「……なんで、そんな、こと 言うの」

 ぐしゃっと泣き顔をひどくさせたさつきを、眉間にしわを寄せながらじっと見つめている名前。どうしてなの、わたしのこと、きらいなの、いままでのぜんぶうそだったの、とほとんど声になっていない声で、責める音程で言ったさつきに、小さく吐かれる溜息。

「なんでそう極端から極端に走るかな……」

 この女は、誰だ。
 はらはらと涙を零し始めたさつきの真向かいで、人形のような無表情でいる名前に、青峰はほとんど初めて恐怖を感じていた。血の気が引いて真っ白な顔が、大儀そうに息を吸って吐く。重病人のようで、けれど儚いとか弱々しいとかいった印象はなかった。むしろ何をしでかすのか、わからないような。
 ――死に際の獣が一番危ないのだと、漫画で読んだ知識が甦る。何考えてんだ、何言ってんだ、馬鹿馬鹿しい。そう思うのに、よく知っているはずの幼馴染は顔も上げずに唇を動かした。ごめん。音にならなかったその声に気付いたのは、凝視している青峰の他にいないだろう。大きくしゃくりあげて上下した肩を、いまさら抱いて――その間も名前から視線を離せない。白く僅かに青ざめている。死にそうな目をしている。どうしてそんな顔をしてまで、今までずっと守ってきた相手を傷つける言葉を吐いているんだ。そう青峰が口にする前に、今度はきちんと音にして、名前が声を出した。

「……好きでもあるよ。尊敬してる部分もある。だけど百パーセント大好きで何をされても許すなんて、もう言えない」
「……名前!」

 思わず咎める音で名前を呼んだ青峰に、それまでの硬直が嘘のような速度で視線が向けられた。怒りではない、ただ煩わしそうな表情。悲しむように顔を歪めて、……わかってたよ、と紡がれた言葉は、誰の、何のことだったのか。

「双子の姉を嫌いだなんて、今まで絶対言えなかった」

 無理に作ったような笑顔はぎこちなくて、怒っているようにも泣き出しそうにも見えた。
 どうしてそんな顔で、苦しそうに喋るんだ。青峰はふと、テーブルの下にあった名前の手が彼女のみぞおちの辺り――胃の辺りを、強く抑えているのを見た。拳を伏せる形で身体に沿っているそれは、僅かに震えている。思わず顔を確認したが、それを気にしている様子はない。
 ――大丈夫。寒いだけ。
 数日前、放課後すぐ、だっただろうか。ペンケースを持ち上げようとして床にぶちまけた名前と、拾い集めるのを手伝って手渡そうとして、ひどく震える腕を指摘して、そう答えられたことを覚えている。お前なんだそれ、いくらなんでも寒がりすぎだろ。そう笑って、マフラーを巻きだすのを眺めていた。大ちゃんと違ってね、体脂肪率が高いと寒いんだよ。褒めてるんだかけなしてるんだかわからないことを言って、自分の身体をぎゅっと抱いていた。あっためてやろーか。いいからもう部活行きなよ。他愛ない会話。他愛ないと、思っていた。

「血のつながった家族だし、私よりずっと優れてるさつきを嫌いだなんて言っても単なる嫉妬としか受け取られないってわかってた。煩わしかったし悲しかったし面倒くさかった」

 声が少し硬い。何か言いかけて、唇をぐっと閉じて、時間をかけて深呼吸する。ゆっくり行われる割に呼吸が浅いのを聞き取って、もしかしてこいつ泣いてるんじゃないのか、と思ったものの、その目から涙は流れていなかった。……何に対しても躊躇しない姉と、我慢しすぎる妹。震える手で胃の辺りを抑えながら、血を吐くように言葉を紡ぐ。

「……自分がクズだって知ってたから、隠し続けてきた」

 不意に、騒がしい女の声が聞こえた。数人できゃあきゃあ笑い合いながら肩をぶつけ合い、やだもう零れるってば、と紙コップやハンバーガーの箱を揺らしながらまだ笑う。楽しそうな様子でそのまま席を探していた彼女達は――ふと青峰のいるボックス席に目を留めて、一瞬硬直した。けれどすぐに気を取り直した様子で何か喋り合い、心なしか声の調子を落として、遠くの席へ入っていく。明らかに避けられた。なんなんだ、と思って――今も腕の中にいるさつきが、未だ両手に顔を伏せて泣いていることに気付いた。顔を上げると、名前は何事もなかったかのように顔を逸らしてカップに口をつけている。その手は相変わらず、僅かに震えている。

「……」

 真昼間のマジバで人の目を気にせずに頭を下げる男、泣く女。そうして楽しそうな女達は、笑うのをやめて離れていった。気付いてみると、ちらちら向けられている好奇の視線。――周囲の圧力。名前が口にした言葉の意味をおぼろげながら理解し、……気にしなきゃいい、なんて言葉の無責任さを、うっすら感じている青峰は口をつぐんだ。脱いだ上着をさつきの肩にかけて、視線を戻す。目が合った名前は息苦しい顔のまま微笑んだ。

「――ずっと苦しかったよ。みんなが眩しいだけ、優しいだけ、悪気がないって言葉を免罪符に行動するたび、傷付く自分が悪いんだって。私がクズだからだって。世界滅びねーかなとか、隕石落ちてこないかなとか思ってた」

 先程よりは幾分楽そうで、笑顔も慣れている。いつごろからか、よく見るようになった種類の笑顔。慣れすぎて気付かなかったそれは、顔の筋肉だけで笑うものだ。

「でも、それで結局自分もさつきも傷つけてたね。……ごめん」

 ……あ。
 首を振って耳を塞いで、聞くまいとしているさつきと、それを見つめる名前を眺めて、不意に気付く。これもしかして、絶縁宣言じゃないんじゃねえの? だって名前が今口にしていることは、これまで怒ったり拒否したりしなくてごめん、だ。空気読んで妥協してきたけど、苦しくなったからこれからはそれやめるよって話だ。……素で付き合うよって話だ。

「ねえ、ごめんねさつき、私は今まで通りにはもういられない」
「……やだ、」
「さつき」
「やだやだ何で! みんな悪くないもん私も悪くないもん、私だってずっと、ずっと名前のこと考えてッ、」
「……だからーその『名前のため』っていう言葉を私が受け取る義理はないわけでー、それは理由になってないわけー」

 あ、こいつ面倒になった。何度説明させる気だって顔になった。
 確かに前よりはわかりやすいわ、少し前なら苦笑しつつ『そうだねごめんねよしよし』つってさつきの頭を撫でてるとこだ。さつきの台詞で緊張の糸が切れたのか、背もたれに体重をかけて携帯でちらりと時間を確認する。その瞬間、僅かに眉間を寄せたのを見た。予定でもあるのか、口をつけていた割にほとんど減っていないサイダーをごくごく飲み始める。

「そんなんじゃ名前ッ、ひとりぼっちになっちゃうよ!?」
「ぶっ」

 サイダーの水面が波打つ。それほど大規模でなかったのが幸いしてコップの内側だけで済んだ爆発は、青峰の他に目に留めたものはいないようだった。

「……」

 しかし笑っているのは誰が見てもわかる。口元を抑えて小刻みに震える肩は、先程見た手の震えとは明らかに違う。その間も隣からは『名前は内気だから消極的だから人見知りだから口下手だから』『特技もないし趣味もないし』『だから私がいてあげないと』『私が引っ張ってあげないと』と似たような言葉が続き、同じ人物に対して同じだけ時間を過ごしたというのに随分印象が違うもんだとぼんやり考えた。青峰から見た桃井名前という人物はどう間違っても内気ではないし消極的でもない。
 笑いが収まったのか、名前はやがて諦めたような様子でさつきを眺め、言葉が尽きるのを待って――私もそう思ってたよ、と、ゆっくり言った。

「私も、そう思ってた。誰も私を受け入れないって。私のクズな部分を許してくれる人なんて、いないと思ってた」
「……名前?」

 にこり、と笑みが返される。ぎこちなくはない。慣れた、平坦なものでもない。顔の青白さは変わらないし、祈る形で組まれる両手も、見れば僅かに震えている。さつきをまっすぐに見つめて、やはり痛そうに少しだけ瞼を伏せて、息を吸った。

「……でも、いたんだよ。許して、受け入れてくれる人が、いた」
「そんなの嘘かもしれないじゃん! ひとごとだからどうでもいいのかもしれないじゃん! でも私は名前のお姉ちゃんだよ!? 名前のこと本当に考えてるのは私だよ!!」
「嘘かどうかとかどうでもいいの。大切なのは私が救われたことで、私がその人を信じられるかどうかってこと」

 返答の早さに、名前が既にその可能性を考えていたことがわかる。

「ていうかね、世界中すべての人に嫌われないようにっていうのがそもそも間違いだったよ今考えれば。わかってくれる人だけがわかってくれればいい。好きな人がいれば嫌いな人もいるなんて、当たり前なのに」

 素の自分を出しもせずに、誰もわかってくれないなんて嘆くとか。ばかなことしてたよねえ。やわらかく、雑談のように笑みさえ含めて言うのと同時、テーブルに伏せられた携帯が震える。ひっくり返して画面を確認した名前が、安堵したように微笑む。その途端、青峰は腹の底が熱くなるのを感じた。
 ――メールかなんか来て、超嬉しそうな顔して帰っちゃったんスよ。愚痴る調子で言っていた黄瀬の声を思い出し、同じ奴だと直感する。同じ奴だ。名前を許して受け入れた、名前が信じられると言った人間。メール一通で黄瀬を置き去りにさせた相手。今、メールを送ってきて、おそらくは、このあと予定を入れている相手。

「そいつに、何、吹き込まれた」

 名前の纏う空気が、一瞬で変質したのが解った。
 普段なら退きたくなるそれに、いっそう確信する。そいつだ。名前を変えたのはそいつだ。数分前まで受け入れ態勢、むしろ若干いいことなんじゃねえのと感じていた名前の変化が、唐突に気に入らなくなる。名前を、変えたのは。

「花宮さんのせいにしないで。花宮さんは優しい人だよ」

 ――あの日、名前を送ったと、家の前にいた男。よりによって。歯がぎちっと鳴り、何か言おうとしたさつきを上着で覆って黙らせる。全く反射的な行動だった。

「優しい? 花宮真が? アホか」
「私のほうが花宮さんのこと知ってる」

 がた、と音を立てて椅子もテーブルも気にせず立ち上がる。ほぼ同じタイミングで、名前も同じように立ち上がった。
 さつきが泣いてもテツが謝ってもまずは周囲の反応を気にするくせに、花宮の話題は出しただけでこれかよ。確実に集まっている注目と、それらを気にかける余裕のない名前――剣呑な視線に、苛立ちが募る。このままだと小学校以来の殴り合いになるかもしれない。それでもいい、と、青峰自身も焼き切れそうな思考回路で判断する。危うい雰囲気に、仕切り越しに座っていた三人が慌てた様子で席を立った。

「あいつの試合観ただろ! どんなヤツかわかんねえのかよ!」
「大ちゃんこそわかってないッ!」
「お前ッ、」
「言ったでしょう、もうわかったでしょう、私はクズなの! バスケ心底どうでもいい! コートで行われることはコートで片付けて来いよ、こっちに持ってくんな!」
「名前!!」

 わざわざ席を立って大声で怒鳴り合う男女の姿は、真昼間のマジバでそれは注目を浴びた。携帯で撮影する者もいた。遠慮がちに向けられる視線も、遠慮なく交わされる推測も、まさか殴りかかりはしないかと止める姿勢にある三人の姿もあって騒がしかった。

「だって私には優しかった! それが私には何より大事なの! それがどうしていけないの!!」

 その、蜂の巣をつついたような騒ぎが――名前の言葉を最後に、しん、と静まり返った。怒鳴り合っていた二人が呼吸を整える音だけが響く。

「好き なんですか?」

 言いながら、信じていないような声色だった。うっかり出てしまったような、気の抜けた声に、顔を動かしたのは彼女一人のみだ。荒い呼吸を整えて、何故だか辛そうな表情で、こくんと一回頷く。

「……悪く言わないで。私が勝手に好きなだけ。私の、片思い、だから」
「…………」

 その場にいる全員が、硬直したようだった。誰かの、もしかしたら全員かもしれない、息を呑む音を最後に今度こそ静寂が訪れる。当人達も野次馬も一切身動きしない。おそらく数秒に過ぎないのだろう、永遠のような沈黙。
 この数十分で増えた客のうちの誰かが、席を立った。


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2014.08.21