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試し読み

伊坂幸太郎、幻の<殺し屋シリーズ>未完中編「Drive」、期間限定試し読み③ 文庫『AX アックス』発売記念(〜4月30日まで)

>>【「Drive」試し読み】第1回から読む

2/21(金)に発売された伊坂幸太郎さん文庫最新刊『AX アックス』は、「AX」「BEE」「Crayon」「EXIT」「FINE」の全5編の連作集。各編の頭文字が「A」「B」「C」「E」「F」となっており、「D」が抜けていることにお気づきでしょうか?
幻の「D」は、実は「Drive/イントロ」という題名で「小説 野性時代」2015年11月号に掲載されたものの、書籍には未収録。
今回は文庫『AX』の発売を記念し、その未完中編の全文を、特別に期間限定で公開!
『AX』の主人公「兜」が家族とドライブ中に、物騒な事態が……。新たな殺し屋も登場。ぜひお楽しみください!

本作について、伊坂幸太郎さんよりコメントを頂きました。
伊坂幸太郎さんより:「Drive」について。

 ◆ ◆ ◆
>>前話を読む

 目の前にいる斧寺を見ながら、佐々木はその、十年前の中学時代のことを思い返していた。
「あれ、佐々木君、大丈夫? ぼうっとしているけどさ」とふっくらとした丸顔で言う。
 埴輪に似た顔は変わらなかったが、中学生の頃よりも頬に肉が付き、輪郭からすれば土偶に近い。が、目鼻は埴輪のままだ。体は大きくなっている。作業服を着ているが、きつそうだった。
「いや、そういうんじゃないんだけれど」
「いつぶりかなあ。懐かしいねえ。いつここに戻ってきたの? 佐々木君の実家、まだこっちにあるんだっけ」斧寺は愛想のない顔をしているが、自分との再会を喜んでくれているのは分かる。佐々木のほうは喜んではいない。この面倒臭い時にもっとも鬱陶しい人間に会ってしまったとげんなりしていた。おまけに今まで忘れようとしていた、中学生の頃の、情けなく弱々しい自分を突き付けられるようでつらい。地元に帰ってくること自体が、苦痛だった。
「去年、母親の葬儀の時に戻ってきたけれどね」
「佐々木君のお母さん、亡くなったのか」斧寺は下唇を出した。不謹慎とも思える表情だったが、ふざけているわけではないようだった。「寂しいもんだね」と呟くのも本心のようだった。「中学の時さ、一度、佐々木君ちでスイカもらったんだよ」
「そんなこと」あっただろうか? そもそも、斧寺が家に来たことなどあったか、と考えてしまう。
「佐々木君の教科書を俺が間違えて持ち帰っちゃってさ、届けに行った時だよ。そうしたら、お母さんが喜んでくれて」
 おそらく、友人が家に来たことなどなかったからだろう。言われてみれば、斧寺が自宅のダイニングテーブルでスイカを汚く食べている場面が思い浮かんだ。スイカの種を口から出し、「危ねえ、種飲んで、盲腸になるところだった」と真剣に言っていたような気もする。
 母が亡くなった後、実家を売却するつもりだったが荷物整理をするのも面倒で、放っておいた。家の維持費や固定資産税などを考えればさっさと処分して、誰かに売り払ったほうが良いとは思うものの、整理のために地元に戻ってくること自体が不愉快だった。まさかその自宅が役立つ時が来るとは思ってもいなかった。
「変わらないなあ、佐々木君は」斧寺は嬉しそうに言うが、嬉しくはない。むしろ、あの苛められていた中学生の頃から脱け出せていないと指摘されたようで、陰鬱な気持ちになる。だからなのか、自分でも驚くほどムキになり、「今は東京で、歯科医をやっているんだけどね」と強い声を出していた。
「歯医者? すごいな、それは!」斧寺は目を輝かせ、腕を開くようにした。大袈裟な驚き方だったが、佐々木もまんざらではなかった。が、その瞬間、頭を過ったのは、「自分が歯科医になったのは、斧寺の影響なのでは」という思いだった。斧寺が、「医者になって、いじめてきた奴らに復讐する」と主張していたことが記憶のどこかに残っていたのではないか。すっかりその時のことは忘れていたが、斧寺を前に急に、過去のやり取りが蘇った。もしかすると、あの時の斧寺のアイディア、医者になれば仕返しができるという案に、影響を受けたのではないか。
「今度、治療してもらいたいなあ。痛いんだよね、奥歯」斧寺は言う。「虫歯なのかなあ」と言いながら口に指を引っ掛け、こちらに見せようとする。
 佐々木の個人医院ではなく、古い歯科医院のスタッフであることは言わなかった。だいたいが、あの歯科医院に戻ることがあるのかどうか。「そうだね、今度、東京に来ることがあったら」と佐々木は社交辞令丸出しで答えた。
 すぐに胃が痛くなる。あそこには帰れないのかもしれず、そうなれば自分はこの、自分が捨てた町にいなくてはならないのか。いや、ここでさえ安全なのかどうか。
 路上にいることすら不安になりはじめる。家の中に入りたかったが、斧寺はまだ、立ち去る素振りも見せなかった。「斧寺は今、何をやってるんだい」医者になった? と訊ねるのは嫌味に過ぎると思った。医者とは明らかに違う、作業服姿だった。
「ああ、俺はさ、害虫駆除だよ。『害虫駆除GUY』って会社で。市役所の近くなんだ」と胸を張る。語呂がいいのかどうかも分からない社名だ。「今、行くところでさ」
 斧寺とは偶然、会った。原付バイクで走っていた男が急に停まり、佐々木に話しかけてきたのだ。フルフェイスのヘルメットを脱ぐまで、佐々木は追手が現われたのかと思い、万事休すと覚悟を決めたが、斧寺だったためにほっとした。その、ほっとした気分で、立ち話をのんびりとしてしまった。
「害虫駆除って、ゴキブリとか?」
「蜂とか」斧寺は誇らしげに胸を張る。「スズメバチとか多いんだよ」
「田舎だからね」と佐々木は地元を小馬鹿にする言い方をした。
「まあね。ただ、都会でもスズメバチは出るよ」
「大変そうな仕事だけれど」
「やりがいはあるよ。でも俺はまだ諦めてないからさ」
「何を?」
「いつか、あいつらの家にも害虫が来て、うちに依頼してくるんじゃないか、って」斧寺は腕を組んで、貫禄を出す。腹が出ており凛々しくはない。にもかかわらず自信満々だ。「俺を中学、高校で苛めていた奴らが依頼してきたら、俺の出番だ」
「どうするつもり?」
「殺虫スプレーをふんだんにかけてやる。もうね、クビになってもいいから、そいつの家をめちゃくちゃにしてやる。害虫はおまえらだ! ってさ」斧寺は興奮しはじめ、両手で架空の相手につかみかかるような恰好をした。
「今のところ、依頼はないの?」「何の」「あいつらから害虫駆除の」
「ないんだよなあ。今度、営業に行ってこようかなと思ってるんだ。『おたくに害虫いませんか、ご自分以外に』とか言ってな!」斧寺は何が可笑しいのか、嬉しそうにしばらく笑っている。
 そのまま話をしているわけにもいかない。佐々木は、「じゃあ、また」と挨拶をすると反対側へと歩きはじめた。
「佐々木君も俺も、虫を退治するという意味では一緒だなあ。虫歯と害虫。面白い!」
 斧寺の声は大きく、背中から聞こえてくるだけで恥ずかしかったため、急いだ。

 無人の住居は傷みやすいと言うが、実際、住人のいなくなった実家は、カビの臭いが漂い、壁や柱も弱々しくなっているように感じる。
 佐々木はコンビニエンスストアで買ってきた袋をテーブルに置く。ペットボトルの蓋をひねり、水を飲んだ。
 息を吐き出す。スマートフォンを探そうとした自分に気づき、電源を落としていることを思い出す。居場所がばれてしまっては困るのだ。
 どうしてこんなことになってしまったのか。
 地元を出て東京の全寮制私立高校に入り、高校入学時から大学受験に照準を絞り、勉強三昧、友人らしい友人を作ることもなく、現役で歯学部に合格を果たした。歯大生としての日々は、過去の人生では考えられないほど解放感のある、華やかなもので、もちろんそれは自分史の中での相対的なものに過ぎず、一般的な大学生の、一般的な日常とほぼ変わりなかったが、とにかく佐々木は学生生活を満喫した。初めての恋人もできたが、「つまんない」とすぐに別れを告げられた。つまらない男、の言葉は自分の一番弱い部分を突いてきた。佐々木はそこから、よりいっそう歯科医開業への意志を強くしたといっていい。開業するには資金が必要で、ごく普通のアルバイトの収入では高が知れている。早い時期から、真っ当とは言い難い仕事に手を出すようになった。はじめは、レンタルオフィス、架空の会社事務所のスタッフとして働いた。実体を持たぬ会社が、顧客を信用させるために使うその場しのぎのオフィスで、その場しのぎとはいえ、いやその場しのぎだからこそ、立派な立地の、貫禄あるフロアが使われた。佐々木はそこで、スケジュール管理のサポートをやっていたが、そのうちに背広を着させられ、社員の役割をやらされるようにもなった。そういったところを利用する者たちは、会社の実体を取り繕うくらいであるから、表通りで商売するタイプよりは、法律や規範から外れたところで生き抜いている人が多く、曖昧な威嚇を滲ませながら、佐々木を勧誘した。「もう少し手伝ってくれるだけでいい金になるんだけどな」
 彼らが連れてきた、何も知らない客を危ない投資に誘導したり、もしくは、もっと単純に誰かの手荷物をすり替えたり、といったことだ。
 佐々木はさほど悩まず協力した。何しろ金を集めたかったからだが、実際、預金は見る見るうちに増えた。
 その時点までは悪くなかった。もちろん刑法や民法、道徳の基準からすれば悪かったが、佐々木としては悪くなかった。しくじってはおらず、むしろ成功への道筋を進んでいる実感はあった。
 そこで知り合ったどこぞの社長の紹介で、大学卒業後、歯科診療所に勤め始めた。
 ますます順調な道筋に思えた。
 開業するまでの働き口としては申し分なく、ともに働く歯科助手の女が、自分に気があるように感じ、垂らした釣糸をそれとなく引き、その手応えに悦びを覚えた。
 自分が冴えない外見の蛹から、翅を広げた成虫に羽化したような解放感を覚えた。やはり、あの時の自分は蛹だったのだ、と安堵する思いもあった。
 が、そこに暗雲が立ち込めてきた。
「歯型データを差し替えてくれ」診療所オーナーであり、そこのボスである医師、〈先生〉から、最初にそう命じられた時には、何のことか分からなかった。「これをこれに」と手書きの六桁数字を二つ渡された。患者のカルテIDだとは少しして分かる。「これから、佐々木君にもこういうことを覚えてもらわないといけないからね」
 余計なことに疑問を抱いてはならない。そこで佐々木の脳裏を過ったのは、中学時代に同級生に睨まれ、「おまえ、俺たちがここでさぼってること、チクるんじゃねえだろうな」と口止めされた時のことだ。「いえ、別に僕は」とおろおろしながら手を振る佐々木の横には斧寺がいて、「まったく、チクるんじゃねえぞ、なんて小物の台詞だっての。チクられても堂々としてりゃいいのに」とぶつくさ呟いている、そういった場面が思い出された。
 佐々木が、〈先生〉からの指示に従わない理由はなかった。
 数日後、たまたま観ていたニュース番組に、交通事故で死亡した被害者の名前が流れた時、佐々木はそれが、データをいじくった患者の名前と同じだと気づいた。そして、歯型などから身元が判明した、という説明に、「え」と顔を上げた。
 自分がしたことが何を引き起こしたか、あの指示の意味は何だったのか。佐々木も察した。
 それ以降も、カルテの操作はたびたび命じられた。〈先生〉も誰かから依頼されているのは間違いない。これはこれで〈先生〉への貸し、もしくは自らの下積みとなる、と前向きに捉えた。
 まさか、〈先生〉が殺されるとは思ってもいなかった。
 自宅のダイニングテーブルで、コンビニエンスストアで買ってきたおにぎりを口に入れるが、その手が震えている。診療所で倒れていた〈先生〉の姿の記憶が蘇った。〈先生〉の頭から血が大量に流れていた。
 自分のマンションの周囲に、堅気とは思えぬ男たちがうろついているのを見つけた瞬間、佐々木は、逃げることを決心した。
 着の身着のまま、行ける場所は実家しか思いつかなかった。あれほど嫌で、帰らぬようにしてきた地元に戻るのは屈辱的だったが良い面もあった。地元のことを記憶から抹消したい気持ちが強かったために、〈先生〉をはじめ誰にも、実家がどこであるのか、具体的な住所までは知らせていなかったのだ。せいぜい、「千葉県」ということくらいではなかったか。
 テレビをつける。
 ニュース番組を映すが、〈先生〉のことは報道されていない。二日経つ。死体は発見されていないのか? 診療所は急遽、閉めたのだろうか。誰が? 〈先生〉を殺害した者たちだ。殺人をなかったことにできるのか?
 ネットニュースも検索したいところだったが、スマートフォンを使うのは恐ろしかった。GPS機能を切ればいいのかもしれないが、それを確かめること自体が怖い。逃げはじめてから一度も電源を入れていない。
 自分を狙う理由はないはずだ。佐々木は自らに言い聞かせる。
 逃げる必要もなかったのではないか。
 楽観視しようとする自分もいるが、別の自分がすぐに釘を刺す。
〈先生〉の命を奪い、それを隠す者たちが、例のカルテ偽装の口封じを目論んでいるのであれば、実作業をしている佐々木のことも邪魔に思うはずだ。
 家のカーテンは閉め切っている。昼間であるというのに室内は暗く、電気も台所の蛍光灯をつけただけだ。灯が外に漏れた瞬間、近所の誰かがやってくるような恐れを感じている。
 ここで大人しくしていよう。
 そうすれば問題はない。佐々木は自らに言い聞かせる。じっとしていられず、二階へ上がる。
 蛹のように大人しくしていよう。
 そうだ、自分が成虫になったのがいけなかったのではないか。
 自分の部屋はほとんど物置と化していた。そのこと自体は不愉快ではなかった。もともと母には、「ここには戻らない」と言ってあった。いずれ自分が豊かな生活を送れるようになった暁には、母のほうをこの田舎町から東京へと引っ張り上げたいと考えていた。あんな田舎町から、早く脱出させたかった。「わたしはここがいいよ」と母は言っていたが、佐々木からすれば、それは怪しげな新興宗教に囚われている、無知なる羊としか思えなかったのだ。
 部屋には、ほとんど使われなかったマッサージチェアや壊れた暖房器具が置かれている。鉄アレイが二つあるのも発見した。持ち上げてみれば、比較的軽かった。中学生の頃だったろうか。力がつけば、苛めてくる同級生に対抗できるのでは、と手に入れたのだ。もちろん、当時は自分で買うことはできない。母親には、「筋肉をつけたくて」と動機を話したのではなかったか。近くの、ホームセンターから母が買ってきてくれた。重くて大変だったはずだが、あれを家まで運んできた母は平気だったのだろうか。今になって、気になる。
 一日何回と決め、鉄アレイを持ち、トレーニングをやった。が、もともと運動が苦手な上に、やり方がまずかったのか肘が痛くなり、それを口実にやめた。
 さすがにあの頃よりは体も大きくなった。佐々木は鉄アレイを動かしてみたが、それほど重くは感じない。
 武器になるだろうか?
 重みを確かめるように揺すってから、佐々木はその考えを振り払う。争いになる場面など考えたくもなかった。

(第4回へつづく)
※本試し読みは、4/30(木)までの期間限定です。

伊坂幸太郎『AX アックス』特設サイトhttps://promo.kadokawa.co.jp/ax/


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