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特集企画
平川紀道 「lower worlds」
November 2011「lower worlds 」対談 – 平川紀道・畠中実
February 23, 2012(Thu)
昨年11月に開催された平川紀道による新作展「lower worlds」。コンピュータ・プログラムによって行われる高速のリアルタイム演算が生み出すビットの振る舞いを、いかに実世界のマティリアルに定着した表現として成立させられるのか、というテーマのもと行われた展示会だ。(特集トップはこちら)
今回はNTTインターコミュニケーションセンター [ICC] 主任学芸員の畠中実氏との対談をお届けする。
以前掲載しているインタビューなどに続き、この展覧会の背景にある考えやテーマ性の本質が垣間見える内容となった。
コンピューターの中身
畠中:以前から平川さんの作品を見てきて、ICCでも最近(2010年度 ICCオープン・スペース)では《内部観測者のための円環構造》 という作品を展示していただいたりしました。また、2008年にやはりICCで開催されたデモ・パーティーという企画では、黒い画面の中に1ピクセルが現れた状態を写真として撮影した作品を見せていただいたりと、何となくここ数年の間で、平川さんの今までの作風から変化が起こっているというのを感じてきたんですけど、自分の中で何がどう変わってきたということはありますか。
平川:とりあえず、あまり本質的ではない点ですが、インタラクションはしばらく置いておこうというのはありますね。インタラクションなくして成立している作品を見ていると、インタラクションなしで強さがあるならばその方が完成していると感じることがあります。
畠中:たとえば、インタラクションがある物はメディアアート、無いものはファインアートに属しているというように単純に捉えることはできないけれど、たしかにメディアアートというとついインタラクションをもとめてしまうという、観客としての慣れや先入観は存在しますね。でも、インタラクションがなくても単体として成立している作品はたくさんあるわけで、単体として成立せしめる為の何かがありますよね。そういったもののほうに重きを置き始めたということ?
平川:そうですね。もともと在学中からコンピュータを使ったインタラクティブな作品を作ってきたんですが、何作か作ってみた後、インタラクションというよりもコンピュータがリアルタイムに、目の前で計算している事、その事実自体に関心が出てきた。自分が書いたプログラムがコンピューターの中で確かに今その場で計算されてるんだけど、それを実際目で確かめる術がない。そこにリアリティを獲得したいと思ってやった結果がそこにでてる1ピクセルを写真に撮るとか、そういう事だったんだと思います。現実世界とのインタラクションがあれば、もちろんリアルタイムであることが自明である場合があるけども、そのうえでリアルタイムとは何か?ということを問うた瞬間、コンピュータの中だけでは証明できない部分が現れます。プリレンダの映像と、リアルタイムレンダリングの映像は見分けられない。
畠中:コンピューターというものは、基本的にはユーザーフレンドリーであることを目指して設計されるから、わかりやすいメタファーを使って操作しやすいように作られている。そうすると、逆にそういったコンピュータの内部でどのような処理が行なわれているのかというような、実際にコンピュータが演算していることのリアリティは減少する。演算中にカーソルが時計になったりするにしても、たとえば、カーソルを動かす事の中で、コンピューターがやってることは何なのかというと、演算処理をしているわけだけど、コンピューターが今まさにそれを動かすために働いているというリアリティは感じられない。
これまでの作品はプログラムを書いて、絵や映像を作っていた。それは、コンピューターによってシュミレーションしているわけだけど、そういうことよりも、コンピューターはいまいったい何をやっているんだろうという方に関心がシフトした、ということですね。
平川:そうですね、なぜ関心が向くのかわからないからやってるっていうのはありますが。リアルタイムで演算しているコンピューターの中の現象をどうやって表現するかという。もちろん、プログラムしたものを映像に書き出してそのままただ「再生」することも出来るのですが、それではまさにデモ・パーティーのときに言ったように、プログラムで書かれている1ドットと、フォトショップで書かれている1ドットには差がない、といったことと同様のことが起きます。実はこの展示の前に、今回の展示でも使っているアルゴリズムを使った映像作品があるのですが、爆発のプログラムを録画して逆再生している作品で、それは逆にリアルタイムだと計算できない作品です。不可逆な力学運動の巻き戻しというのはリアルタイムで逆算はできないはずだから、一度プログラムを走らせて、その録画を逆再生している。今回の展示に繋がる要素としてそういった作品がありました。
the irreversible 2010, video installation
畠中:面白かったのは、今回の展示にはコンピューターは制作の過程では使っているが、表には出ていないということです。コンピューターの中で行われているシュミレーションや演算をまさに作品として、モノとして定着させた。そこには、コンピューターの中で起こっている事は、現実なのか現実じゃないのかという視点があるように思えます。今回の展示は、そういう目では見ることができないコンピュータの中で何が行われているのか、ということを対象として、様々な手法で実際にモノとしての、目に見える作品に落とし込んだものだと思いました。それで、デジタル領域で作られたものをマテリアルを使ってリアライズするということでは、パーソナルファブリケーションがありますが、今回の作品はそういうものではないですよね。
平川:もちろんパーソナルファブリケーションには興味はあるんですけど、そこに行く前に一回通っておいたほうがいいなというのがあって、最先端ではないけれど、使い方に余地のある(自分の使ったことのない)既存のメディアを使ったということは意識的なことです。
畠中:3Dプリンタというのはコンピューターでなにかの形をつくって、それを現実世界に存在できる形としてプリントできるシステムだけど、たとえば、3Dプリンタでいろいろな形を出力できるということは、絵を描いたりとかそういう事とあまり変わらない。デジタル領域で起きていることを物理世界にリアライズするのは同じなんだけど、今回平川さんがやっていることは、それとはちょっとベクトルが違うことをやろうとしているのだと思います。コンピューターの中でシュミレーションするということが、現実世界に存在できる形や知覚できる現象ということを超えたものであり、それを実際に体感してみたい、体感することができるかということを問題にしているのでしょうか。
平川:そうですね、それはすごくあります。基本的にはプログラムを書いてるときは、そのスケール感が全く無いじゃないですか、でも何となく頭のどこかで、実際これくらいの大きさだったらすごいだろうなとか、どっかでそう思いながら書いてる。
もしくは自分があっち(コンピューター)に入れないからこっちに出している、みたいなイメージはあるかもしれないです。
畠中:自分がコンピューターに入れないから(笑)。それは面白い発想ですね。
平川:自分がコンピューターに入ることができて、直接触れることができるリアリティがあればいいんですけど、それは出来ないから、今回の作品のような形でリアルに感じられるところを探ったというのはありますね。建築家が図面を見て得られるリアリティや、科学者が数式から得るリアリティとまではいきませんが、自分自身がコンピュータ上で描画しているもののスケール感というものにはどこかで実際のスケール感が付随していて、それを現実のものにしたい、ということかも知れません。
解像度
畠中:コンピューターからの映像データを高解像度のまま出力しようとすることは、最終的にはプロジェクターという出力装置の性能に依存します。今回展示されていた作品を見ると、プロジェクターの解像度よりも高い解像度を持った印画紙によって映像を定着させています。そういう解像度へのこだわりや、高解像度のデータを扱う事をどのように意識していますか。
平川:そうですね、印画紙に写るピクセルに関しては結構作ってるときは意識してて、ピクセルとピクセルの間が使えてるような仕上がりになるように調整したというのはあります。最初はこれはスクリーンショットでいいやっていうのもいっぱい出来てしまったんですが、ここ(ピクセルとピクセルの間)が使えてるような、この1ピクセルの中でこっち側黒いとかココの中の階調があるとか、印画紙でしか表現できないようなものにするという意識はありましたね。結果として、スクリーンショット的なことではなく、映像が投影された壁面、つまり印画紙そのものの解像度や、そこに流れた時間の解像度みたいなものが写ったと思っていて、プロジェクタの解像度の低さとのコントラストも出ていると思います。
畠中:解像度というのはスケール感であると言えると思います。どんなに小さくても、解像度が高ければそれは広大な領域だったりする。小宇宙みないなもので、その中に情報量が凝縮されてるわけだから、その中に没入したいという欲求はでてくるかもしれない。解像度を上げれば上げるほど、画面の密度は高くなり、相対的にスケールは大きくなっている。
平川:特にオカルトテクニクスの展示(展示に関しては以前の記事参照)は解像度から出発して、ああいう形になったのはありますね。あるサイズを想定してある現象をプログラムして、それを元に頭の中にあるスケールと等倍ベクトルデータを作っても、それを等倍の解像度で出力する術が無くて、しかたないから手でやっちゃえ、という感じでした。。
畠中:氷の作品(※1)のように観測者の立場というのは変わってない印象がありますね。印画紙に光をあてただけで現像させてみて、以前の文章にもあったように、そこに(露光による)深い黒みを発見できたというのある種のリアリティだと思うんですよね。印画紙の中に光が定着されたことによって、今まで見た事のないような深い黒が定着されたっていうところに引っかかって制作が進んでいったのは非常に面白いなと思っています。
そうすると今度はデジタルの世界と物理世界を区別しないでものを考えて行くと面白いなとも思う。たとえば、志水児王さんの作品のようにガラスの容器にレーザーをあてると、解像度の世界じゃない映像が生まれる(参考リンク:《クライゼンフラスコ》2007年 志水児王)。クワクボリョウタさんの『10番目の感傷(点・線・面)』も解像度の観点からも興味深い作品だったと思います。また、志水児王さんに、昼間に夜星座が見える空の一角を撮るっていう写真の作品(参考リンク:dot/star while daytime)があるんですが、そうすると写真には空しか映っていないわけなんだけど、よく見るとグレーの階調の中に粒子だけが写っている。今回の平川さんの作品には、そんな作品とも近いものを感じていたんですよ。そういうものがメディアアートと言われる分野の中から出てきたのが非常に興味深いし、なかなか理解されないかもしれないんだけど、文脈をふまえて見ていくとすごい面白い。
※1 : 2009年8月に郡山市立美術館で行われた「氷の計測」
2トンに及ぶ氷の塊を、内側と外側から様々なセンサーや機材で計測して、その解ける様子をログに残した。そのログがまるでスコアのようであったことから、翌2010年、そのデータをもとに、「log/score」 というタイトルでの展示も展開した。
http://gzk.jp/
平川:なるほど、前回のインタビューで少し話したかもしれないですけど、普段自分はプログラム上で粒子の振る舞いをデザインしてるけれども、今度はこの宇宙にある、もう既にデザインされた粒子が相手みたいなのはあって、それは氷の展示の時から繋がっている気がしますね。氷のときは、自然現象はプログラムであるはずだ、という仮定をしたうえで、観測結果を眺めてみる、ということでしたが、今回はそのプログラムの演算能力をちょっと借りてみる、といった感じですかね。
あと、エンジニアリングとサイエンスの話ではよくあることですが、対象を研究してもよくわからなかったことが、その対象自体を模するものを作ってみると分かってきた、というような話は面白いと思います。粒の振る舞いをデザインしている背景にはそういうこともあると思います。けど、これはまだ古典デジタルコンピュータでの話で、量子コンピュータとなるとまた話が変わって来ます。これも以前出た話なんですが、例えば、彫刻家が鉄板を野ざらしにしといて、何年後かには錆びて模様ができて、それを持ってきて、はいこれ作品です、みたいな、そういうのと変わんなくなってくるっていうか。彫刻家は既に量子コンピューター使っていて、僕は量子コンピューターにたどり着く前に古典コンピューターを使っていて、彼らがやっていることをやってるのかな、とも思ったりするんですよね。量子コンピュータで宇宙をシミュレーションすると、それ自体が宇宙と見分けがつかない、という話があって、そうなる一歩手前みたいなことかも知れません。
審美眼
畠中:地球でもある地方でしか起こらない気象現象があるように、それと同じでコンピューターの中でしか起こりえない振る舞いがあって、それはもうひとつの観察すべき対象であるということでしょうか。シュミレーションするだけじゃなくて、それを改めて観察しようと。
観察の視点にはある審美眼みたいな物があって、それを美しいとか面白いと思う感性みたいな物があるとすると、心を動かすっていうパラメーターをどういうところに設定するのかという興味がわきますね。感動っていうのは定量化できないパラメーターだから、感動って何なのかって言う話になる。感動させたいとか、それを共有したいとか、そういう意識はありますか。
平川:共有したいとかは僕の場合はあまりないですね。じゃあ何だって言われるとあれなんですが、見た事をないものを見せたい、というのはあるかもしれません。
少なくとも僕自身は作品を見てあまり感動する方ではないので、いわゆる感動という言葉には抵抗がありますが、強いて言うなら絶望とか諦めに近い感じの方が好みではあります。絶望と言うとアレなのですが、「10000年後のことは絶対に目撃できない」というような絶望のことです。宇宙が超光速で膨張すると、宇宙の観測可能領域が相対的に小さくなっていくとか。
畠中:いろんなスタンスで作品は制作されるもので、作品については見る人が自由に考えてくれればよくて、そのとっかかりを作るのが作品の役割だと言う人もいます。ただ今回の作品の成り立ちからすると、たとえば、インタラクションを無くしたりということもそうかもしれませんが、ひとつには作品を完結した形で見せたいって言うのがあるわけですよね。これは完全に自分が創った世界ですという。
平川:そうですね、今回の展示に関しては、この前に逆再生の作品があったという話をしましたが、それを見た上で、今回の作品を見るとまた違っただろうなという気持ちはあります。連作の中で完結する1つの形をある程度見せることができたたかも知れないと思うと少し残念です。
今回の元になっているシミュレーションを2秒で逆再生している映像シリーズで、各爆発から各フレームを1つずつ集めて2秒分にしたものや、入れ替えたものなど、3つのバージョンがある映像作品です。
畠中:作品を通じて感じるのは観測者としての態度でプログラムされた現象を捉えようとしているということです。ただそのプログラムを作っているのも自分。その中でいろんなパラメーターとかを設定して、いろいろ違う状態を作ろうとしてるわけだけど、それもまさに多世界というか、いろんな可能態が導きだせる。そういう加減はどうしてるのかなと。
平川:実際にコーディングしてる時は何となくこういう風にしたいって言うのはあるんですけど、ただたいていその通りにはならないですね。頭の中で着地点を修正して、コードの方も軌道修正で、なんとなくできあがったアルゴリズムと、相性のいい落としどころを探っていく感覚ですかね。もちろん、エラー的なところから新しい発見があったりもします。
畠中:どこまでコントロールしてるのか、どこまでコントロールしないのか、その予期しなかった物がどれだけ作品の中に入るといいのか悪いのか。というのがあるのかなと。
平川:そうなんですよね。それは結構ジレンマなんですよね。たとえば現実問題、印画紙とか紙の値段が高いじゃないですか。そうすると、出来るだけ予測できる形のデータが出るようにプログラムしてった方が圧倒的に経済的には楽。ちょうど良く飛び散るくらいのパラメーターのしきい値を設定はしているのですが、ほんとにいろんな物が生まれる可能性のあるにも関わらず、そういう設定をすること自体が正解じゃないのかもしれないというのはあります。お金と場所があれば、今回の作品と同じプログラムで生まれたけども、良さが微塵も感じられないようなものを大量においてみたいなぁとか思います。
畠中:カール・シムズによる「ガラパゴス」(参考URL)という作品があるんですが、それはコンピュータによってシュミレーションされた抽象的な形態を持つ複数の人工生命をかけ合わせて次々と次世代を作っていくという作品で、一度、12の人工生命のうち、どう見ても劣勢な種ばかりを掛け合わせたら、ただの「点」になっちゃっとことがあって、そういう劣勢だとか、ダメなものも、当然出てくる可能性がある。だけど、そういう中にこそダイナミズムだったり、人を感動させる物があるかもしれないですよね。成功するか、しないかみたい中から見えてくるものが。でもそれは意図的な操作から生まれるものじゃないという気もするんですよね、そういう自分の立ち位置をどういう風に設定してるのかというのは気になります。
平川:なるほど。プログラマーとしての立ち位置と作家としてのバランスを意識してるのかもしれません。
畠中:そうすると、最終的には「選ぶ」というところに作家性がでてくるのか。たとえば、最終的には良い、悪いを選ばないといけないっていうのは、多分どんな作家でも同じで、最終的にこれが作品だって決定するのは、プログラマーとしての営みとはちょっとちがってて、これが良い、悪い、というのは作家性みたいなものが選ばせてる。
平川:そうですね、確かに、今回の印画紙の作品も結局このモニターで作ってるときって、プログラムを書きながら、すぐにそこで変更が反映されるフィードバックがあるわけじゃないですか。プログラムを走らせて見せるようなインスタレーション用のコードを書いてると、書く作業とジャッジするのがすごい細切れに交互に割り込むような形になって制作が進んでいくので、だから割と自分が作ってその場で分が判断して、という、一人でやってる感があるのですが、印画紙の作品は、暗室に入ってからプログラム書いてると時間の無駄になってしまうので、暗室でやる作業って判断する作業ばっかりなんですよ。「この感じでもうちょっとやってみて、だめだったら露出長くしてみて、それでもダメなら線のトーン上げよう」とか。だからその前の段階の作業、プログラマーとしての作業は、暗室でいかに効率よく作業進むかとかを考えてやっていましたね。現場で方針が決まったらすぐに試せるようなコードを書いておくということです。
他の作家の作品制作に参加することも多く、そういう場合って基本的に彼らの注文通りにやりますが、自分の作品に関しては、作家として判断する前の段階で、プログラマーの自分が納得するような書き方をしてるというか、プログラム的に効率の悪い事は作家としてもやりたくないというのはある。if分岐が多いのとかもダメで、だから大量の点だけが延々と動き回っているとかになっちゃうんですよ、同じ関数が何千万回も呼ばれるような。けどその方が自分が考えていることの本質には近いですね。プログラムで何か作るというより、世界の在り方をプログラムという切り口で見るってことなので、、、粒子がif分岐で動いてる感じは直感的にしませんからね笑。とはいっても、もちろん、どんなに世界に肉薄していても、パッと見て冴えないものはやっぱり作家としては出したくないので、そこはバランスでしょうね。
1ピクセルに見出す世界
畠中:話が少し変わりますが、1ピクセルの写真のように、「点」っていう構成要素が、ある解像度の中に一個打たれている時の、その緊張感みたいなのはおもしろいなと、デモ・パーティーの時の話を聞いたときに思っていたんです。その1ピクセルに世界生成というものを見出すという。
平川:例えば、ハッブル宇宙望遠鏡とかって、結局言っちゃえばめちゃでかいデジカメみたいなものじゃないですか。それで一番古い銀河が見つかったーって実際のピクセル数で言うと、4×4ピクセルぐらいの領域だったりしますよね。そこに世界は映ってるのかもしれないけど、リアリティが無い。そう思うと、コンピュータのモニタと大して差ないなと思ってて、1ピクセルの写真も島根県立美術館で展示したときは、天体の写真と見分けがつかない状態で混ぜて展示したんですよね。
だから、解像度が高けりゃいいって話でもなくて、1ピクセルの中にきっと何かがあるはずだみたいな感覚はあります。
畠中:なるほど。それは面白いですね。
例えば、スーパーカミオカンテとかはニュートリノをとらえるのをずっと待ってるわけじゃないですか?それにはある種のロマンチシズムがありますよね。そういうものを壮大な装置を作って観察している。そこに宇宙の始まりの秘密があるかもしれない、神秘が隠されているかもしれないというのは非常にロマンティックでありえる。
それで、その「点」の現れを待つというところにロマンを重ね合わせられるのかどうか。点があるだけじゃん、みたいに思われてしまうだけかもしれない。でも点の中に世界あるいは宇宙の生成をみるっていうのは、態度としては電波望遠鏡みたいな物と変わらない、そういう壮大なスケールみたいな物が、その中に想像できるかどうか。
だから結構、デジタルというと、「A=A」である、そういうものだと思われているけど、見えているものがその通りに見られるということではなくて、見えている物の中に、なにかもっと大きな物を感じられるかどうか。そういうことをあまり神秘主義的にではなく、デジタルな物も観念的なものを想起させたりする領域に出て行けるんじゃないかと考える。
そう考えていくと、美術という流れの中で展開するか、見せていくことをどのように意識しているのかと気になったりしますね。
平川:美術史の流れなどは必要以上には気にしないようにしているんですけど、作りたい物をちゃんと見せれる場としては、美術という場所が適切かなとは思ってますね。「地球回す人」(※参考リンク:Global Bearing ) みたいなのを長い事言われ続けてたんで(笑)
(一同笑)
畠中:たしかに、Global Bearingは世界中で展示してましたね。でも、それをあえて振り切ってこっちのベクトルでというのが面白いと思う。あの作品は高い評価を得たけど、それを振り切って、ピクセル1個みたいな。(笑)もちろん、過去の作品があったから今の表現につながってるわけですけどね。
平川:そうですね、でも今回の展示をやって、改めてプロジェクターとかは重力関係なく自分の思い通り動いてくれるんだなと感じたし(笑)、マティリアルで展開する大変さもわかったので、次に繋がる感触は得ていますね。それぞれの良い点を、それぞれの良い点として作品に出していければいいなと思います。
2011年/11月 ICCにて
平川:ありがとうございます。
Edited by Yosuke Kurita
Assistance by Tadahi
Photography for the artwork are by Shinpei Yamamori
Information
プロフィール
畠中実
1968年生まれ。1996年の開館準備よりICCに携わる。主な企画には「サウンド・アート―音というメディア」(2000年)、「サウンディ ング・スペース」(2003年)、「ローリー・アンダーソン 時間の記録」(2005年)、「サイレント・ダイアローグ」(2007年)、「可能世界空間 論」(2010年)、「みえないちから」(2010年)など。ダムタイプ、明和電機、ローリー・アンダーソン、八谷和彦といった作家の個展企画も行なって いる。その他、コンサートなど音楽系イヴェントの企画も多数行なう。
平川紀道
1982年生まれ。コンピュータ・プログラミングによるリアルタイム処理 を用いた映像音響インスタレーションを中心とした作品群を国内外の美術展、メディア・アート・フェスティバルで発表。2004年度文化庁メ ディア芸術祭優秀賞、アルス・エレクトロニカ2008準グランプリ他受賞 多数。池田亮司のコンサート・ピース制作への参加、大友良英+木村友紀 +Benedict Drewとのコラボレーション、ミラノ・サローネでのレクサスのアートエキシビションへの参加、Typingmonkeysとしてのライブ・パ フォーマンスなど、活動は多岐にわたる。
http://counteraktiv.com
展覧会概要
平川紀道 / lower worlds
http://www.lowerworlds.com/
展覧会詳細(CBCNET記事):
http://www.cbc-net.com/event/2011/10/norimichi-hirakawa-lowerworlds/
会期: 11/8(火) ‒ 11/20(日)
休廊 : 月曜日
会場 : limArt
〒150-0022 東京都渋谷区恵比寿南 2-10-3-1F
http://www.limart.net
企画・運営 :Mirror
http://www.m-i-r-r-o-r.jp
Book Outline 平川 紀道 / a lower world
size: 396×297mm
page: 512p + ケース付
部数:全てがユニーク作品となります。
アートディレクション & デザイン : 田中義久
11/8 (火) 発売
価格 : 未定
http://www.a-lower-world.com
特設サイトにて完全受注生産、limArt(恵比寿)他、 全国のセレクトショップにて本の展示と購入も可能。
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