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言語活動としてのサッカーbyパゾリー二

パゾリー二映画

----ピエル・パオロ・パゾリーニ(Pier Paolo Pasolini、1922年3月5日 - 1975年11月2日)はイタリアの映画監督、詩人、小説家。ボローニャ生まれ。
 作品は一般に難解とされ、特に初期の作品は複雑な台詞と暗示や比喩に満ちている。独特のロケーションも特徴のひとつで、アルベルト・モラヴィアとの世界旅行などをもとに普通の映画では考えられない辺境で撮影を行い、『王女メディア』のような独特の作品を生み出した。生の三部作『デカメロン』『カンタベリー物語』『アラビアンナイト』は商業主義との批判を浴びたが、エッセイ『私は生の三部作を撤回する』で路線の修正を宣言し『ソドムの市』(原題『サロ、またはソドムの120日』)を制作している。
 1975年、彼の名を一躍有名にした、スキャンダラスで謎めいた死を迎える。『ソドムの市』を撮り終えた直後のパゾリーニはローマ郊外のオスティア海岸で轢死体で発見された(激しく殴打され失神した後、パゾリーニ所有の乗用車を用いて轢殺されたと見られる)。事件は、本作に出演していたエキストラの少年にパゾリーニ監督が男色行為を強要して殺されたと断定されたが、遺体の惨状からネオ・ファシスト、反共主義者、マフィアなどによる暗殺も噂されていた。当時犯人として逮捕された男性が2005年になって、「犯人は別の3人組。家族に危害を加えると脅されたので罪をかぶった。もう両親も死んだので話せる」として、別の何者かがフィルムを盗んで監督をおびき寄せて殺害したことをインタビューで告白した。しかし男性は具体的な犯人像について口を閉ざしており、事件の真相は不明である。----


 作品では1960年代後半から70年あたりまでのが一番「らしい」かな。
アポロンの地獄 Edipo re (1967年)、テオレマ Teorema (1968年)、愛と怒り Amore e rabbia (1969年)、豚小屋 Porcile (1969年)、王女メディア Medea (1969年)、デカメロン Il Decameron (1971年)など。けっこう面白かったけど、今はもう、あまり話題になりませんね。


 このパゾリー二がサッカーについて書いた文章がある。「言語活動としてのサッカー」で、71年ごろの執筆。おそらく70年メキシコ・ワールドカップを見て執筆した。初めにスポーツジャーナリズム及びジャーナリズムについて軽くジャブを放つ。


 ----文学のエクリチュールとジャーナリズムのエクリチュールとのあいだに、「ほんとうの」葛藤などありはしない。ただ後者が、ほとんどいつも下働きばかりやらされていたものが、今や大衆(マス)文化(民衆(ポピュラー)文化ではない!)のなかで果たすその役割ゆえにおだてられたというわけで、成り上がり者のように少々思いあがりすぎているだけなのである。それはそうとして、サッカーに話を進めよう


 というわけで本論に入る。


 ----サッカーは記号体系、すなわち言語である。それは言語、私たちが比較の対象としてすぐにも想い浮かべ合う、書き言葉・話し言葉の基本的な特徴のすべてをこのうえなく備えている。


 ----この言語活動の作成者はプレイヤーたちであり、観客席にいる私たちはその解読者である。したがって、私たちはひとつのコードを共有していることになる。


 ----基本的に散文的な言語活動としてのサッカーと基本的に詩的な言語活動としてのサッカーがありうる。
 ブルガレッリは散文的にサッカー・プレイをする。つまり彼は「現実主義の散文家」である。また、リーヴァは詩的にサッカー・プレイをする。彼は「現実主義の詩人」なのである。コルソは詩的にサッカー・プレイをする。しかし、彼は「現実主義の詩人」ではない。彼はエキセントリックな幾分「呪われた」詩人といったところである。リヴェーラは散文的にサッカー・プレイをする。しかし、彼のは詩的散文であり、「文芸欄」風のものである。マッツォーラも新聞に書こうと思えば書けるような文芸欄の作者である。しかしリヴェーラよりは詩人である。ときどき彼は散文を中断して、すぐにきらめきを放つ二行の詩句を生み出すのである。


 ----文化的・歴史的な理由から、いくつかの民族のサッカーは基本的に散文的、現実主義的な散文あるいは耽美主義的な散文のどちらか(後者はイタリアの場合がそうだが)であるのに対して、他の民族のサッカーは基本的に詩的である。
 サッカーはひたすらに詩的なといった契機がある。たとえば「ゴール」の契機がそれである。ゴールはすべて常に創造であり、常にコードの転覆である。ゴールはすべて不可避的なものであり、驚愕であり、不可逆的なものである。まさに詩語のようなものである。選手権試合の得点王は常にその年最高の詩人である。今の段階ではサヴォルディがそうである。より多くゴールを決めるサッカーがより詩的なサッカーなのである。
  「ドリブル」もそれ自体で詩的である(たとえゴールの行為ほど「常に」というわけにはいかないにせよ)。
 世界最高の「ドリブルの名手」とゴールの名手は誰であろうか。それはブラジル人たちである。したがって彼らのサッカーは詩のサッカーなのである。
 守備固めと三角形状の攻撃は散文のサッカーである。それは実際、統辞法、すなわち組織された集団プレーにその基盤を置いている。つまりコードの合理的な実践に基づいているのである。このサッカーで唯一詩的な契機は、逆襲とそれに伴う「ゴール」である。要するに、サッカーの詩的契機とは(ほとんど常に)個人主義的契機(ドリブルとゴール、あるいはひらめきのパス)であるように思える。
 散文的なサッカーは、いわゆるシステムのサッカー(ヨーロッパのサッカー)である。「ゴール」はリーヴァのような「現実主義の詩人」による「結末」にゆだねられることがあるかもしれないが、しかし、コード規則にしたがって実践される、一連の「幾何学的な」パスが基礎となる集団プレーの構成に由来していると思って間違いない。
 詩的なサッカーはラテンアメリカのサッカーである。この図式を実現するためには、とてつもなく大きなドリブルの能力が必要である(これは、ヨーロッパでは「集団的散文」の名において見下されるものなのだが)。そして、ゴールは誰からでもどんなポジションからでも創造されうるのである。もしもドリブルとゴールがサッカーの詩的で個人主義的な契機であるとするならば、とりもなおさず、ブラジルのサッカーは詩のサッカーであるということになる。
 優劣の判断などしないで、純粋にテクニックの面から見れば、メキシコにおいて、イタリアの耽美主義的な散文はブラジルの詩に打ち負かされたのである。----


 ちなみに70年メキシコ・ワールドカップ決勝ではブラジルが4対1でイタリアを下した。最初の方に出てくる選手たちの名前は、イタリアのボローニャやACミラン、インター・ミラノなどの選手名である。


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  • 2020.04.06 Monday
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