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【ドラニュース】終戦から100日、焼け跡の神宮球場に球音響く…日本の危機とプロ野球 打ちひしがれる国民へ“平和の鐘”2020年4月6日 13時10分
龍の背に乗って[球界危機1、戦災編]新型コロナウイルスの感染拡大によって、日本プロ野球はついに開幕目標すら消滅した。未知のウイルスの猛威に、不安と恐怖を抱える毎日…。しかし、86年のプロ野球史は難局を乗り越え、国民の娯楽として夢や活力を与えてきた過去を教えてくれる。戦災、不祥事、ストライキ、震災。4回に分けて危機をひもとき、必ず訪れる希望の日を待ちたい
終戦からわずか100日後。記録には「晴れ」とある。といっても映像はおろか、録音盤、写真すら残ってはいない。伝えるのは1枚のスコアシートのみ。1945(昭和20)年11月23日。焼け跡の中にポツンと残る神宮球場に、33名の職業野球人が集まった。 東西対抗戦。群馬県桐生市、兵庫県西宮市を含めて計4試合が行われたが、第1戦の舞台が神宮だった。プロ野球は戦局が悪化した44年11月に一時休止し、球音は途絶えていた。敗戦にうちひしがれた国民に、何とか娯楽を…。しかし、選手は連絡先どころか生死すら定かではない。使える球場はあるのか。そもそも用具がない。戦前に名古屋軍(中日の前身)で活躍した古川清蔵さんは、33人の中で最後まで存命だった。水戸の航空通信隊の見習士官として終戦を迎えた古川さんに、そのいきさつを聞いた事がある。 「部隊はすぐに解散して、帰郷を命じられました。兵を残していたら、謀反の心配があるからです」。故郷の鹿児島に向かう前に、東京の青山にあった赤嶺昌志球団代表の自宅に寄った。そこで東西対抗戦の構想を聞かされた。 「驚きましたよ。本当にやれるのかと。もう野球はやり納めだ。そう思って戦争に行きました。うれしい、うれしいとばかりは(周囲を見ると)言ってられんかったですが、生きていてよかった。そう思ったのは覚えています」 軍用にされていたり、連合国軍総司令部(GHQ)に接収されていた球場が多かったが、神宮が借りられた。阪急が西宮球場の倉庫に保管していた用具は、45年8月5日の西宮空襲にも奇跡的に無事だった。選手は米持参。なければある人が助ける。生きて野球をやれる。それだけで十分だった。西軍の3番は「物干しざお」を振り回した初代ミスタータイガースの藤村富美男。南方戦線では弾で脚を打ち抜かれ、乗っていた艦船も沈められたが生き残った。東軍の5番は「青バット」の大下弘。特攻隊を志願したが、出撃直前に戦争が終わった。 結果は13ー9で東軍が打ち勝った。戦後第1号は藤村のランニング本塁打だが、東軍の中堅手だった古川さんが転倒し、後逸したそうだ。「足が動かなかった」。何十年たっても、悔しそうだったのが印象的だ。審判は2人。試合時間は2時間3分。ろくに告知されなかった試合に駆けつけた6000人の観衆は、焼け跡に響いた球音に平和の訪れを感じたことだろう。 PR情報
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