AX アックス
伊坂幸太郎、単行本&文庫に未収録の幻の未完中編「Drive」期間限定試し読み④ 文庫『AX アックス』発売記念(〜4月30日まで)
2/21(金)に発売された伊坂幸太郎さん文庫最新刊『AX アックス』は、「AX」「BEE」「Crayon」「EXIT」「FINE」の全5編の連作集。各編の頭文字が「A」「B」「C」「E」「F」となっており、「D」が抜けていることにお気づきでしょうか?
幻の「D」は、実は「Drive/イントロ」という題名で「小説 野性時代」2015年11月号に掲載されたものの、書籍には未収録。
今回は文庫『AX』の発売を記念し、その未完中編の全文を、特別に期間限定で公開!
『AX』の主人公「兜」が家族とドライブ中に、物騒な事態が……。新たな殺し屋も登場。ぜひお楽しみください!
本作について、伊坂幸太郎さんよりコメントを頂きました。
▷伊坂幸太郎さんより:「Drive」について。
◆ ◆ ◆
>>前話を読む
「佐々木さんは真面目ですよね」診療所での昼食時、ポットのお湯を取りに行ったところで、歯科助手の彼女が言った。
「真面目だけが取り柄なので」と佐々木は答えたが、謙遜や自虐ではなく、冷静な自己評価とも言えた。真面目に考え、自分が人生を生き抜くための道筋を歩いてきたつもりだった。
「面白いですね」と彼女は笑うが、何が可笑しいのか理解できない。「無理して気の利いたことを言おうとする人に比べると、ずっといいですよ。わたしの地元のほうなんて、みんな、面白いこと言おうとして、むちゃくちゃですよ」
そこで佐々木は、彼女の故郷がどこであるのかを訊ね、かわりに自分は千葉の田舎町出身だと口にした。アクアラインで行けばすぐだけれど、と。「うちの町内のお寺には、『都会に憧れてはならない』って書かれていたくらいで」
嘘ではなかったにもかかわらず、彼女は大きく笑い、「憧れるな! と言われてもどうにもならないですよね」と続けた。
ああ、とそこで佐々木は思う。
彼女には、この町の話をしたのだ。何気ない会話にもかかわらず、心が浮き立った自分が恥ずかしく、そのこと自体を記憶の奥にしまっていたのかもしれない。
はっとし、体を起こす。自分が眠っていたことに気づく。
二階の、埃臭い部屋の隅で、書棚に寄りかかるようにし、眠っていた。時計を見ればすでに夜で、八時を過ぎている。カーテンに近づき、窓の外を見れば、当然、暗い。
家の門扉が開く音が聞こえ、佐々木はびくっとなる。錆びた取っ手が動かされる、甲高くも短い音だ。聞き間違いだと思いたかったが、間髪を容れず、玄関のドアががたっと揺れた。そっと動かし、鍵がかかっていることを確かめたのだ。
鼓動が速くなる。
全身の血管が大きく脈動し、そのまま体が破裂するのではないかと思いそうになる。気のせいだと思うが、敷地内に侵入者の気配はあった。
警察に電話をすべきだ、とまずは思ったが、固定電話はとっくに契約を解除している。スマートフォンの電源を入れる勇気はなかった。ないものばっかりだ。
佐々木の中に二つの声がする。
「どうせ、ここに追手が来ているのだとすれば、スマートフォンで場所が特定されることを気にするのは愚かだ」
「音がしただけではないか。追手が来たとは限らないし、この家がばれたとも決まっていない。だとすれば、慎重にやらなくてはいけない」
スマートフォンを両手で持つが、指が震えている。深呼吸をするが、ぜえぜえと荒い息をする犬のようになる。
あの子は。
もし、この家の場所が洩れたのだとすれば、出所は、歯科助手の彼女の可能性が高い。どうやって訊き出したのか。口実を用いて、それとなく情報を得たのであればいいが、乱暴な手段に出たのかもしれない。
やはり電話を使い、確認をしよう。電源を強く押すのと、一階で物音がしたのがほぼ同時だった。
玄関のほうで、人が躓くような音がした。
ドアの鍵を開けたのか?
「音を立てるなよ。せっかく静かに済ませるつもりなのに」
「まあな。だが、隣近所もほとんど空き家かご老人たちだろ」
「ご老人たちのほうが耳がいいこともあるぞ。それにまだ八時だ、眠ってもいない」
「テレビ観てるんだよ。若者はネットだが、高齢者はテレビだ。テレビの音で、外まで気づかない」
「そういうものか」
階段の下から二人の男のやり取りが聞こえてくる。古い家のドアであるからピッキング技術さえあれば開けられるのだろうが、人の家の玄関を、勝手に開け、こっそり入ってきたにもかかわらず、声は落ち着き払っている。
聞いている佐々木のほうが現実味を失いかけた。先ほどの、歯科助手の登場した夢のほうがよほど現実の手触りがあったではないか。
二人が廊下を進み、居間に向かっているのが分かる。佐々木は耳を澄ます。
「あ、今、中に入ったんですが」男の口調がよそ行きになった。電話をかけたのか、かかってきたのかは分からぬが、報告する口ぶりだった。
佐々木は鉄アレイを一つつかんだまま、階段の踊り場でしゃがんでいた。体が弾むのは、鼓動のせいだ。中学の頃、同級生に囲まれた時の恐怖が蘇る。自分がこの後、どうなるのかどうされるのか分からず、体が震えた。その震えがみっともなく感じられ、体を必死に押さえたが、震えはおさまらない。自分は悪いことはしていないにもかかわらず、どうして。
「おまえ、生意気なんだよ」と目の前の同級生は笑いながら言ったが、自分が生意気な態度を取った覚えなどなかったものだから、納得がいかない。そのにやにやした顔つきからは、安全地帯から虫を小突くような悦びしか感じられなかった。「聞いてるのかよ」と蹴られた。それを合図に何人かが蹴ってきた。
あの時と同じ恐ろしさ、と思いかけ、「違う」とも気づく。あの時はさすがに、「死」までは想像していなかった。〈先生〉は命を奪われているのだ。
「いや、いないみたいです」一階で声がしている。「あ、待ってください」と電話に告げた後、何かを確認したのか、「コンビニの袋、ありますね。最近、食ったんですかね」と続けた。
「二階か」もう一人の声がする。
「あ、二階はこれからなんで、そっちが終わったらまた報告します」その後で、電話を切ったのが分かった。
「さっさと終わらせて、帰ろう」「またアクアラインで戻るのか。面倒だな」「ただこんな町で休んだって、面白いことなんかねえよ。ファミレスでたむろしてるヤンキーたちと戯れるくらいしか娯楽はない」「ヤンキーというのは今もいるのか」「このあたりならまだいるんだろうな。というか、おまえもヤンキーだったんじゃないのか」「まあ、そうだが」
言いながら声が近づいてくる。階段のすぐ下まで来た。
二階から逃げられないか。
壁によりかかりながら、ゆっくりと立ち上がると、母の寝室だった部屋に行く。ベランダがついているため、そっと窓を開けて外に出た。降りられるかどうか。下は庭木があるだけで、飛び降りたところでクッションになるようなものはない。が、このまま追い込まれるよりはと思った。
そこで、外の庭に人がいるような気配を覚えた。誰かいる? 慌てて室内に戻り、窓をそっと閉めた。
飛び降りても、すぐに捕まってしまっては意味がない。
佐々木は必死に考える。チャンスは一度しかない。相手が油断している時だけだ。階段の踊り場まで戻る。
男たちが下まで来ていた。躊躇ったのは一瞬だった。もう考えている余裕はない。雄叫びを上げたいところだったが、からからに乾いた、無言の声しか出ない。佐々木は鉄アレイを、階段に向かって、投げた。人にそれが当たる、という恐怖で足元から股間までに寒々しい感覚を覚えた。
男の獣じみた悲鳴が聞こえた。痛みに呻き、激怒の叫びを上げる。
佐々木はすぐに階段を下りていた。が、緊張で足が絡まり、絡まった結果、当然の帰結と言うべきか、転げ落ちた。足を滑らせ、段に体をぶつける。
男たちが二人、こちらを見上げていたが、そこに佐々木は激突した。彼らが緩衝材がわりともなった。
佐々木は階段から落ちた瞬間、人生の終わりを覚悟したが、まだ意識があることにはっとし、慌てて立ち上がる。腕と脚に痛みはあったが、動けないほどではない。
宙を掻くようにして、玄関へ向かう。足はまだもつれており、廊下で転ぶ。すぐに後ろからしがみつかれたため、佐々木は暴れた。
振り返ると、見たこともない体格のいい男がいた。
佐々木は手を前に出す。「ちょっと待ってください。何なんですか。留守番を頼まれていただけなんです」戦略などなく、ただ必死だった。本人かどうか分からなければ、命までは奪わないと踏んだ。
が、相手は気にもせず、「おまえが佐々木君だろ。いいからこっちに来い」と言う。佐々木の襟首をつかむと、廊下を引き摺って行く。荷物を持つような軽々しさだった。
居間にあっという間に連れて行かれ、放り投げられる。
「痛いな、おまえ、これ青くなるぞ」もう一人が腕をさすりながらやってきた。鉄アレイが当たったのだろう。
それくらいの打撃しか与えられなかったのだ。
自分が必死にやっても、所詮はこの程度の反撃にしかならぬのか。
今この時のことだけではない。
まわりから馬鹿にされようと無視されようと、こつこつと勉強を続け、いつか見返してやると思い続けていた。途中まではうまくいっていると思っていたが、結局、こうして駄目になる。みなと違い、自分だけが、ろくなマス目のない双六をやらされているのだ。
「とにかく佐々木君、ここで死んでもらうから」男が言う。手には拳銃と思しきものがあった。
その視線に気づいたからか男は、「これでやれば手っ取り早いけどな。佐々木君、知ってるかな。死体を隠すのは意外に面倒なんだ」と言う。
「一番スムーズなのは、死体を置きっぱなしで、しかも怪しまれないことだ」もう一人の男がダイニングテーブルの椅子を動かした。
「簡単に言えば、自殺してもらえればありがたい、ってことだな」銃を持った男が顎を揺する。「椅子のほうへ移動しろ」
「昔は自殺屋がいたんだよな」
「鯨はいなくなった」
「ああいう専門分野を持つ業者はどんどん減っている」
「何でもできないとな。専門なんてのは、自己満足のこだわりに近い。今じゃやっていけない」
「憧れるけどな」「鯨に?」「いや、そういう通称だ。押し屋やら自殺屋やら」「口裂け女みたいなもんだろ」
やり取りが耳に入ってくるものの、中身は理解できない。捕鯨問題と思いきや、口裂け女という名前も出てくる。
「よし、これでいい」細いロープから手を離した男が、椅子から降りる。「これで大丈夫か?」
「体重で落ちるかもしれないが」もう一人が、佐々木を引っ張り上げる。「これくらいの重さならいけるだろ」
「やっぱり青くなるぞ、これ」男はまた腕をさすっている。
「じゃあ、首を入れろ」人の命を奪おうとしているにもかかわらず、洗濯物の干し方を指導するような言い方をする。「抵抗したら、撃つぞ。どちらにせよ変わらない」
「た、ただ」佐々木はどうにか言った。「死体、面倒ですよ」
男たち二人が顔を見合わせている。視線で二、三言葉を交わすようで、少しして同時に、表情を緩めた。「おまえも必死だろうけどな。いや、確かに面倒ではあるが、おまえが暴れるようだったら遠慮なく、撃つよ。面倒臭いってのはな、やってやれないことはないって意味でもあるからな。勘違いするなよ」
「それにな、言うこと聞いたほうが得だ。撃たれれば痛い。だろ。痛いまま死ぬのと、痛くなくて死ぬのとどちらがいい」
詐欺のやり口だ。佐々木の頭で警報が鳴る。選択肢を二つ見せて、どちらかしか選べないように仕向けるのだ。実際には、選択肢はほかにもあるはずだ。おい、聞いてるのか! 佐々木の内なる声は、佐々木には聞こえておらず、ふらっと立ったまま、椅子に近づく。
インターフォンが鳴ったのは、その時だ。突然の音に、佐々木は撃たれたのかとぎょっとした。心臓が停まったのかと感じる。
男が一人、佐々木に言う。「誰だ?」
「分かりません」「宅配便か?」「予定はないです」
「どうする」「一応、応答させるか?」「余計なことは言うなよ」「いまどき、モニターもついていないタイプか」
佐々木は台所近くの壁に設置された親機に近づき、ボタンを押すと、「はい」と声を出した。
「あ、佐々木君? 俺、斧寺だけど」何も知らないとはいえ、のんびりした声に腹立たしさを感じる。
「誰だ」隣の男が囁く。
「地元の知り合い、同級生です」佐々木は緊張感に耐え切れず、今すぐしゃがみ込みたかった。
「何しに来た」「分かりません」
斧寺の声がまた聞こえる。「昔、借りたゲームソフト返そうと思って」
予想もしない台詞に、佐々木も言葉を失う。
「ほら、中学の時にさ、ポケモンのソフト借りたの覚えてない? あれ結局、俺が持ってたままでさ。さっき会った時に思い出して、仕事終わって、すぐに取ってきた」
いいから早く帰らせろ、と佐々木の前の男が、手を振っている。
「斧寺君、今日は帰ってくれるかな」佐々木は言う。声が震えてしまう。「今日は」と言ったものの、自分にとっての人生は、「今日」までしかないのではないか。そう思うと恐ろしさで、卒倒しそうになる。「ポケモンはいいよ、あげるよ」
斧寺はしばらく無言だったが、ほどなく、「ああ、うん」と答えた。
インターフォンが切れ、男たちが、「じゃあ、続けるか」と動きはじめた。佐々木は肩を落としたままだ。
「椅子に上れ」とまた命じられる。
「それにしても律儀というか、馬鹿な奴だな。中学の時に借りたゲームを今、返しに来るか、ふつう。こんな夜によ」
「ですね」佐々木はそれには同意する。
今日の朝、たまたま町で再会したことで、ゲームのことを思い出したのだろうが、それにしてもわざわざ律儀に持ってくる斧寺が、佐々木には魯鈍に思えてならない。
「庭で音がするぞ」腕をさすっている男が言い、窓に近づく。
てっきり庭には、彼らの仲間がいるのだと思っていたが、そうではないらしい。先ほど感じた気配は勘違いだったのか。ベランダから飛び降りる選択肢もあったのか。そうだったら今頃は違う展開になっていたのではないか。
焦りが悔恨をかき回し、頭の中でぐるぐると渦を作る。
気づけば佐々木は、椅子の上に立っていた。ロープが目の前にある。これでおしまい、と語りかけてくる口のようにも見えた。
「頭を入れろ」と言われ、体を傾けると自分の重みが頭に集まったかのようで、くるっと前に倒れそうになる。
「ほらやっぱり。俺の思った通りだ。俺は天才だな」
その声が後ろから聞こえた。え、と体を捻った拍子に転びかけた。
(第5回へつづく)
※本試し読みは、4/30(木)までの期間限定です。
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