軽便鉄模アンテナ雑記帳

軽便鉄模アンテナ管理人(うかい)の雑記帳です。ナローゲージ鉄道模型の話題が主

追悼・水野良太郎氏

★漫画家・イラストレーターであり、鉄道模型界でも著名であられた水野良太郎氏が10月30日に亡くなられたとの事。



一昨年(2016年)に日本鉄道模型の会の「鉄道模型功労者賞」を受賞されましたが、JAMコンベンション会場での授賞式には出席されておらず、また公式サイトでパーキンソン氏病を患っている事を書かれており、お体の調子が悪いのだなとは思っていましたが、RM Models誌の連載はつい先日まで絶える事なく続いていたので驚きました。享年82歳。そもそもそんなお年だとは気が付きませんでした。
鉄道模型界での水野良太郎氏の活躍を振り返ると、大きく三期に分けられると思います。

  • <第1期>1970年代〜80年代の鉄道模型趣味(TMS)誌(主に一コマ漫画)と、書籍「鉄道模型入門」(廣済堂出版 1977)
  • <第2期>1990年代のTMS誌(「水野良太郎のレイアウトワールド」とのタイトルで、主にレイアウトやプラHOのアピール記事)。クラブジョーダンの活動にも熱心だった。
  • <第3期>90年代末期〜2000年代のRM Models誌と、書籍「鉄道模型の愉しみ」(東京書籍 2000)。2000年代前半は日本鉄道模型の会(JAM)の理事も務めた。

第1期(1971年にTMSでの一コマ漫画掲載始まる)の前に、キネマ旬報蒸気機関車」誌*1鉄道模型に関する檄文を記されていた様で(公式サイトを見ると、「編集委員として参加」とある)、TMS山崎喜陽主筆が亡くなった際に水野氏がTMS誌に寄せた追悼文「山崎喜陽さんを偲んで 1968年,銀座ネオン街を出発・進行 」(TMS2004年4月(723)号)では、「蒸気機関車」誌の檄文を見た山崎主筆に帝国ホテルに呼び出され、それから付き合いが生まれた…とのエピソードを記されていました。

1977年には廣済堂出版より「鉄道模型入門」を刊行。水野良太郎公式サイトの記述によれば、6万部も売れたとの事。40年以上経った今でも古本としてしばしば出てくるのは、それだけ部数が出たからなのでしょうね。

もともと自己主張、自意識過剰気味な性分で、"ちょっとやりすぎ""一言、多すぎる"ために、あらぬ誤解や買う必要もない恨みを買わされるハメになったりで、馬鹿をみてきた。(中略)
SLブーム以来、趣味としての鉄道模型が、ここ数年急速にクローズ・アップされ、企業としても成長産業である。一部のマニアやファンのものから、大衆的なものとして層が広がりつつある。そうした背景の中で、"それにしても……"という感情が、ぼくには日ごとに強まっていった。
メーカーも専門誌も、もう少しファンを大切にしてくれたっていいじゃないか、もう少し親切にしてくれてもいいではないか、というのが本書を書いた動機である。

水野良太郎鉄道模型入門」廣済堂出版1977 あとがきより)
このあとがきを見ると、氏自身による自己分析の内容と、当時の日本の鉄道模型界の状況が分かります。「一部のマニアやファンのものから、大衆的なものとして層が広がりつつ」あった時代だったが、日本の鉄道模型製品がまだ誰でも楽しめる様な物になっていなかった(1977年というのはトミックスがようやく出たところ)。それ故に不満を感じ、入門書を書くに至ったのでしょう。
もし水野さんが15年か20年遅く生まれていれば、システム化されたNゲージ製品での入門になり、製品に対してそれほどのストレスを感じる事もなく、鉄道模型入門書を書いたり、鉄道模型雑誌であれこれ書いたりする事もなかったのかもしれません。(いや、また別の種類の不満を抱いて檄文をしたためていたかもしれませんが…)
★思い返してみれば、第1期はTMS誌上では殆ど文章は書いておらず、ほぼ漫画のみ。漫画のみならず、文章も書ける方だった筈ですが、TMS山崎主筆が水野氏の"ちょっとやりすぎ""一言、多すぎる"点を危惧して、文章は書かせなかったのではないでしょうか? 唯一と言って良いのが1982年3月(413)号に掲載された「間違いだらけの狂気の世界」というエッセイ?ですが、非常に印象深くかつ読ませる一文でありましたが、第1期ではそれ位しかないのです。
また、漫画にしても「内容によっては掲載しない事もある」という事がミキスト欄に書かれていた記憶があります。TMS誌上での「水野良太郎」は、水野良太郎さんと山崎主筆の共同ペンネーム…とまでは言わないものの、相当にフィルタリングされたものだったのでは?と推察されます。
前述の「鉄道模型入門」もあとがきに「本書を刊行するにあたって、機芸出版社の山崎喜陽氏に多くの助言をいただいた」とあり、「やりすぎ」なところを助言という形で手直しさせたのかもしれません。
★第1期ではとれいん誌にも登場しており、後のRMM誌への登場を含め「等距離外交」であったかもしれないけれど、とれいん誌(というより「前社主」である松本謙一氏)とは相性が悪かった感がありますし(あくまでTMSやとれいんの一読者としての感想ではありますが…)、第2期以降はとれいん誌には登場されていなかったと記憶します。
また、今に続くHO/16番呼称問題の発端は、第2期TMS誌の水野氏の記事「水野良太郎のレイアウトワールド」での「HO/16番」という表記に対し、とれいん誌パイプスモーキング欄で松・謙氏が批判した事が発端でした。
この問題、単なるゲージ呼称問題だけではなくて

  • 売れっ子になって鉄道模型を買える様になってから始めた水野氏(関沢新一氏などもこのタイプ)と、裕福な家庭に生まれ、子供の頃から鉄模やTMSに親しんでいた「鉄模エリート」である松・謙氏(井門義博氏などもこのタイプ)との温度感の違い
  • 山崎主筆が病気で事実上引退し、赤井哲郎こと石橋春生氏が社長、片野正巳氏が編集長となったTMSに対し、子供の頃からの熱心な読者であった松・謙氏が不満を感じていたふしがあること。1970年代以降の鉄道模型大衆化でTMSも変わらざるを得なかったし(それだからこそ、とれいん誌が生まれ、上級ファンに支持され成り立った訳ですが)、山崎氏と赤井氏のスタンスの微妙な違いを(良し悪しは別として)指摘する声も案外あります。
  • 水野氏が省スペースで楽しむHOや海外プラHO製品を推すのは良いが、"ちょっとやりすぎ""一言、多すぎる"が故に、松・謙氏を暗に批判するような内容になっていたこと(ブラスロコや大レイアウトdis)。

なども影響しているのでは?とも、当時感じました。
水野氏は松・謙氏の批判に対してTMS1995年11月号に「僕がHO/16番と表記する理由」という一文を寄せていますが、この1/80・16.5mmの呼称問題は模型界全体に延焼し、それ以降20年以上に渡ってしぶとく炎上し続けているのであります*2
★話がそれましたが、第3期である2000年代以降は主にRM MODELS誌での隔月連載記事が主で、今に至るまで続いてきたのはご承知の通り。RMM誌は創刊当初「模型鉄道」をコンセプトにし、その後も初心者向け記事にも力を注いでいました。そのようなRMM誌と鉄道模型の愉しみを広く知らしめたいと考える水野氏の意向が一致した故の連載だったのかもしれませんが、TMS時代程には読者に注目されなかった感がありますが、どうでしょうか? また、RMM誌の編集スタッフが若手主体となる一方、「水野良太郎」が模型界の大御所となった(ご本人はそうは思っていなかったかもしれないですが)が故に、上手い具合に編集しづらいのかなぁ…と、誌面をみながら感じておりました。
ツイッターでキーワード検索して見ると、多くの方が水野さんを追悼されるつぶやきをされており、そこで話題になるのは「頭の体操」の挿絵、早川文庫の「キャプテンフューチャー」の表紙と挿絵、それと鉄道模型界での活躍の話が多いです。その一方で、漫画愛好家・評論家筋からの反応は非常に少なく、また「漫画家」という肩書に違和感を持たれる方、水野良太郎が漫画家であるという事をご存知ない方が少なからずいたのには少々驚きました。
1970年代は売れっ子で、TVやラジオにも出演、各方面でマルチに活躍されていたし、鉄道模型大衆化以前の時代*3に部屋一杯のHOレイアウト*4を持っていたのですから、下衆な想像ですが相当に稼がれた事でしょう。大きな成功をおさめた方と言って良いと思います。
しかし、「水野良太郎」を知っていても、水野良太郎が漫画家である事が知られていない状況になってしまったのは、氏が得意とし愛していたであろうヒトコマ漫画が、漫画界の主流ではなくなってしまったからなのかもしれません。ご本人としても忸怩たるものがあったのではないでしょうか?
★1991年には「漫画文化の内幕」という本を出されたそうですが、「ヒトコマ漫画に賭ける著者が日本の漫画界の実情に怒る。ひろく世界の漫画界を見通す眼で井の中の蛙的日本マンガのありうべき姿を描き、新視点を示す漫画論」(版元の紹介より)というこの本は、若手評論家やストーリー漫画好きから反発を喰らい、「老害」とまで言われた様子。

小生この本は未読ですが、90年代TMSや、00年代〜近年のRMMの氏の模型記事を見れば、そういう状況になったのは何となくわかる気がします。上で引用した「鉄道模型入門」のあとがきでの自己分析にある様な、"ちょっとやりすぎ""一言、多すぎる"のが災いしたのではないでしょうか? 漫画方面に詳しくないので全くの想像ですが、そんな事もあって、「漫画家・水野良太郎」が余計に漫画界で顧みられなくなってしまったというのはあるのかも知れません。ともあれ、日本の漫画界の流れと絡めての水野良太郎の評伝というのを読んでみたい気がします。
★上で記した通り、水野氏をイラストレーターとして認識していても、漫画家と認識していない、知らない方が少なからずおられる様ですし、読売新聞に掲載された訃報では「鉄道模型評論家としても知られる」とあります。
しかし、TMSの一コマ漫画を読んで育った古株の鉄道模型好きにとっては、水野良太郎先生は「イラストレーター」でも、ましてや「鉄道模型評論家」などという小賢しいものでもなく、やはり「漫画家」なのですよ。
3〜40年前に雑誌に掲載された一コマの漫画が今だに語り継がれて、模型人同士でその話題で盛り上がったりする…。漫画家かつモデルマニアとして、もって瞑すべしと言うのは言い過ぎでありましょうか?
今頃あの世で、やま氏に帝国ホテルならぬ天国ホテルに呼び出されて、お二人でグラスを傾けておられるのかもしれません。

*1:SLブームに乗ってキネマ旬報の増刊としてスタートしたSL雑誌。けむりプロのデビューの場である

*2:後に「HOゲージ」商標登録問題や、業界関係者による「殴打事件」まで起こる始末。ネットの普及によりマニア同士の直接かつ匿名バトルが可能となった事で「火にガソリンを注ぐ」結果となったのでは?

*3:1976年にトミックスが登場し、Nゲージが主流になってからが、鉄道模型が大衆化したとみなすべきと思います。

*4:後年は小型レイアウトを強く推していましたが

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  • 30代

    現在30台で初期のRMMで育ったファンですが、
    レイアウトにポイントを設置しないという考え方が、「第3期」の読者にとっては一番の目からウロコな考え方だったのではないかと思います。

  • うかい (id:keuka)

    >30代さん
    ポイントを設置しないというのは、相当に割り切った考え方でしたね。
    今では小型のパイク等で、ポイントなし、運転を楽しむより情景を見せる事を主体・・・という作品も多くなっていますが。
    水野氏は美術的センスは素晴らしいですが、工作的・機械いじり的な部分はあまりお得意ではなかった様子。
    「車でドライブするのは好きだが、スペアタイヤの交換が出来ない」と書かれていた記憶も。
    そんな事もあって、ポイントや車輪を調整したりするのではなく、あっさり無くしてしまったのではないかと想像しています。

  • id:noranomikenekodayo

    懐かしい
    平井鉄道も凄すぎる、
    シゲモンも良い
    ただ あの水野良太郎。
    寂しい!
    漫画 イラスト 鉄道模型!
    モデルス IMONのゲージ論
    はい16·5とHOは違う!
    池田邦彦様の本でわかる!
    ただゲージ論はまあ確かに、
    16·5とHOは違うが
    なんかあまり理屈っぽいかも!
    ど〜でもIMON
    あのmodels iMONのゲージ論
    しかしカトーにはやはりHOて書いてある!
    まあ模型だから。
    知人がJR総研にいて
    「本物作っている」
    だよね。
    池田邦彦氏の本で
    水野良太郎氏を偲ぶ。
    ジャパンブランド KATOの
    益々の発展を祈ります。

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