「あいつの試合観ただろ! どんなヤツかわかんねえのかよ!」
「大ちゃんこそわかってないッ!」

 試合は、観た。多分それまでのどれよりも食い入って真剣に観た。彼らは間違いなく下衆と呼ばれる人種だ、知っている。ラフプレーに喜びを見出して普通にやったって強いくせにわざわざ自分達で制限をつけて、バレれば一発退場っていう危うい橋を渡ってまでそうすることを選んだ。特に意味はない、だって人の不幸は蜜の味。それを味わうことが最優先。そんなことは知っている、よくよく理解している。否定する気になれない私こそが歪んでいるんだ、知っている。

「言ったでしょう、もうわかったでしょう、私はクズなの! バスケ心底どうでもいい! コートで行われることはコートで片付けて来いよ、こっちに持ってくんな!」

 他人なんかどうだっていい、花宮さんがどれだけ人を傷つけようがどうだっていい。どんな聖人だって神様みたいな人だって、たとえばキセキとか呼ばれる容姿や才能に恵まれた人達であったとしても。世界中の誰に優しかろうと冷たかろうと、『私』に優しくなくっちゃ意味がない。そう思うのは、多分いいことじゃないんだろう。褒められたことじゃないんだろう。知ってる、わかってる、それでも。
 ほとんど顔と名前しか知らない程度の女を、冬の夜に見つけて三時間付き合って泣かせてくれた、十数年分の呪詛を全部聞いて吐かせて受け入れてくれた、それだって確かに彼の一部のはずだ。同じスポーツをプレイする仲間のような存在を、躊躇なく壊しにかかる一面も確かに彼の一部で。それを、できるかぎりの全部を、受け入れたい。花宮さんがそうしてくれたみたいに。

「だって私には優しかった! それが私には何より大事なの! それがどうしていけないの!!」

 眼球が熱くなって、ぎゅっと目を閉じる。泣きそうだ。声は泣いていたかもしれない、でも涙はまだ出ていない。口を閉じた大ちゃんの最後に見た表情――傷付いたようなそれに、罪悪感を抱く余裕もない。自分の荒い呼吸だけが聞こえた。目を開けたその下で、テーブルが水分越しに歪んでいる。ああやっぱり、泣きそうだ。

「……好き なんですか?」

 場にそぐわない、落ち着いた声に顔を向ける。普段と同じ無表情。黒子くんは本当にいつも、何を考えているのかわからない顔をしているなあ、と思いながら、一度だけ頷いた。考えるより先に頷いていた。
 ……好き。そうか、好き、か。薄々気付いてはいたけれど、真剣に考えることを避け続けてきた感情だった。問いかけられて反射的に頷くほど、強く根ざしていたのか。優しい人が好き。いつだったか、はっきりとは答えられなかった自分の台詞を思い出す。優しい人が好き――私みたいなクズにも、優しい人が好き。恋愛の条件だとかなんだとかをすっ飛ばして、結果としては口に出せなかったあの日の答えが当てはまった。あのひとを、好きだというのは、少し抵抗があったけれど。
 優しいだけだとか思うなっていう、あの台詞はどういう意味だったんだろう。自惚れてもいいのかな。知っても離れないでくれるかな。簡単な女だなって思わないかな、いや実際に簡単な女なんだけど。だってあんなの、好きになっちゃうよ。誰も気付かなかったような作り笑いとか、へこんでるのとか、気付いてくれるんだよ。指摘して慰めてくれるんだよ。冬の夜に上着くれちゃったりするんだよ。声がきれいで、手が大きくて冷たくて、触られると落ち着くんだよ。――どんな人だって構わないって、思っちゃうよ。

「……悪く言わないで。私が勝手に好きなだけ。私の、片思い、だから」

 今日だって、さつきとの話し合いの後だってわかってて、会う予定を入れてくれたんだ。場合によってはめちゃくちゃ落ち込んで、泣くかもしれない、面倒になるかもしれないって花宮さんが予想してないはずがない。それでも約束をしてくれた。
 何故だか刃を飲み込んだような表情の黒子くんから目を逸らして、どうしても浅くなる呼吸を整える。そうしながら徐々に頭が冷えていく。ちょっと怒鳴りすぎた、大ちゃんとこんなふうに言い合うなんていつぶりだろう。殴り合いにならなかったことは、結果としてラッキーか……いや、これからどう転ぶかわからない。小銭でも握っておくか。鞄を見下ろしたところで、誰かが動いた。

「それ以上は平行線だと思うよ」
「!?」
「?!」

 優しく凛と通った印象の声に思わず振り返る。長身に囲まれる形でよくは見えなかったけれど、聞き間違えるはずがない。本能的に後ずさると、椅子が壁に追い詰められて音を立てた。がしゃばさっ、という音に椅子から鞄が落ちたのを察するけれど、それどころじゃない。緑間くんと黒子くんの隙間に現れた、あの上着の色。見開いたまま上にスライドさせた視界に、優しげな苦笑の顔があった。確信していたはずの状況が改めて現れて、血の気の引く思いがする。

「だっ……えっ、なん、場所、言ってないっ……」
「待ち合わせより少し早く着いたから軽く何か飲もうかなあって。そしたら名前がいたから、話しかけようかと思ったんだけど……そういう空気でもなくて。ごめんね?」

 質問にもなっていない、言葉になってるかも怪しい声に、さらさらと流れるような返答、少し首を傾げての謝罪。聞いて確信した、絶対嘘だ。少なくとも悪いとかはこれっぽっちも思ってない。硬直していたのは私だけではないらしく、たまたま壁になる位置にいた緑間くんがぐいっと横に押しのけられた。荷物は? にこやかに問いかけられて、思わず『あ、ハイ』と答えて鞄と携帯を拾い上げてしまう。忘れ物、ない、うん。

「桃井さんのお姉さんが一人でいるようなら、口を出さずに待とうと思ったんだけど。知らない男に囲まれてたから、ちょっと心配で」
「は、なみやさんっ、」
「真でいいって言ってるのに、名前」
(誰だよこいつ!!!)

 言ってるのにも何も初めて言われたわ多分! と、突っ込む余裕もなく肩を抱かれる。勢いよく引っ張られるあまり転びかけて胸に飛び込む形になったが、やわらかく微笑まれ耳元で『大丈夫?』と囁かれただけだった。怖い! 恥ずかしい! 顔まで一気に熱くなる。くそう好青年モード本当いつになったら慣れるの……! 周囲の空気がざわざわし始めて、ようやくここがマジバであることを思い出した。見れば注目を浴びている。ちょっと待て、一体いつから。

「じゃ、行こうか、名前。映画の時間も確認しないと」
「っで、でも、あの」

 ていうか映画観ようとかいう話はしてませんよねすごいデート予定みたいな話してますけど私は夕方からバイトだし花宮さんはチームメイトとストバスだしで少しだけ話そうって感じでしたよね確かね。そして今日も教科書忘れんなって言われてたの覚えてますよ私、つくづく家庭教師かって話ですよ!
 できればノンブレスで叫びたかったところだが、切なそうな微笑がそうすることを許さない。ムードで『黙ってろ』って言うのやめてほしい。あと肩が、肩に置かれた手が地味に爪を立てている痛い。

「どうせもう話にならないよ」
「それは、……はい」

 その一言は、本音で言われたとわかったので素直に頷く。振り返ってみれば立ち尽くしている四人に、守られるように真ん中で座っているさつき。涙を拭いもせずにぽかんとしている。……確かにこれまで、予定の倍の余裕を持った時間だったにもかかわらずロクな話を出来ていないし、これから片付きそうな気もしない。多めに時間を置いて一気に話すより、少しずつ話してそのたび少しずつ時間を置くほうがいいのかもしれない。……気の長い話だな。思わず遠くを見つめていると、押されてそのまま店の外まで導かれた。爪を立てられるのはなくなったけど相変わらず振り払えない力強さだ。振り払う気ないですから大丈夫ですよー……と伝えるつもりで視線を合わせようとすれば、それより先に尖った声が響いた。

「待っ、……名前!」

 反射的に肩が跳ねる。大ちゃんだ。振り返ろうとすると、その場で今度は頭を抱かれた。甘い雰囲気に見えるかもしれないけど、これ、位置固定されてますよね。振り返るなってことですか。

「……名前が怯えているのがわからない?」

 いや驚いただけです。そして花宮さんがそれをわかっていないはずがない。見えない位置にある顔がどんな表情をしているのかはわからないけれど、おそらく今は好青年の顔をしているんだろうなあ、と思う。芝居がかった、悲しそうなのか怒りを堪えているような顔を声から想像する。

「名前の意思を尊重して、黙って見てたけどね。大の男三人とその他二人で集まって女の子囲んで責めて、恥ずかしくないのかな。……俺のことはどんなにデタラメ言ってくれてもいいけど、庇う子を責めるのは違うんじゃない?」

 さりげなく黒子くんをチビ扱いした上に正当な文句(ラフプレー野郎)をデタラメ呼ばわり……。一言によくここまで織り込めるものだと感心する。台詞だけ聞いてると知人だか友達だかの恋人が気に入らなくてイチャモンつけてる悪役だ。つくづくこの人の猫被りには気合と年季が入っている。

「は、花宮さん」
「しっ。大丈夫だから」

 楽しそうっすね!! と言いたいけど言えない。安心させるように髪を撫でられて、意志とは無関係に頬が熱くなる。顔の見えない位置でよかった、とは思うものの、花宮さんにはバレていそうだ。
 いやまあ、私としてもさつきとだけ話ができればそれでいいので……花宮さんがキセキの皆さんと絡む事自体には文句はないんですけれども。

「そんな乱暴な連中に、女の子ひとり預けていけるような男はいないでしょ」

 ねっ、とでも言うように、体ごとぎゅっと抱き寄せられた。多分少し前にいた中学生くらいの女の子達がキャアアと歓声を上げる。それをきっかけに、戻り始めていたざわざわとした空気が一気に濃くなった。やベー何あれカッコいい王子様みたーい! 漫画みたいだったホントにあるもんなんだねー! いいなああー撮ったねえ撮った!? 雑談に紛れるはずの彼女たちの声がいやに耳に届く。店を出るその瞬間、誰かがヒュウウーと囃し立てるような声を上げた。状況だけ見たらそうかもしれませんけどね、この人最後の台詞のとき絶対ニタァって感じの顔してキセキ振り返ってたでしょ絶対そうでしょ!? そのへんはスルーなの!?
 状況証拠って怖すぎる。そして恥ずかしい。赤い顔を手で覆って隠していると、頭上から堪えきれない様子の笑い声が聞こえた。くつくつと喉を鳴らす笑い方。楽しそう、ですね。顔を上げると、やはり悪い笑顔で見下ろされた。

「なんで人前だと真さんモードを貫くんですか……」
「勘違いしてる連中には最後までさせときゃいいんだよ。アイツら完全にお前が俺に騙されてると思ってやがる、マジウケる」
(性格悪い……いっそ清々しいほど性格が悪い……)
「それにお前が言ってただろーが、わかる奴だけわかってりゃいい。親切丁寧に説明してやる必要がどこにある」
「……、はい」

 当たり前みたいに本質を突くようなことを言うから、なんか逆らう気になれないんだよなー……。
 頭を固定していた腕は肩に戻って、寄り添う形でゆっくり歩く。ところでいつまでこの姿勢でいるんだろう、歩きにくいし花宮さんだって歩きにくいだろうに。マジバから見えない距離になるまではこのままかな、と、呆れのような感心のような不思議な気分で溜息をついた。つくづく自分の楽しみに対して忠実な人だ。
 ……自分に忠実といえば。唐突に立ち止まった私に、花宮さんも立ち止まる。顔を見上げると、なんだよ、と訝しそうな表情をしていた。これも随分見慣れた。初対面のころだったら、多分怖かった……ことはないかもしれない。切り替えるように雰囲気を使い分ける様子に戸惑いつつも、そういえば最初からあんまり怖くはなかった。

「私、結局のところ、さつきより自分を選んだわけなんですけど。どう思いますか?」
「ハァ?」
「だから、自分を犠牲にしてさつきの笑顔を守るより――」
「意味を聞いてんじゃねえ、その質問の意図を聞いてんだよ」
「答え合わせです」
「……」

 盛大に顔をしかめた花宮さんが、大きな溜息を吐き出す。それが根負けしたの合図だと知っている。大ちゃんはきっとわからないだろう。ほら、私のほうが花宮さんのこと知ってる。そう威張って言いたい気もしたし、言うのが勿体ないような気もした。……花宮さんも同じ理由で、真さんモードを貫いてるんだったりして、とか、さ、さすがにそれはないか、さすがにそれは自意識過剰だな、うん。恋する女の自惚れですねハイ。

「人間誰でも自分が一番可愛いんだよ」
「……えへへ、はい」
「なんで喜ぶ」
「正解でした!」
「あっそ。……自分を最優先した上で、一緒にいることを選ぶんじゃなきゃイミなんかねーだろ」
「……」
「…… なんだよ!」
「いえ、……そうだなあって、思って」

 人の不幸は蜜の味だとか堂々とほざく、ラフプレーに楽しみを見出すような怖い人。だけどそれだけじゃないんだって、私はちゃんと知っている。――想像した通りの、想像した以上の、回答をくれる人だって知っている。肩を抱かれているのをいいことに、少しだけ頭を花宮さんのほうへ傾けた。やっぱり好きだなぁなんて、考えて一人で照れる。自覚したばかりの気持ちはくすぐったくてあったかくて、少し切ないけど心地いい。この人がいてくれたら、何だって出来る気がする。どんな戦いにだって向かっていける気がする。たとえば今日、家に帰ってからあるだろう一悶着とか。
 自分を最優先した上で、一緒にいることを選ぶ。その言葉は、花宮さんが私と一緒にいてくれることを、自惚れてもいいのかな。ふわふわ甘い妄想に、雲の上を歩いているような気分で頬を緩めていると、

「そんなことより言うことがあんだろうが」
「えっ?」
「誰が、誰に、片思いだって?」

 突き落とされた。

「えっ……あ、いや、あの、えっと」
「ん?」

 そして唐突な真さんモード笑顔。怖い。甘い幻想が一瞬にして霧散し、冬の空気が肌を刺すのを感じる。これは確実に何か悪い現象のフラグだ。思わず逃げかけた身体をがしっと掴まれて、悲鳴じみた声が漏れた。

「ヒイってなんだヒイって」
「そりゃヒイとかギャアとか出ますよ! 今自分がどんだけ悪い顔してるか自覚ないんですか!」
「酷いな、名前が可愛いだけなのに」
「真さんはもういいですから!」
「お前こっちに弱いだろ」
「バレてた……!」

 一番バレちゃいけない相手に一番バレててほしくないことがバレていた……! 作り物だってわかってるのに照れずにいられない悔しい恥ずかしい照れる。だって多分なんていうか、基本的に好みの顔で微笑まれたら強制的にキュンときてしまう。素のほうも、す、好きなので、っていうか好きな人に優しく紳士的に接されたらそりゃときめいてしまうでしょうって話でして! なんてまさか言えない。捕まえられたまま近い顔を睨むと、どっちのモードなのかよくわからない顔で見下ろされていた。

「……花宮さん?」
「言ってみろよ。いいこと、あるかもしんねーだろ」
「……、」

 薄い微笑は、あまり自覚がないのかもしれない。好青年モードの使い分けは、彼が楽しむところもありつつ彼を助けている部分でもあるんじゃないのかななんて、少し思う。嘘だってなんだって、本人の中に無い発想や知らない言葉が口から出てくることはありえない。

「……花宮さん。あの、助けてくれて、ありがとうございました」
「あ? ……ああ、まあ、別に。俺が楽しみたかっただけだし」
「今日だけの話じゃないです。初めて会ったときも、次も、その次も、……あの日も、今日も。助けてくれて、ありがとうございます。花宮さんにそんなつもりがあってもなくても、私はいつも花宮さんに気付かされたり、救われたりしてきました」
「……ああ」

 首を上げ続けるのに疲れて、前を向く。平均身長の私では、そうすると花宮さんの表情は見えない。それでも目の前の上着をぎゅっと握ると、添えるように上から覆う手があった。大きくて少し冷たい手。この手に背中を撫でられて、あの日の私は苦痛から救われた。

「……だからなのか、私にとって花宮さんはやっぱり優しい人で、そりゃものすごく意地悪で性格悪い人でもありますけど、……それが、気にならないくらい、なんていうか、……好きで、大切な人なんです。愛すべき欠点に見えてくるくらい」

 ラフプレーはやめてほしいなと、今も思う。……今のほうが、強く思う。それは怪我を負うバスケプレイヤーを気遣うからではなくて、いつか花宮さんに報復があるんじゃないかと恐れるからだ。

「助けてくれて、たくさん力づけてくれて、ありがとうございます。戦う気になりました。努力する気になりました。……今日も頑張れました」
「……そうだな。見てた」

 そうして、よく頑張った、とでも言うように空いている片手で頭を撫でられる。
 ……花宮さんは私が、花宮さんの手に弱いのを知っているんだろうか。そうとしか思えないくらい、最高のタイミングで触れてくれる。安心して、泣きそうになってしまう。ぐっと目を閉じて、短く深呼吸して、息を整えた。今は泣くべきときじゃない。

「……私が救われたって感じたのと同じくらい、花宮さんの力になりたいです。私は、私にとっての花宮さんみたいになりたい。同じように想って欲しい」

 愛とは愛されたいと願うこと。昔どこかで歌われていた詩を思い出して、気恥ずかしくなる。
 拳が少し震え始めて、それを止めようと力を入れると添えられていた手によって服を握るのをやめさせられた。てのひらの内側に入り込んでくる指先が、拳をほどかせる。顔を上げると、思ったよりずっと傍にあった顔にびくっとした。思わず引いた身体が、ごく自然に、支えるように捕まえられて離れられない。
 つづきは。近い唇が、囁くように問いかけた。ここから紡がれる命令に、逆らえる日はきっといつまでも来ない。

「……花宮さんを、いつか私が救いたい。好きです、傍にいさせてください」

 覗き込む自分の顔が目視できるほど近い眼が、ふっと細められる。花が綻ぶよう、なんて言葉は男の人に向けるべきではないのかもしれないけれど、それを思い浮かべるようなやわらかな微笑だった。

「無駄な抵抗する前にそう言っとけ、バァカ」

 ――近付いてきた顔は、唇の隣に触れた。

「は、」

 すぐに離れて、取られていた手の甲にキスをされる。その途端に唐突に照れがやってきて、心臓が忙しなく動き出す。は、花宮さん、花宮さんっ。夢中で呼びながら手を引っ込めようとするけれど、強く捕まえられていて到底離れられなかった。返事もせずに体を反転させて歩き出した、その顔が見えない。

「はっ、ちょ、花宮さん!」
「……なんだよ」
「いや何だよって言われると……な、なんだろ……」
「ちょっと大人しくしとけ、そしたら口もしてやるよ」
「くち、……や、あの! そうでなくて!」
「黙ってついてこいバァカ!」
「理不尽!!」

 それにしても一度も振り返ってくれないのは何なんだ、歩くのも早い上にリーチの違いで小走りどころじゃなくなっている。はなみやさん、そう声をかけて、風になびいた黒髪の影に、血の色を映した肌を見た。

「……」

 思わず言葉を失って、見える位置にある耳や首を確認する。大ちゃんと比べちゃいけないけど、男の人にしては白い肌。長めの髪に隠れて見えにくい首筋が、赤い。競歩状態のこともそうだけれど、そういえば手首を掴んでいる力も随分強い。加減を忘れているみたいに。
 これ、これ、自惚れてもいいんじゃない? 口もしてやるって、そういうことなんじゃない? いいよね、そう思ってもいいよね? 好きでもない女に、キスとか、しないよね?

「……っ、」

 でも、言ってくれるまで納得はしないことにしよう。いいかげん息が切れてきたのもあって、手を離してもらうのは諦めて身体ごと飛びついた。押し倒す勢いでやったのに、難なく受け止められたことはちょっと予想外だったけれども。

「いきなり何すんだ、よッ……」

 ぎゅうっと抱きしめて、見上げる顔は予想通り真っ赤だ。花宮さん。そうかけた声が、自分でも呆れるくらい甘いのがわかる。かっこいい人だと思ってたけど、案外かわいい人でもあったんだなぁなんて、新発見。いつか本人に言ってみたい。多分今言ったら怒られる。
 頭がほんのり熱くて、足元がふわふわする。鼓動が早くて息苦しいほどなのに心地良い。驚くくらい浮かれている。ほんの一時間前まで、針のむしろに身を投げているような気分でいたっていうのに、嘘みたいだ。掴まれていた片手を解放されたので、遠慮なく両腕を花宮さんの背中にまわした。抱いた身体があたたかい。認めたばかりの気持ちが大きく膨らむのを感じる。

「花宮さん、好きです、大好き」
「……もう聞いた」
「好きです、彼女にしてください」
「……おう」
「はっきり答えてもらうまで続けます。好きです、彼女にしてください」
「おまっ、て、照れてた癖にっ」
「今もです。でも例え間違いなく伝わってても、言葉にするべきことっていうのはありますから」
「……、嫌な知恵つけやがって」
「多分つけさせたのは花宮さんです」
「急な真顔やめろ。……あー、ったく、」

 わしゃっと頭を撫でられた、と思ったらその手が髪をまとめて耳を露出させる。そこに、息がかかるほど近い位置に、顔が下りてきた。

「――好きだ、……名前」

 いつも予想通りの、予想以上の、答えをくれる人。
 心の赴くままぎゅっと首にしがみつくと、すぐさま『重いっつのバカ』と返ってきたのに、背中に腕が回された。そのままの状態で囁かれた『かわいい』は幻聴かと思ったけれど、顔を見ようとしたら頑なに抱きしめられて身体を拘束されたのでたぶん現実だと思う。


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2014.08.22

喧嘩時に小銭を握るっていうのは昔の少年漫画にありがちな都市伝説(威力が上がる)です。たぶん青峰からの知識。