三日ほど、さつきが寝込んだ。
 ほぼ確実に知恵熱だ。少しばかり責任を感じつつ看病を手伝っていると、二日目の夜にさつきが泣き出した。なんで優しいの、ほっとけばいいじゃん私なんか、やだよういなくならないでよう、何が悪かったの何がだめだったの、やだもう全部やだあ。熱で体力がないためか普段のわあわあ泣くような形ではなくて、ただひたすらめそめそしくしく泣いている。真っ赤に腫れた瞼に冷やしタオルを乗せると、振り払われてまた泣かれた。なんで優しいの、中途半端に優しいの、私のこと嫌いなくせに、もうやだあー……。似たような言葉を繰り返して、しかしやはり起き上がる体力はないらしくて精一杯の寝返りを打ちながら泣く。
 うむ、完全に赤ちゃん返りしている。それか熱でおかしくなっている。いてほしいのかほしくないのかどっちだ、っていう質問は野暮にしても、どっちにしろ何なんだその台詞。私はお前の彼氏か何かか。別れの危機なのか。
 床に落ちたタオルを水で洗いなおし、絞ってさつきの目元に押し付ける。まだジタバタしてはいたものの、病人の抵抗なんて無いに等しい。そのままじっと黙っていると、なんで、と弱々しく情けない声で繰り返された。

「さつきは『なんで』多すぎ」
「だってわかんないもん……」
「聞くのはいいけど聞く準備できてる? 答えたら答えたで『なんでそんなこと言うのー!』ってなりがちでしょ」
「そんなこと、」
「ない?」
「……ある、かも、しれないけど」
「ん」

 認める言葉が返ってきただけ進歩ではある。
 熱があるならあんまり話すタイミングでもないんだけどなあ、ていうか熱が下がったとき覚えてられんのかなこの状態。さつきが寝ているベッドを背もたれにして本棚を見る。……バスケ関連ばっかだな……。漫画とか小説とかないのか。探していると、名前、と掠れた声がした。

「なーに」
「……私、のこと、どう思ってるの」

 彼女か。
 と言うほど空気の読めない女ではありません。首だけ振り返ると、額にタオルを乗せたままぼんやりと見つめられていた。その顔に張り付いている髪をどかしてやりながら、小さく溜息をつく。

「私がもしも本当に百パーセントでさつきを嫌いだったらね、黒子くんに口には出しにくい系統のことをしてるよ」
「なにそれわかんない……好きなの嫌いなの……」
「なんで私関連でだけ飲み込み悪くなるかなあ」

 ……自分で今『なんで』って口にして気付いたけど、この言葉が出るときって本気の疑問というよりは愚痴とかボヤキの比重が高いな。そうすると、説明するのは逆効果なのだろうか。

「さつきだって私にムカついたり嫌だったりすることはあるでしょ」
「そんなことないもん……」
「考える前に答えるのやめなさい」
「……そうやって先生みたいな話し方するの、たまにやだ」
「うん」
「あと、たまにすごくドライなの、寂しい」
「うん」
「でも、」

 タオルのおかげか、触れたままの頬は冷たい。熱のためか潤んできれいな瞳はどこかぼうっとしていたけれど、話しながら徐々に焦点を合わせて、更に水分を帯びた。

「……っでも、嫌いなんかじゃ、ないもぉんっ……」
「うんうん」
「っ、名前、ずるいぃぃ、なんも、自分はなんにも言わなくて、ずるいー……」
「そんなことないよ、私もだよ」
「……?」
「このまえマジバで話したことは全部本当だけど、そのときにも言ったでしょ。好きなところも尊敬してるところもあるよ」
「……」
「まー大ちゃんとか他の人とか連れてきたのはどうかと思うけどね?」
「だって……仲直りしてみんなで遊ぼうと思ったんだもん……」
「それはわかったけどね、せめて前もって言おうね。全員けなしちゃったじゃん、完全に流れ弾じゃん緑間くんとか」
「それは私のせいじゃないー……」
「……そうだね確かに」

 彼らをボロクソ言ったのは私の意思だ。認めよう。言い方も皮肉っぽくなった点では反省しているものの、それ以外は特に悪かったとは思っていない。……うん、私の問題だな。
 唸りながら泣き続けているさつきの頭を撫でて、ここまで話せれば一段落かなあと思う。ずいぶん久々に触れたような桃色の頭をぐりぐりやっていると、さつきが泣きながら笑ったのが見えた。小さい子供みたいな無邪気さは、良い方向にも悪い方向にも転ぶ。これをうまく使い分けられるようになれば最強だろうになあ。

「名前、名前」
「うん?」
「私のこと好き?」
「彼女かっつの」

 思わず軽く額を叩いたが、さつきはむしろ嬉しそうに含み笑いを漏らしている。彼女か。ちょっとした痴話喧嘩を終えたカレカノか。私の恋人は花宮さん一人いてくれれば充分です、むしろ花宮さんで手一杯です。

「私は、名前のこと、すきだよ」
「……」

 そういう、ところが、なあ。
 長く長く溜息を吐いて、首を回す。改めてほしいところは沢山ある、文句をつけたい点もそりゃもうある。めっちゃある。けれど私とさつきは双子の姉妹で、どうしたって家族で血縁で、正直言って好き嫌いどうこうというより情のあるなしだったりするのだけれど。

「百パーセント嫌いになんか、なれないよ」

 環境も状況もあるからこれからのことはなんとも言えないけど、現時点ではな。
 と付け足さない空気の読める女、桃井名前。って自画自賛はするけれど、しかし私は知っている、それ以前にこの答えが模範解答ではないことを。空気を読んだらここは『好きだよ』以外は失格だ。テストだったら。

「名前まわりくどい」
「……気のせいだったら悪いんだけど、さつきも言うようになってない?」
「たぶんね、私も名前と同じだったんだよ」
「……そうだね」

 人間関係において、どちらか一方のみが我慢してる関係ってのは実はあんまり無いよなあ。私の割合が高すぎたとは思うけれど、それは私が勝手にしていたことでもあるのだ。見栄を張っていたばかりに、怖かったばかりに。さつきも、さつきなりに寛容さを私に使っていたのだろう。私は、気付いてもいなかったけれど。……そういうところも、おんなじだ。

「素直には言いにくい感じだけど、好きだよ」
「……まだちょっと余分なのくっついてる」
「だから彼女か。私の譲歩ラインはここが限界」
「……はーい……」

 一瞬くしゃっと顔をゆがめたさつきは、けれど泣かずに、濡れたタオルを額に直した。

「……私も、譲るよ、名前。あのね、いっぱい考えたんだけどね、嫌いだって言われたのが一番悲しかった。名前が私を、嫌いじゃないって言ってくれるなら、ひとまずはそれでいいの」
「……うん」
「他の色々とか、難しいことは、また、あとで、いい」
「……そうだね。もう寝な。疲れたでしょ」
「うん……」

 その言葉を待っていたみたいに、瞼が下りたとたん表情から強張りが無くなる。
 これで結構悩ませたんだろうなあ、さつきはマジで友達いないし、キセキの皆さんがいらっしゃるにしても基本的に男子には不向きな話だ。散々ひどいことを言った気がする黄瀬くん黒子くんあたりは怒って仲直りに協力的ではなくなってるかもしれないし。お父さんお母さんは妙なテンションになってたし。私とさつきが顔を合わせないところを見て、『大人の階段のーぼるー』って歌い出されたときは何事かと思った。『君はまだー』『シンデレラっさー!』とテンション高く続いていた。良くも悪くもベッタリだった双子の姉妹に対して彼らなりの感慨があるのかもしれないので放置しておこう。
 しかしこれゲームか何かだったら熱に浮かされ和解直後の眠りって死亡フラグでしかないな。ムードをめたくそにすることを考えながら電気を切って、さつきの部屋を出た。さつきは死なないし私もそうだ。現実を生きているんだから現実的に折り合いをつけないと。そしてそれは決して悪いことじゃないんだから。



「というわけでひとまず円満に終わりました」
「ふーん」
「なんとも生温い感じの結論に至りましたが、お力添えありがとうございました」
「別に。なんもしてねー」

 深々と下げた頭をぐいっと上げさせられた。興味なさそうにしているくせに、しっかり聞いてくれている。花宮さんの優しさと、それがわかる自分が嬉しくて笑っていると『なにニヤニヤしてんだ』とデコピンを食らった。だから殺傷力が高い!

「あ、でも花宮さんのことだけは反対されたので」
「……言ったのか」
「はい。『さつきが花宮さんを悪く言うのと同じだけ、黒子くん大ちゃんキセキの順にディスっていく』って言ったら大人しくなってましたけど」
「……そこにあの火神とかいう奴は入んねーのか」
「え? だって火神くんは、っていうか私、花宮さんに火神くんのこと話したことありましたっけ……?」

 相変わらずのバイト後勉強会(付き合いだしたと伝えたら店長がケーキを作ってくれた)(なっちゃんから狂喜乱舞のメールが来た)、休憩ついでの雑談に報告をする。すっかり習慣づいてしまったけれど、これからはあまり暗い話続きにならなそうで嬉しい。そういえば、この勉強会はいつまで開催されるんだろうか……彼氏彼女になったんだから部活終わりを待つのも花宮さんがバイト終わりを待ってくれるのも、その後こうやってちょっとした時間を過ごすのも不自然じゃなくなったとはいえ、毎回勉強会っていうのはどうしてなんだろう。元はといえば、たぶん私が課題の解き方を聞いたことなんだろうけど。
 でもなー普通にデートとかしてみたいなー、でも忙しいかバスケ部は……や、私はこうしてお喋りできるだけで充分幸せではあるんだし、平日に時間を割いてくれてるだけですごいことか……。ていうか普通カレカノって何するもんなんだろう、友達を参考にするにしても他校生と付き合ってる子なんて周りには居ないしなあ。
 とりとめもなく思い浮かべながら、何か考え込んでいる花宮さんを眺める。少し長い髪が邪魔なのか、耳にかける癖がある。そのとき見える手首がきれいだ。少し伏せられた瞼の、濃い睫毛に陰って一層黒く見える瞳。好きだと自覚してからというもの、見惚れることが増えた。だって花宮さんかっこよすぎる。むしろ今までよくもまあこれをガン見せずにいられたものだと思う。かっこいい。好き。自覚なかったけど面食いだったのか私。虹村先輩もイケメンだったもんなー、花宮さんのがかっこいいけど。

「……姉ちゃんとその他とで騒いでた時に名前出てたろ。火神って」
「あー。黒子くんと同じ誠凛だし、珍しい苗字ですもんね。マジバでバイトしてた時に声かけられて友達になったんですよ」
「ナンパじゃねーか」
「ナンパだったんですかねぇ……その割にはあんまり接点なかったんですけど。後々、黒子くん絡みでようやく喋るようになった感じで」

 ……黒子くんといえば、さつき関係は一応の解決とはしても、キセキ関係はどうにもなってないな。私が彼らの連絡先を一切知らないからなんだけど。黒子くんと緑間くんには結構ボロクソ言った記憶があるので謝りたい気もする。よく覚えてないけど。

「……バイト辞めるときに、逃げてきちゃったんですよ。話す機会はあったんですけど、たぶん最後の思い出になるだろうし、楽しく過ごしたいなって気持ちが先立っちゃって」
「最後?」
「黒子くんから話が行ったら、たぶん火神くんは私のこと軽蔑するか、そこまで行かなくてもちょっと引くんじゃないかなと思って……友達のままでいたかったんですよね、私は」

 でも、実際に会わなくなった今はちょっと後悔してます。ドン引きされてもいいから、正直に話して説明することが誠意だったんじゃないかなって。少なくとも、無言で消えちゃうよりはよっぽど正しく気持ちが伝わったんじゃないかなって、思います。ぽつぽつ付け加えて話しながら、物悲しさに襲われる。恐怖心から逃げた。戦うことが怖かった、試みることが怖かった。火神くんに判断をゆだねるのが怖かった。そうして最後にちょっとだけ楽しい思いをして逃げた私は、臆病で不誠実だったことだろう。

「……次また、どこか出会えたら、ごめんねって言おうと思います」
「……そんでわざわざ傷付いてくるのか」
「それはもう大丈夫ですよ」
「何が」
「私がです。悲しくないとは言いませんけど、花宮さんがいてくれますから」
「………… は?」
「だって花宮さんは軽蔑したり引いたりしませんよね? 面白がりはするでしょうけど」

 信じられる人がいる、委ねられる人がいる。なっちゃんだって店長だって、最近では学校でも、前より素直に友達だと呼べる相手ができてきた。だから、大丈夫だ。火神くんの判断を、恐れすぎずにいられる。ただの友達だと言ったり思ったりしていたくせに、比重を彼に預けすぎていた。
 花宮さんは難しい顔をして、視線を左右にやったのち、考えるのが嫌になったみたいな溜息を吐いた。なんだろう。しかしそんな様子もかっこいい、映画のワンシーンみたい、そういえば背景もいい具合にちょっとレトロで洒落ている。フランス映画とか撮れちゃうんじゃないのか。

「悩んでんのもアホらしい」
「え、悩み事ですか」
「誰のせいだバァカ」
「え、私ですか? 私のことで何かありました?」
「なくなったっつーのバァァァァアアアアアカ!」
「そんな力いっぱい言わなくても……!」

 ていうか私の何が悩ませたと言うのか。聞いたところで答えてくれそうにないなあ、なくなったっていうなら聞く必要もないのかもしれないけど。
 完全に課題は終わったと思われたのか、店長が料理を運んできてくれる。今日はポットシチューだ。いただきます、と言うと、慎之介さんの奢りだって、と小さく囁かれた。つい振り返った先で、戦略イメージ通りに王子様然とした甘い笑顔に手を振られる。頭を下げて、有難くいただくことにした。

「つーかお前、あの人らに可愛がられすぎだろ……」
「みなさん店長とマスターとお店が大好きですから、必然的に私も可愛がってくれるんですよ。六人とも、ファンじゃなくて同業者でもなくて騒がない女子っていうのは珍しいみたいですし……音羽さんは、ちょっと相談してたのもありますし」

 現役の国民的アイドルグループふたつ、それを構成するそれぞれ三人、合計六人。レストランの常連さんなので必然的に接点は多いし、お店に入ったばかりの頃は『あの二人に迷惑かけんなよ』的な意味でも見られていた気がする。今はそれがなくなったのは、認めてくれたのだと思いたい。
 それにしても花宮さんに加えてアイドル六人が割と身近にいるとか、どんどん目が肥えていってしまう。

「相談?」
「……花宮さんのことを、ちょっとだけ」

 彼氏じゃないけど気になる人、という期間が結構長かった。シフトのたびに勉強会を開いているものだから完全に付き合っていると思われていて、それを否定したから尚更だ。

「へえ、なんて」
「途端にイキイキとした笑顔で聞いてくるのやめてもらえませんかね」
「俺に聞かれちゃまずい話か? あ?」
「恥ずかしい話ではありますね!」

 彼氏っていうか家庭教師状態なんですけどこの関係はなんなんですかね友達って言っていいんですかねとか、これって男の人的にはどうなんですかとか、今思ったら恥ずかしい質問しかしていない。音羽さんも毎回ニコニコと聞きに来てくれたけれど、内心むず痒い気持ちだったに違いない。それか完全に野次馬根性だったかのどっちかだ。一度聞かれた辻さんと神崎さんには完全に呆れた視線を向けられたし。第三者的には呆れた話でも本人は真剣だったんですよ! 今もそうですよ!

「……でも、そういうのは少し寂しいな」
「えっ」
「せめてこれからは、何でも俺に言って、聞いてくれないか。もう彼氏なんだからさ」
「唐突に真さん入るのやめてもらえませんか……!」

 心臓に悪い! わかってるのにちょっとキュンとする自分が憎い。突き崩したパイ生地がクリームシチューの中でふやけるのをすくいあげて口に含む、そうしながら花宮さんを見上げて――首が少し、赤いのを見た。

「……」

 耳も、後ろのほうだけ少し赤い。
 ……花宮さんってこれで結構な照れ屋さんなんじゃないだろうか。真さんモードで言えば素直になれる、とかいう感じだとしたら、そしてそれに対してあまり自覚がないのだとしたら、なんてひねくれた人なんだろうか。あ、それは前からわかってた。ひねくれてかわいい。知ってた。
 でもこれを口に出して言うと対策を考えられてしまう気がするので、言及はしないでおこう。私だけがわかってればいい話だ。彼女である、私だけが。

「……えーと、じゃあ一つだけ。質問なんですけど」
「あるのかよ」
「ありますよ。……もう付き合い始めたのに、お勉強デートっていつまで続くんですか? 課題は真面目にやってますよ?」
「不満かよ」
「いや、正直言って不満はないですけど。なんていうか、もう課題を教えてもらうとかの口実は使わなくていいんだよなって思うと、なんとなく」
「ふーん。悪いけど、あと二年はやるつもりだ」
「二年!? いや、なに、どこを目指してるんですか!?」
「俺がランク落とす気ねーからに決まってんだろ」
「だから何がですか……!?」

 意味がわからない! 頭いい人の会話わかんない! 思考回路もわかんない! 不満はないけどさすがに二年ずっとお勉強デートっていうのは寂しいよ!?
 口にしなかったそれらは顔に出ていたんだろう、花宮さんは至極楽しそうに笑って、私の唇の端に触れた。パイのかすでも付いてたかな恥ずかしい、と考えるより早く、指先が顎に触れて上を向かされる。一瞬どきっとするものの、テーブルを挟んで向かい合う形で、唇が触れるはずもない。花宮さんは席を立つ様子もないし。
 距離さえなければちょうど触れ合っている角度のまま、その唇が動いた。

「一年待っててやるし育ててやるから、同じトコ来い」
「…………」

 その言葉が、大学受験の話だと気付くまで数秒かかって、目を見開く。間抜け面。言葉の割に優しい声がして、顎を上げさせていた手はぺちんと額を叩いて離れていった。
 え、だって、超進学校の、しかもその首席の花宮さんが行く大学って。そこに来いって、どんな無茶振り。という気持ちと、いつからそのつもりで勉強を教えてくれていたのか、という疑問とがごっちゃになって動けない。一体いつから。いつから、同じ大学に行くっていう未来を想定してくれてたの。
 一歩間違えれば怖い話にやっぱり胸をときめかせてしまう私は、もうどうしようもなく恋に落ちている。ずいぶん時間のかかった『はい』の返事を搾り出すと、花宮さんはとても楽しそうに笑った。うれしそうだ、と感じたのは、気のせいじゃないはずだ。


(end)
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2014.08.26