AX アックス
伊坂幸太郎、単行本&文庫に未収録の幻の未完中編「Drive」期間限定試し読み② 文庫『AX アックス』発売記念(〜4月30日まで)
2/21(金)に発売された伊坂幸太郎さん文庫最新刊『AX アックス』は、「AX」「BEE」「Crayon」「EXIT」「FINE」の全5編の連作集。各編の頭文字が「A」「B」「C」「E」「F」となっており、「D」が抜けていることにお気づきでしょうか?
幻の「D」は、実は「Drive/イントロ」という題名で「小説 野性時代」2015年11月号に掲載されたものの、書籍には未収録。
今回は文庫『AX』の発売を記念し、その未完中編の全文を、特別に期間限定で公開!
『AX』の主人公「兜」が家族とドライブ中に、物騒な事態が……。新たな殺し屋も登場。ぜひお楽しみください!
本作について、伊坂幸太郎さんよりコメントを頂きました。
▷伊坂幸太郎さんより:「Drive」について。
(リンク:「Drive」試し読み①)
◆ ◆ ◆
十キロ先に大井パーキングエリア、という標識が見えたところで、兜は、「トイレに行きたいんだが」と口に出す。
「家で行ってこなかったの?」
「行ったつもりなんだが。どうだ、克巳はトイレに用はないか」と後部座席に声をかけた。
「どうだろう」
「まあ一応、寄らしてくれ」
パーキングエリアの駐車場は広かったが、それなりに自動車で埋まっており、端のほうに停めた。
じゃあ、とトイレに向かうと、妻も、「美味しいものがないか、見てくる」と売店のほうへと歩いて行く。
個室トイレに入るとすかさず電話をかけた。診療所にいるはずの医師に、だ。が、何度呼び出しても誰も出ない。まったくこれではどうしたら良いのか分からない。いつまでもパーキングエリアで時間を潰しているわけにもいかず、とりあえず俺はやるべきことはやった、渡される物やその段取りが分からねばどうにもならぬのだから、仕方があるまい。指示を無視したのではなく、指示のほうが俺を無視したのだ。言い訳ではなく、これは間違いのない事実だ。
よし、とトイレから出たが、そこで、「あ」と弾む声を出す女性がいた。「三宅さん」
眩暈を覚えた。同時に、周囲が気にかかり、目をサーチライトのように走らせる。妻がどこにいるのかが気にかかった。
「ええと、君は」
「伊東ちあきです。名前、忘れたんですか?」
「忘れたも何も、もとから知らない」誤解を招くようなことを言わないでほしかった。「ボルダリングジムで一緒だっただけで。俺は君がいたことすら記憶にない」
「傷つきます」伊東ちあきは言った。先日、ファミリーレストランで声をかけてきた女だ。「こんなところで会うなんて、すごい偶然ですね」
高速道路のパーキングエリアで遭遇するとは、確かに、「すごい偶然」だったが、その「偶然」を必然だと勘違いする人間もいるのではないか。兜はそのことが恐ろしい。
「これは何かの運命ではないですかね」
「どこに行くのか分からないけれど、早くいなくなってくれ」
急に投げつけられた冷たい言い方に、女は青褪める。が、兜の知ったことではない。馴れ馴れしい人間は昔から気に食わなかった。さらに彼女の場合は自分を危険に晒す可能性すらあった。
「そんなこと言わないでくださいよ」伊東ちあきは、しなを作るようにし、一歩前に出た。丈の短いワンピースは、濃い灰色のせいか、落ち着いて見えるが、その落ち着き払った服のせいで、首筋や腿といった素肌の部分の色香が、余計に強まっているようにも見える。「今日はこれからどこに行くんですか?」
「どこでもいいだろう。関係がない」
「関係なくはないですよ」
そろそろ我慢の限界だった。どこか、女を人目のない場所に連れていけないか。命を奪わないまでも、黙らせる必要がある。痛い目に遭わせれば、次からはどこで会おうと、怯えて逃げるだろう。
「言うことを聞かないと、命がないぞ」冗談とは思われぬように、鋭く相手の耳にそう言うのも手か。
「言うこと聞いて。家族の命に関わる」
そこで女が言ってきたものだから、兜ははっとする。改めて、女の顔をまっすぐに眺めた。緊張感はなく、微笑みすら浮かべているが、それはあちらが兜よりも優位であることの証だと気づく。
「どういうことだ」
「あなたに選択の余地はあまりないの。言うことを聞かないのなら、あなたの家族の命はない。あ、ちょっと待って、わたしが、あなたの奥さんや息子を殺すわけじゃないからね。もちろん、そうしてもいいんだけれど、もし、あなたがわたしを殺しても、別の誰かが、家族の命を奪うってこと。だから早まらないで」
頭に浮かんだのは、当然ながら、あの診療所の医師だ。引退したいと訴える自分を、快く送り出してくれるかどうか疑問ではあった。「いったい、どういうことだ、これは」
「簡単に言うからね。今から海ほたるで、仕事をしてほしいの」
「海ほたる、ってのはあの」
「もちろん、あの。東京湾上にあるパーキングエリア。そこに来る男を殺害する。それだけ」
「それだけ、と言われてもな。狙うのは誰なんだ。一般人なのか? それとも」
同業者だと面倒だ、と言おうとしたところで兜は、自分がそれを引き受けようとしていることに気づく。
「一般人だという話みたいだけれど、もしかしたら違うかもしれない」「それは何も言っていないのとほぼ同じだ」「まあそうね。ただ、あなたみたいなプロじゃないのは確か」「今日か」「今日これから」
「ずいぶん急だ」
「その通り。わたしも急遽、駆り出されたの。あなたに指示を伝えるために」
医師が、「大井パーキングエリアに立ち寄れ」とメールをしてきたのはこのためだったのかとようやく気づく。つまりこの女も、医師と繋がっているのだ。話しぶりからすると、兜同様に、仕事を依頼されているのかもしれない。
「面倒な男の依頼らしいの。お金を持ってて、執念深くて、疑い深い。自尊心が強い。ほら面倒臭そうでしょ」
「そういうタイプの男の依頼には、こんな風に急ごしらえで対応してはまずいだろ」
「その通り。だから、準備はしていたらしいの。信頼できる、凄腕、敏腕、間違いなしの。狙撃の名手」
「ベテランの狙撃手か。なら、そいつに任せれば大丈夫だろ」
「魔女の一撃がなければ」
「ぎっくり腰か?」魔女の一撃とは、ぎっくり腰の別名だ。
「昨日の朝、めでたく、ぎっくり腰に」
「嘘だろ」プロが何をやっているのだ、と呆れる。
「プロ野球選手だって、ぎっくり腰になるんだから。筋肉がついていても、バランスが悪いと駄目みたい。ほら、狙撃の人って、ずっと同じ姿勢でいるから、なりやすいんじゃないの?」
知るか、と兜は答えたくなる。
「まともに仕事はできそうもないらしくて、ドタキャン。だけど、海ほたるにターゲットを呼び出したのは今日だから、延期できない。そこで調べてみたら、あなたがまさに、アクアラインで旅行に行くのが分かったってわけ」
医師には、家族で出かける、とは伝えてあったが目的地やドライブ経路までは教えていなかった。おそらく、GPSの動きで予測したのだろう。アクアラインに乗る予定がなかったとしても、乗るように指示を出せばいい。
「で、わたしが駆け付けたの」
「連絡係か」
「あと同伴」「何だ?」「ちゃんと仕事をするかどうか、同行しないといけないの。そう怖い顔をしないでよ。わたしだって、嫌なんだから。ただ、そう命令されてるの。分かるでしょ。仕事なんだから」
「仕事、というのはオールマイティな言い訳だな。誰も文句が言えない。ボルダリングジムで会ったというのは、嘘か」
「それは本当。ちゃんと通っていたんだから、わたしも。あなたが何をしているのかの調査のためね。もちろんそれも仕事」
「監視されてるってわけか」
「監視というより観察くらいじゃないのかな」
「ファミレスで声をかけてきたのも、指示か」
「あれはついうっかり。たまたま会ったから、悪戯心で。まさか、わたしのことをまったく覚えてないとは思わなかったけれど。わたし、ボルダリングジムで結構、人気だったのに」
「あら」撃たれた弾が当たった、と思えば妻の声だった。
やめてくださいやめてください、と高い声で繰り返す。悲鳴のようだが、どこか芝居がかっている。
学生服姿の同級生が、斧寺を取り囲み、突き飛ばしているのだ。校舎の隅や体育館の裏、休日に呼び出されたスーパーマーケットの駐車場で、遊び半分に殴られる。やめてくださいやめてください勘弁してくださいよ、と呪文のように繰り返す斧寺は、太った埴輪のような外見だ。
「おい、ニワトリ、ハニワを殴れ」髪を短くし、テレビに出てくるダンスグループのようなパーマをかけた同級生が、佐々木を振り返る。ニワトリのような顔をしている、首が細長い、といった理由からだろうか、佐々木はいつもニワトリと揶揄され、「ハニワとニワトリ」は彼らにとって、うっぷん晴らしのおもちゃだ。
殴れません、と佐々木はかぶりを振る。ハニワ、斧寺に対する優しさからではなかった。苛められている者同士、ではあるが、佐々木としては斧寺とは相容れないものを感じていた。体が弱く運動は苦手とはいえ、佐々木は勉強ができた。比べて、斧寺はぽっちゃりとした体形から想像できる通り、鈍足の不器用で、さらにはテストの点数もからきしだ。一緒にされたくはない、と佐々木は思わずにはいられなかった。
殴れ、と言われて断ったのは、「自分も加害者になってしまったら損だ」という判断だった。もしかすると、彼らは、「佐々木も殴りました」と共犯関係に取り込もうとしている可能性もある。
まったくニワトリはほんと臆病だな、と同級生が鼻で笑う。
おまえたちと違って、こっちはいろいろ考えているんだよ、と佐々木は内心で言い返している。僕は人生を台無しにしたくないからね。一生この千葉の田舎で、威張り散らしてろ。
やがて斧寺は起き上がらされる。次は、佐々木が小突かれる。数人から背中や尻を蹴られ、殴られた。
「おい、ハニワ、ニワトリを殴れ」と同級生が言うのが聞こえる。そこで、もしや、と思うが斧寺は、「了解しました」と返事をし、例の埴輪のような顔のまま近づいてきて、佐々木の頭をぱしんと力強く叩く。
「いやあ、あれはああするしかなかったよね。ドンマイドンマイ」
同級生が去った後、二人きりになったところで斧寺は悪びれもせずに言ってくる。
「ドンマイってたぶん、斧寺君の立場で言うべきじゃないと思うよ」佐々木はさすがに言わずにいられなかった。殴られた部分が痣になっていないか、体を捻り、確認する。
「え、俺が言っちゃ駄目なの? そういう決まりとかあるんだ? 著作権みたいな感じなのかな」斧寺はふざけているわけではなく、真顔で言う。「でもさ、あいつらほんと調子に乗ってるよな。弱いもの苛めしかできない、ちっちゃな奴らだよ」
「斧寺君、すみませんすみません、ってたくさん謝っていたけど、別に僕たちが悪いことをしたわけじゃ」
「ああ言ってりゃ、あいつらは満足するんだよ。ごめんなさいごめんなさい痛い痛い、ってさ」斧寺は平然としている。
「でも、悔しくないの。謝るなんて」
「あんなの御経みたいなもんだよ。悪霊退散って感じで。俺はちっとも悔しくないね」先のことをまるで考えず、目の前の状況をやり過ごすことにだけ腐心しているような斧寺を、佐々木は愚かとしか思えない。「進路とか考えてるの?」と聞かずにはいられなかった。
「進路? 俺の頭じゃ、どうせ大した高校行けないしなあ。でもさ、俺、あれになりたいんだよ」
「あれって何?」
「医者」
「医者?」佐々木は耳を疑った。斧寺の学力では医学部に行けるとは思えなかった。「医者って、どうやってなるか知ってるの?」
「どうやってなるか、は大事じゃないだろ」
「大事だよ」
「大事なのは、気持ちだ。佐々木君、そう思わない? 医者になりたい、って強い気持ちが重要でさ」
「斧寺君はどうして医者になりたいわけ」
すると斧寺は埴輪顔をふわっと綻ばせた。「あいつらが大きくなっても、ろくな人間にならないだろ」と先ほどまで佐々木たちをいたぶってきた同級生の名前を挙げた。「真っ当な仕事につけるわけがない。でしょ?」
「かもね」
「だとしたら、無茶やって、怪我するに決まってる。喧嘩とか、危ないことしてさ」
「かもしれないね」
「で、俺の勤める病院にあいつらが担ぎ込まれてくる」
「え」
「最高でしょ。その時が、俺の復讐の時だよ。昔、苛めていた相手が、自分を手当てする医者なんて、こんなに恐ろしいことはないよ」
「そのために?」そのために医者になりたい、と言うのか。佐々木は呆れずにいられなかった。「医者になりたい気持ち」について熱く語るから、てっきり使命感に燃えた話が飛び出してくるのかと思えば、違った。私怨を晴らすため、とは、しかもほとんど実現性の低いお伽噺にも似た復讐のために、とは医療に携わる人が聞いたら怒るだろう。
「斧寺君、本気なの?」
「医者になるのにも高校に行かないといけないのかな。専門学校とかないの? 医者専門学校とか」斧寺は腕を組み、首を捻る。
「親とちゃんと相談したほうがいいよ」医大に行くのにはそれなりに、お金がかかるはずだ。まさか本当に斧寺が医大を受験するとは思えなかったが、佐々木は助言した。
「無理だよ。うちの両親、ひどいから」
「ひどい?」
「子供に関心ないんだよ。父親はしょっちゅう殴ってくるし、お母さんは食事も作らないで、テレビばっかり観てるし」
子供ながらにその告白は重々しいものに思えたが、斧寺はどこかあっけらかんとしており、「あ、気にしなくていいよ。俺、十年以上、その家でやらせてもらってるから。対処法は分かってるしね。食べ物も出されない子供もいるんだろうし、それに比べたら、ほら、俺には肉もついてるくらいだから」と自分の贅肉をつまんでいる。「俺の夢はさ」
「医者になる、ってことじゃなくて?」
「将来、子供ができた時に言ってやるんだ。人ごみとかで迷子になりそうな場所で、普通だったら、『パパの手を離すなよ』って言うんだろうけど、そこで、『パパの贅肉をつかんで離すなよ』と言ってやりたいね」
「ああ、うん」「受けるかな」「どうだろうね」
佐々木は学校で苛められ、家庭でも大事にされていないにもかかわらず、どこか楽観的な力強さを浮かべている斧寺に対し、うっかり憧れめいたものを抱きそうになるが、すぐに思い違いだ、と気づく。
「俺は絶対、あいつらにいつか復讐する。そして、子供に贅肉つかませてやる」
(第3回へつづく)
※本試し読みは、4/30(木)までの期間限定です。
▶伊坂幸太郎『AX アックス』特設サイト(https://promo.kadokawa.co.jp/ax/)