Last Supper

 私は以前から、自分はどうにも醜く哀れな存在だとばかり思って生きていました。何故そんな風に思っていたのか。必死に考えた結果一つの推論に辿り着きました。あくまでも憶測で裁量でしかありませんが、私の人生を振り返りこのような結論に達したのです。もうこの世界に期待などありません。
 一連のツイートについて申し上げます。
私は、今から一ヶ月ほど前、Twitter上で癌である旨を告白をしました。そこから私の人生は良くも悪くも大きく変わってしまいました。
 そもそも何故私がそんな事を告白したのかと言うと、酷く寂しく、苦しんでいたからと言うほかありません。他に言語化する術がありません。申し訳無いです。私はもともと弱い人間です。強さの定義が何かは分かりませんが、出来損ないの心臓であることは間違いないです。それなのにその弱さをひた隠しにして生きてきました。弱いということが惨めで情けなく、酷く格好の悪いものだと思って生きてきたのです。勿論、言うまでもなく今でも、弱さを見せることは格好の悪いことで惨めな自分をさらけ出すということなんだと、一種の強迫観念のように脳裏にこびり付いています。何故そのような考えに至ったのか、思考を巡らせてみたところ、それは小学生の頃の些細なイジメが原因だったのだという結論に至りました。イジメがどのようなものだったか、ここで詳細を述べても詮無いので端折らせていただきますが、私はそのイジメで学んだことがあります。それが、今の私を形成する一つの要因となっています。何かといいますと「弱いものは淘汰される」ということです。小さい頃に私が受けた屈辱は、声を上げることすらも赦されませんでした。声を上げても届かないどころか事態は悪化する一方だったのです。敗者は声を上げることすらも赦されない。負け組は黙って地べたを這いつくばるしかないのです。いつもそうです、マイクを向けられるのは勝者です。勝った者の声の方が優先されるのです。当たり前です、そういう世界です。小学校から既に資本主義社会なのです。そこに気づいた私は、ならば勝たねばいけないと思うようになります。勝つことが全てで、弱さを出したらそこを一瞬のうちに突かれて負けてしまうのです。だから弱さを見せてはならない、そう考えました。
 小学校卒業から私は人前で泣いたことがありません。映画館だろうとなんだろうと、唯一ジェットコースターを除いて。弱さを見せることで、攻撃されるんじゃないかと、不安があったからです。つまり、私は私を守るために強い自分を演じ続けてきたのです。私は卑怯者だったのです。自分の胸の内を語らず、斜め上から世界を見ては、人のことを何だかんだと言い、自分の感情というものに素直になれなかったのです。
 そんな私が、多くの人の場で初めて弱音を吐いたのが例のツイートでした。初め、私は1000人くらいの人に見て貰えればそれでいいと思っていました。それ以上拡散されると、弱さに付け入る人が出るのではないかとヒヤヒヤしていました。しかし、結果大炎上することになります。何故か、私は告白ツイートの前に大きな過ちを犯していました。それが今世に出回っているエロ垢との絡みです。病気の人がエロ垢と絡むはずがない。そんな憶測が飛び交い、それが火種となり今の今に至るのです。それについては一番はじめのブログ「最後まで読んでください」で説明させていただいたのですが、事態は収束を迎えるどころか今度は言い訳と言われるようになりました(ちなみに事態の収束を願いブログは3日ほどで削除しました)。一瞬にして収拾がつかないところまできてしまったのです。火に油を注いだかのようでした。念の為言及しておきますと、あの頃の私の精神は不安定でした。不安定なあの頃、勿論Twitterで知らない人とは言え、冒頭で述べた通り、弱音を吐くことは出来ませんでした。ただ呆然と人生という路に行き詰まり、露頭に迷っていたあの頃、私はエロ垢という形で人生の迷路を突き進むという陳腐な思考しかありませんでした。フォロワーが増えないと言っていたのも、冒頭の1000人くらいの方に見て貰いたいという私の身勝手な考えでした。攻撃されるのは嫌なくせに、独りでいるのも嫌だったのです。今考えると何とも中途半端で浅はかな考えだったのでしょう。結局のところ、強い自分を演じ続けることに限界が来たということに他なりません。
 そもそも、弱さを見せたのが駄目だったのではなく、嘘臭い弱さだったから叩いてきたのです。それについては私も重々反省しております。スタート地点で既に靴紐は解けていたのです。いや、スタート地点の目の前に落とし穴があったと言い換えるべきでしょうか。それも、皮肉なことに穴を自分で掘ったのだから救いようがありません。
 当然の報いかその日から毎朝毎晩のように暴言、讒謗が雨の如く降り注ぎます。傘のない私、つまりそれらから身を守る術を学んでいなかった私は一つ一つ見ては悲哀する他なりませんでした。「嘘つき」「死ね」「消えろ」1000回は見たと思います。丁寧にDMで送る方もいました。見てすぐブロックをしました。1000回は優に超えたのではないでしょうか。しかしブロックをされても尚、ご丁寧に新しくアカウントを作り直し攻撃してくる方々が、沢山いらっしゃいました。信じなくていい。嫌なら関わらなければいいのにと思っていましたが、きっと私がそうさせるべく何か重大なことをしてしまったのでしょう。私の罪です。何度ブロックしてもすぐに復活してくる、まるで西洋映画のゾンビさながらの恐ろしさでした。
 それならばTwitter辞めたらどうか、今度はTwitterにしがみついているその様が尚一層怪しいと思われるようになります。しかし、私はこう思います。批判する方は何を言っても批判する。つまり、辞めても批判され、続けても批判されるのです。どっちにしても私の傷は癒えやしないのです。それならば私は続けることを選びました。続けることで何か変わればいいと思ったからです。それに、辞めてしまえば、当初の私の希望、1000人程度の人に見守られたいという身勝手な願望を叶えられなくなってしまうと思いました。
 つまり、ここでやめたら「ただ傷ついて終わる」虚しい人になり得なかったのです。それだけはどうしても避けたかったのです。弱さを見せつつそれでもまだ、吹っ切れない自分がいたのです。だから中途半端になってしまいました。もともと、弱さを隠す事を当たり前のようにしてきたから、それが10年来の癖となり身体に染み付いていたのです。
 今でもそうです、私はきっと最期の最後まで自分の素顔を見せることはないと思っています。何を今更とお思いになられるかと思いますが、それが私という人間なのです。しかし、一連の件を通して抱え込まない人生というものも僅かながら体験することができました。それは皆様のお陰であります。有難うございます。抱え込まないというのはこんなにも楽だったのですね。私はもっと早くから知るべきでした。

 私のことを批判する方の殆どは先程述べましたブログ「最後まで読んでください」の文章を読んでいませんでした。なぜそのような事が分かるのかと言いますと、「最後まで読んでください」の文章は約1万字近くありました。普通に読んだだけでも20〜30分はかかる長文です。にも関わらず公開した直後に「全部よみました。言い訳ですね」などと書き込む人が後を絶えなかったのです。おそらくこのブログ公開後も同じように読んでもいない方からのメッセージがズラリと並ぶと思います。できることならばコメント欄を閉鎖したいと常々私は思いますが、そんな事はできず、コメント欄を見るのが非常に怖くなってしまいました。

 後になって私を知った方は例のブログを見ることなく、アンチが貼る攻撃的な文章と写真に乗っかってまた攻撃をするのです。批判的な言葉は連鎖的に続き、次第に大きくなっていきます。私の個人的な主観ですがアンチの数はフォロー外含め約3万人はいると見ています。あとの殆どは傍観者、DMを送ってくれた方々が私の精神的支柱でした。しかしながら、向けられる刃の矛先は全て私宛です。よってどんなに支えがあろうとも3万人vs1人の構図は変わらなかったのです。
 以前、私にDMしてくれたある方が「アンチは文字」と仰っておりました。私はその言葉に救われたのですが、同時に文字にボコボコにされる自分を非常に情けなく思いました。文字とは言えどもそれは凶器になり得ます。それを分からない日本人がTwitter上にはこんなにもいると知ったのです。SNSでのイジメが問題視されはじめた2012年代初頭、私もSNSをやめれば解決するとそう高を括っていましたが、そんな簡単な問題では無かったのです。これは我が身可愛さに、ましてや保身の為に述べているのではありません。

 本当なら一人一人ぶん殴ってやりたいけれど、会っても力で敵うわけがありません。かと言って言葉が通じるかと言ったらそういう訳でもないのです。寧ろ言葉は通じないのです。批判だけする野次馬達は簡単に受け取れる情報だけを見て、上辺だけをサーッとなぞり知った気になって攻撃するのです。つまり、野次馬達と戦おうと思った時点で私の敗北は決定しているのです。勝てるわけないのです。言葉は通じず、力は弱く、数の暴力で一人ひとりに説明する事もできず。いや、私の文章能力が無いが故かもしれません。惹きつけるような文章ではなかった為に、読ませることができなかった私に落ち度があるのかもしれません。

 しかし、例え読まれなかったとしても、どうしてもこの気持ちは書き残さねばならない。そう思いました。辛い辛いと言い自殺していった命達はその辛さを具体的に述べることなく、消えていくことが殆どです。その結果当事者は「死んだ」という事実だけを知り、自殺者がどんな思いで、何を考えて、実行したのか、大して深く考えようとしないのです。
 何が言いたいのかつまるところ、私を追い詰めた方々に少しだけ考えてもらいたいのです。自分のした野次馬的批判が客観的にみてどうだったかを振り返って頂きたいのです。「私を追い詰めた方々」とは、身も蓋もない言い方をすると匿名でしか言いたい事を言えないノミの心臓を持った私のリプでボヤくゾンビ共の事です。
 以前、「今後について」というブログを書きましたそこで、これからの事を話し、私について何か質問等あればメールを下さいと書きました。(今もブログは残っています。気になるようでしたら見てみてください)
そのブログで返信希望をした批判的コメントは5名でした。リプ欄ではあれだけ批判する方が多かったのにもかかわらず、真剣にやり取りをしようとする方はたったの5名だったのです。そして私はその5名全員に自己紹介をし、返信メールを送りました。しかしながら帰ってきたのは未だ1通もありません。結局の所、私を批判する気持ちはその程度だったのです。面白半分なのです。これが野次馬的批判です。しかしその面白半分で向けた悪意がいかに重大であるかを皆様はもっと知るべきです。
 過去に自身のツイートでも述べた文を引用すると、自分の中の「普通」や「常識」を押し付けてくる人が苦手です。いや、苦手などといった生優しいものでは無いかもしれませません。ストレートに言うと嫌いです。人それぞれみんな違うのに、「だって普通は」とか「当たり前でしょ」とかまるで自分が世界の中心であるかのように物をいうのです。それがおこがましい。十人十色というように、十人いて十人違っていていいのです。むしろそうでないと変なのです。

 これは持論ですが、頭の良し悪しは記憶力が良いとか計算が早いとかそういうので決まるものではないと思っています。何で決まるか、それは自分を除いた全ての物事に対してどれだけ理解力があるかです。
「普通」の水準は周りの人間で変わります。自分の周りに蔓延っている「普通」が、必ずしも他者にも受け入れられるかといったらそう言う訳ではありません。自分と他者との「普通」の解釈の乖離が大きければ大きいほど受け入れられ難くなります。つまり「普通」だと思っていたことが世間に出てみれば「普通じゃない」なんてことは結構ザラにあるのです。それなのにも関わらず、自分は間違っていないと、押し付けることが日常生活において頻繁にあります。私はその押し付けが苦手です。早い話、理解をしようともせず頭ごなしに否定するのは間違っているということです。

 数時間前私は診断書の写真を投稿しました。すると薬を見た誰かが「あの薬はうつ病の薬ではない」と言いました。「だから嘘だ」と。
写真をよく見ていただきたいのですが、薬は2つあります。一つは7日分、もう一つは90日分です。そして診断書も2枚あります。ピンク色のあの薬は90日分です。当然うつ病の薬ではありません。写っている薬がうつ病の薬とは一言も言っていません。むしろもう一枚の診断書の上にある。つまりもう一つの病気の薬であるとはなぜ思わないのだろう。
悲しいかな。何を言っても批判、バッシング。と、ここまで書いたら今度は「精神を病んだ人がこんな長文をかけるはずがない」と言うのでしょう。もう終わることのない戦いなのですね。しかし唯一終わらせる方法を思いつきました。
そろそろ終止符を打つ時みたいです。

私達は、どれだけ相手に期待して生きているのだろう。誰かに分かってほしい、その一心で、「皆違う」と言いながらも押し付ける。皆自分が正しいと、正解だと思って生きている。だから争いは絶えない。戦争はなくならない。
人は皆自分の景色を見てもらいたいんだ。SNSがそれを体現している。
私達は期待せずにはいられない。どうせ無理だと思っていてもどこかで期待している自分がいる。生きているから。
この先、未来を生きていくのに必要なものは希望だなんて言ったら大袈裟だけど、それはほんの少しの期待なのかもしれない。

レス

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