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”好き”に振り回されるなメディアも友達も「何をやらないか」編集者・若林恵

「私たちの未来がどうなるのか」を掲げ、最先端のテクノロジーにとどまらず、思想・哲学・ポップカルチャーなど、さまざまな世界への扉を開いてきた『WIRED』(コンデナスト・ジャパン発行)。昨年末、突如として休刊を発表するまで、他のメディアとは一線を画す誌面は、とりわけ社会の変化に敏感な層やメディア関係者をも魅了し続けてきました。

そんな『WIRED』の日本版編集長として、6年にわたり社会の“最前線”を提示し続けてきた若林恵さん(1995年第一文学部卒業)。そのユニークな編集方針の根幹を担っていたのは、若林さん自身の持つ「世の中の当たり前を疑う」という姿勢でした。

いったい彼の反骨精神は、どのようにして培われたのでしょうか? 若林さんの見ている「未来」を語ってもらった前半に続き、後半では「社会に適合する人材をつくるな」「読書は自分らしさをつくる対話」「最高なら何も表現しなくていい」など、若林さんの生きてきた過程を感じる哲学を、垣間見ていきましょう。

新しい選択肢を見つけるには、「クソだ」という気持ちを大事にして、世の中の当たり前を疑うこと。特に学生のうちは、世の中に中指を立ててるくらいがちょうどいい、と伺いましたが…?

若林
自由な立場から、自由にものを見る。それができない若さになんて意味はないじゃないですか。年齢を重ねて、世の中がそれなりに見えてくると、いろいろな事情も見えてくるので「仕方がないよね」と妥協せざるを得ないこともあるわけですが、学生は、そうした「大人の事情」に斟酌(しんしゃく)する必要はないわけですから。無根拠でもいいので、それを批判する権利はあると思うんです。というか、オトナにそれができない分、それをやってくれないと、若い人がいる意味ないですから。

「これはクソ」と発信していく「義務」ですか?

若林
別に無理に発信しなくてもいいんですけどね。大人の事情ばかりで出来上がった音楽や映画に与(くみ)する必要なんかないし、もっと違うものやピュアなものを支持したらいいんですよ。学生の中でも特に大学生は、ある意味、社会から一番期待されてない立場だと思うんですよ(笑)。なので、無条件に社会の当たり前に迎合しなくてもいいし、むしろ大学生が現状の社会に自ら最適化していこうっていうのは危機的なことだと思うんですよね。

別の視点で言えば、もし大学が今の社会に適合的な人材をつくるためだけにあるものなら、単なる職業訓練校なわけだし、それはそれで重要な機能ではあるんですけど、とは言え、現状に最適化された人しかいなくなったら、世の中は変わりもしないし、更新もされないですよね。
つい今年に入ってふと思い出したんですが、1980-90年代の音楽シーンでは「カレッジチャート」ってものが大きな影響力を持ってたんですよね。全米の大学のラジオ局のネットワークがあって、そこがヒットチャートをやってたんですよ。それがビルボードのチャートへの対抗軸として機能していて、R.E.M(※1)を筆頭に、いわゆる「オルタナティブ」という価値観を体現するバンドの支持母体になってたんです。それがあったからこそ、インディーロックっていうものがここまで大きいものになったんですね。Pitchfork(※2)って音楽メディアは、その延長線上にあるんですよ。ジャズの歴史を見ても、特に西海岸では大学が果たした役割って大きいんですよ。

※1)アメリカのロックバンド。1991年の『アウト・オブ・タイム』でグラミー賞7部門にノミネートされた。2011年に解散。
※2)アメリカの著名音楽メディア。

で、それって音楽に限らないんですよ。Facebookだって、もともとは大学生から生まれてきたサービスですよね。大学は今までの価値軸とは全く別の何かが生まれてくる空間だからこそ面白いんです。「次の産業をつくる人材を育てたい」なんてステイトメントをどこの大学も掲げてますけど、「次の産業」なんて本当のところは誰も分からないんだから、好き勝手にやらせるしかないと思うんです。自由にやった中で、本当に次の時代をつくる面白いものが生まれてくるのを期待するしかないので。

ただ、社会的に同調圧力が強まる中、「クソ」と指摘することはより難しくなっています。

若林
声高に言わなくていいんです、別に。それに、言ったところですぐに変わるものじゃないので。ただ、先ほども言いましたが、大切なのはそうやって立てた「中指」を、ずっと持っておくことなんですよ。若い頃にちゃんと中指立ててなかったら、大人になって立てるのは難しいんです。で、ちゃんと中指立てるっていうのは、ただムカついてるということではなく、ちゃんと勉強するということでもあるので。
いずれにしても、社会の中である状況を打破するための実行力を持つまでには、時間がかかるんです。僕だって、会社員をやってフリーランスをやって、『WIRED』の編集長になるまでには、20年近く地味に生きてきたんですよ。で、この20年の間に「なんてクソなんだろう…」と思うことは、それなりにあって、その中で地味に腐らずやってきて、気付いたら何らかの権限を行使できるポジションにいたということなので。

実行力を持つその時まで、「クソ」という気持ちを持ち続けなければならない、と。

どんな会社でも「これからは若者の時代だ」なんて言うんですが、基本、それを鵜呑(うの)みにしちゃダメですよ。若い人にちゃんと権限を渡してくれる人ってのは、そうはいないですから。でもある程度経験を積んで、仕事の全体像が見渡せるようになって、自分で人のケツもある程度拭けるようになったら、権限も同時に持てるようになってきます。その時が勝負なんです。人生長いんで。すぐ結果出さないとなんて焦ることはないかな、と。

まあ、若いうちに出世する人もいるんですが、みんながそれを目指す必要は全くなくて。どだい若くして成功するのが、いいとばかりは言えないわけだし。子役上がりのハリウッド俳優なんて、つらそうな人生が多いじゃないですか。うらやましく思います?
読書は「自分らしさ」をつくる対話ただそこには“問い”がなければならない

そんな「長い戦い」の間に、どのようにして気持ちをキープしていくことができるのでしょうか?

若林
味方が必要なんじゃないですかね。「自分は間違ってない」と支持してくれる何かがないとつらいですよね。本を読んだり、音楽を聴いたりして、自分の視点をつくることはとても重要だと思います。ただ、自分に都合のいい話ばかりを集めてもダメなんで、自分の考えや感じ方をどこまで客観的に批判できるかが大事なんですね。

何にせよ、世の中には、だいたい同じことについて悩んでいた人が過去に存在するわけです。そういう人たちと本の中で出合うことは良いことだと思います。20世紀後半に活躍したオーストリア出身の哲学者イヴァン・イリイチも「本の中に自分の真の友達がいる」と記しています。

読書体験が反骨精神や自分らしさの支えになる?

若林
間違ってはいけないのは、本の中に答えがあるわけではない、ということなんですけどね。ここでいう友達ってのは、「答えを教えてくれる人」ではなくて、「対話する相手」って意味だと思います。よく、「どういう本を読んだらいいか?」と聞かれるのですが、自分の中に問いがないところで、本なんか読んでもあんまし意味ないんですよね。

ある本を「面白そう」って思うのは、自分の中に、それを「面白そう」と思う何かがあるからですよね。重要なのは、本そのものじゃなくて、それを「面白そう」と思う自分なりの論点やコンテクストなんですよ。で、本を読むと「この人が言っていることと、自分が思っていることは少し違うな」ってことがあったりするので、自分の問題意識の解像度も上がっていくわけですよね。そうすると、次に読むべき本も出てくるわけで。

今、若林さんがクソだと思っていることはどんなことでしょうか?

若林
あー、まあいろいろありますけどね。かつては自由にタバコが吸えたこの場所(※戸山キャンパスのカフェテリア)が禁煙になっているのも、マジでクソだなと思うし、前編で話したように銀行とか役所とか、ホントにクソだなって思っているし、飛行機乗っても、タクシー乗っても、何だこれ? って思うことばっかですけどね…。

※)現在の早稲田大学の各キャンパスでは、喫煙は限られた場所でのみ認められています。
早稲田大学 喫煙所マップ

不満ばかりですね(笑)

若林
不満ばっかですよ。日本のタクシーってほんと耐え難いんですよ。海外でUber(※)に乗ると、行き先を言う必要もないし、運転手が迷うこともないし。日本だと逆ギレする運転手が山ほどいるし。こんなサービスで、いったい誰が得してるんだって思うことが多々ありますよ。

どこ向いて仕事してんだか分かんないようなものが日本はやたらと多いわけで、その中にいると、それが当たり前だと思っちゃうわけですが、別のやり方が既に存在してるということを知っちゃうと、ほんとにイヤになってくるんですよね。

※)タクシーの配車だけでなく、タクシー運転手ではない一般人が自家用車を使って目的地まで送り届けるサービス。目的地はあらかじめスマートフォンなどで設定するため、運転手へ行き先を説明する手間が省ける。

身近な場面から、常に怒りを感じているんですね。

若林
大人げないっちゃ大人げないんですけど、ただ、今ある環境や条件は、絶対でも普遍でもないっていうことなんですよ。イギリスのE.M.フォースターという小説家は「民主主義は悪いものではないが、3回万歳をする必要はない。2回万歳しておけば十分だ」って言い方をしてて、あらゆることにその態度は適応できると思うんです。
民主主義にだって改良の余地、変えられる余地がある、これは、逆に言うと希望でもあるわけじゃないですか。「これは絶対だ」と思ってしまったら、残るのは思考放棄なだけなので。『WIRED』でずっと言ってたのも「当たり前だと思ってるものは、『今当たり前とされているもの』に過ぎない」ということで、それは過去においては決して当たり前ではなかったし、未来においてもそうであるとは限らないってことなんですよ。

若林さんは「クソ」という感情を反転させてポジティブな可能性を考えているんですね。

否定的創造っていうものはあるんですよ。今の世の中が最善の状態であるわけじゃないし、こうでなければならないと決まっているわけでもない。「クソだ」と思うことをちゃんと否定できるということは、世界に変更可能性をもたらすことだと思うんですけどね。だいたい「人と同じことをやりたい」とか「過去にやられたことと同じことを自分もやりたい」って思う人に、創造性なんてものを期待できるはずないじゃないですか。
最高なら何も表現しなくていい大切なのは「何をやらないか」

若林さんは、著書の中で「イノベーションは勇気によってなされる」ということを書いています。イノベーションを生むような原理的な考え方には、肯定の感情よりも否定の感情の方が重要なんでしょうか?

若林
みんなちょっと「好きなもの」を尊重し過ぎている気がするんですよね。だって何かを全肯定しているなら、新しいものをつくるモチベーションは生まれない。「世の中最高!」なら、何も表現する必要はないわけでしょう。

それは、人とのつながりにおいても共通することかもしれなくて、「好きなもの」って、そこまで人と共有できるものではないはずなんです。何かが好きっていうことの内実って、実際のところ人それぞれの固有の体験に依存し過ぎていて、再現性を持たせづらいものだと思うんです。むしろ、こういうものは好きじゃない、とか、許せない、とか思ってる指向性の方が人を束ねる上では強いんですよ。「これはダメ」「これはやらない」という否定形を共有することで、人は仲間意識としてタイトにまとまることができるんです。っていうのは、これ、排他主義の基本でもあるので、諸刃の剣ではあるとは思うんですが。

メディアの仕事をしていて、編集部を束ねる価値観っていうものがあるとしたら、それって「これが好き」「あれが好き」って価値観で定義されるものではなく、「こういうのは取り上げんのやめようぜ」とか「こういうものは否定しようぜ」ってところにむしろ宿るんだと思うんですよ。「この人を取り上げるのはありか、なしか?」っていう問いにどう真摯(しんし)に向き合って、どういう答えを出すかが、編集部のアイデンティティを決めるんですよね。
オウンドメディアって言われるものが、だいたい失敗に終わるのは、ここに問題があるんですよ。広告の延長でそれを考えると、できるだけ排他性を持たせないでやりたいってなるんですけど、パブリッシング・メディアってものが、そもそものところでそういう排他性を基準に編集がなされるものであるなら、はなから矛盾をきたすことになるんですよね。だからつまらないんですよ、オウンドメディアって。そういうものに金かけるの、ほんとにやめた方がいい。やるなら、そういう排他性を引き受けるしかないので、これはもう単なる覚悟の問題。

「嫌い」を共有することで、コミュニティが生まれる、と。

若林
人と友達になるときって、好きなものよりも、何が嫌いか・何が許せないかの方がはるかに重要でしょ? そいつがレッド・ツェッペリンが好きだからって、人種差別主義者と仲良くできるかって言われたら、どうかな。

若林さん自身、昨年末に『WIRED』の編集長を退任し、現在は「黒鳥社」という会社を設立しています。ここで、若林さんはコンテンツレーベルを生み出すと宣言していますね。いったい、若林さん自身はどんな未来を思い描いているのでしょうか?

若林
特にないんですよ。ビジョンとかモデルとか、そういうものは。ただ、今の気分でいうと、一つのメディアブランドに自分がひも付けられるのは、ちょっとしんどいなという気持ちはあって、『WIRED』というメディアブランドから離れたときに、自分が企画するものやつくるものに、どういう特性があって、どういう商売が可能になるのかを、しばらくは模索するんでしょうかね。

なので、まあ、ある意味ぼんやりと「コンテンツレーベル」って言い方をしてるんですけど。まあ、出版社と言っても、別に大差ないんですが。何にせよ、ある特定の領域や、特定のレイヤーだけを見てるわけではなくて、いろんなものを見てるわけで、こちらとしては、むしろその振れ幅を見てほしいんですよね。

テクノロジーの話をテクノロジーの話として、音楽の話やスポーツの話を、その中でだけやってても、ただの堂々巡りなんですよ。テクノロジーもカルチャーも両方見た方が、もっと面白い世の中になるはず。「道具が導入する尺度が人間を変える」という観点で言えば同じ話なんですけどね。いまだに多くの人がそういう観点からしか物事を見ないのが残念なんですよ。
プロフィール
若林恵(わかばやし・けい)
1971年生まれ。編集者。ロンドン、ニューヨークで幼少期を過ごす。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業後、平凡社入社、『月刊太陽』編集部所属。2000年にフリー編集者として独立。以後、雑誌、書籍、展覧会の図録などの編集を多数手がける。音楽ジャーナリストとしても活動。2012年に『WIRED』日本版編集長就任、2017年退任。2018年、黒鳥社(blkswn publishers)設立。著書『さよなら未来』(岩波書店・2018年4月刊行)。

黒鳥社
https://blkswn.tokyo/#blkswn

「さよなら未来」特設サイト
https://sayonaramirai.com/

取材・文:萩原 雄太
1983年生まれ、かもめマシーン主宰。演出家・劇作家・フリーライター。早稲田大学在学中より演劇活動を開始。愛知県文化振興事業団が主催する『第13回AAF戯曲賞』、『利賀演劇人コンクール2016』優秀演出家賞、『浅草キッド「本業」読書感想文コンクール』優秀賞受賞。かもめマシーンの作品のほか、手塚夏子『私的解剖実験6 虚像からの旅立ち』にはパフォーマーとして出演。
http://www.kamomemachine.com/
撮影:加藤 甫
編集:横田大(Camp)


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