てる必要はなかった。ゆっくりとエレベーターに向かう。今の社会で最も気にしなくてはならぬのは、防犯カメラだ。人間の印象や記憶はいくらでも歪ませることができるが、機械の記録は誤魔化しにくい。ただ、幸いなことに最近の防犯カメラは多機能になっており、無線で画像を送っているものも少なくない。カメラ近くに、通信障害が起きる機具を置いたり、もしくはカメラのレンズに細工をし、物理的に映らないようにすることはできた。
ビルを出たところで、前の道路に白のSUVが停車する。運転席にいるのはシロだ。どこから入手してきたのかは分からぬトヨタ・ハリアーだった。
鷹はトランクを開ける。段ボール箱が置かれ、中にはサッカーボールや野球のグローブが入っている。トランクは二段構造になっているため、段ボール箱の下に手をやり、蓋めいた部分を開けると、そのスペースに銃入りのケースを押し込んだ。トランクを閉め、助手席に乗り込む。
「無事終了ですか」シロは言うと車を発進させる。
当然のことを答える気にはなれなかった。「おまえ、何と言って、カーテンを開けさせたんだ?」
「隣の部屋から来たふりをして、『そっちの部屋から下の交通事故、見えますか?』と訊いただけですよ」
「なるほど」シンプルこの上ないが、意外にそういったほうが警戒されないのかもしれない。
「あれは誰だったんですか」
「詳しくは知らないが、同業者のようだな」
「同業者?」
「DIYとか呼ばれてる奴だ。DIYショップで武器を手に入れているとか、もしくは自分で何でもかんでも日曜大工で作るとか、そういった話だ」
「日曜大工がうるさくて、命が狙われたんですかね」
「足を洗いたかったようだな」
「依頼主は、足を洗わせたくなかった奴ですか」
「昔からの依頼主らしい。下請けが急にいなくなろうとしたから、自分の過去の依頼がばれるかも、と慌てたのかもしれないな」
「依頼主はどういう」
「売買から物騒な仕事の依頼まで、何でもかんでも管理して、業者に卸してくる奴らだ。最近だと全部、コンピューターで管理してるらしい」
「何をですか」
「業者の能力やら、仕事の難易度やらな。どの業者に何を頼めば一番効率的か、経済的かを計算してるんだろうな。今時は何でもかんでもデータ分析だ。通販会社のおすすめも、野球選手やサッカー選手の起用もな。俺みたいな年寄りには抵抗があるが、それで実際、やってるんだから大したもんだ」
鷹たちはそのグループとはほとんど関わりなく生きてきた。行方を晦ましたDIYを見つけ、命を奪ってほしい、と依頼が来た際も、はじめは断るつもりだった。「そういった奴らとは距離を置いておいたほうがいい」
「だからいつも、一般の人からの依頼なんですか」
「そのほうが誰かの役に立っているような気がしないか?」
「どういうことですか」
「客の顔が見える、って言うのか? まあ、どうでもいいんだがな」
「なのにどうして今回は、引き受けちゃったんですか。日曜大工の男を狙う仕事を」
「金が良かったからだ」説明するのを避けるために鷹は曖昧に言って逃げようと思ったが、シロはすぐに、「そんなにお金、困ってないじゃないですか」と指摘してきた。
「老後の蓄えがいるんだよ」「俺が面倒見ますけど」「頼もしいな」
交差点を二つ通り抜けた後で、細い路地裏に入る。トヨタ・ハリアーが停まった。鷹は何も言わずに助手席から降りた。すでに背広姿に着替えてある。運転席のシロがぺこりと頭を下げ、車を発進させた。
立ち去る車の後部にちらっと目をやりながら鷹は、あの男とあとどれくらい仕事ができるのか、と考えている。
「何だか本当にすみません。せっかくの家族旅行に割り込んじゃう形で」
後部座席にいる伊東ちあきが体を前に乗り出しながら、明るく言った。お詫びの印というわけではないのですが、とバッグから取り出した飴を妻たちに配っている。「これ、プレミアのついてる飴で、美味しいんですよ」
へえ、などと言いつつ克巳はそれを頬張り、「確かに美味しい」とうなずく。釣られたように妻も飴を口に放り込んだ。
兜は助手席の妻から圧力のこもった熱が発せられているのを感じる。
実験した者がいるに違いない。
兜は思う。
目隠しをした男の横に、配偶者を置く。その配偶者を怒らせる。果たして、その男はそのことに気づくかどうか。
もし誰も実験していないのだとすれば、誰かがやるべきだ。もしくは結果があまりに自明であるから、実験されないのだろうか。
目隠しした夫は、妻の怒りを察することができるはずだ。
妻の怒りは、もっといえば機嫌は、目や耳ではなく肌によっても伝わってくる。妻の怒りの炎は、実際、熱を感じさせるし、絶対零度の冷たい視線は、現実に凍えるような寒さを感じさせるものなのだ。じりじりと焦がしながら、同時に何もかも凍てつかせる。
「いえいえ、困った時はお互い様だし、それにあのままあそこにいても大変でしょ」妻は和やかに答えた。もちろん、妻は悪人ではない。自分に比べれば、かなりの善人と言っていい、と兜は思う。だから、恋人と喧嘩をしてパーキングエリアに置いて行かれてしまった、という嘘を信じたし、偶然会った兜が、彼女の自宅のある千葉方面にまで乗せていかねばならない、という話にも反対しなかった。高速道路のパーキングエリアに置いていくべきだとは思わない。
とはいえ、喜んでいるわけがない。せっかくの家族での旅行を台無しにされた不快感はあるだろうし、さらには彼女の馴れ馴れしさに、不信感を抱いてもいるだろう。
色気のある若い女に兜がでれでれしている、と誤解している可能性だってある。
(第6回へつづく)
※本試し読みは、4/30(木)までの期間限定です。
▶伊坂幸太郎『AX アックス』特設サイト(https://promo.kadokawa.co.jp/ax/)