――時間をおいて、話をしようか。
三時間に及ぶ話し合い、と呼ぶにはいささか成立していなかった会話の最後に、うんざりした様子を隠しもせず名前が言ったのはそんなことだった。伝えたいことと確認したいことを整理しておくから、さつきもそうして。話し合おう。さつきがはっきりとした返事をする前にそう決めて、いつのまにか知っていたバスケ部の練習のない日を口にして、少し考えて時間と場所も指定する。淡々と組み立てられる予定に、なんでそんなこと言うの、とこの三時間で何回口にしたかわからない言葉をまた紡ごうと口を開きかけ――閉じた。どちらにしろ時間が必要だと、さつきも思った。時間を置いたところで冷静になれるかというと、わからなかったが。
さつき。そろそろきちんと話をしよう。
帰ってくるなり部屋を訪れてそう言った妹の顔は、まるで見覚えのない他人のようだった。この一ヶ月ほど感じてきたことをまた一層強く感じて、話って何を、と返した声は明らかに拗ねていた自覚はある。そうすればいつも物事を指定してごめんねと謝って、もうしないと約束するなり妥協案を探るなりしてきたはずの名前は、今回に限ってそうはしなかった。とりあえず、キセキの人達を巻き込むのはやめてほしいかな。そう言って、まるで姉を責めるように――さつきに責任があるかのように、話を切り出したのは、本当に初めてのことだった。
思わず声を荒げて言い返したさつきにも、名前は慌てた様子なく――少しだけ、目が冷たかったかもしれない。ひとつひとつ頷いて、しっかりと受け止めて、けれど無抵抗に受け入れることはしなかった。早いところ片付けたくなったんだ。それに関しては悪かったと思ってるよ。それに関してはさつきに言われることじゃないよ。ねえさつき、それは心配してくれてるの? 本当に? 私たち、同じだけ年を取った人間なんだってことはわかってる? さつきは私に、どうしてほしいの。子供を諭すような、言い含めるような言葉。
最近帰りが遅いしお父さんお母さんも何も言わない、なんで? なんで一緒に居てくれないの? 顔見たくない声も聞きたくないなんかだって最近の名前って変なんだもん。なんかやだ、何言ってるのかわかんないよ。どうしてほしいなんて思ってないし言ったこともない、なんでそんなこと聞くの、なんでそんな言い方するの。わあわあ喚き立てるような言葉はどんどん内容を失っていって、それは自覚できているのに対応が追いつかない。辛抱強く付き合っていた名前だったが、三時間に及ぼうという頃にとうとう根を上げて――冒頭の、強制に近い提案をした。
時間を置いて、話をしよう。場所も変えよう。時間も決めて、内容は前もってお互い考えておこう。
「……さつき。私ね、受験の結果次第でもあるけど、大学に入ったら家を出ようと思う」
「え」
「だから、ちゃんと話そう」
なんで。だってまだ一年なのに。大学ってなんでどうして、どこに。
混乱するさつきをを差し置いて、じゃあ日付と時間、忘れないでねと最後に繰り返して、部屋を出て行く。疲れた様子の名前に、さつきもかける言葉がなかった。
名前が変、名前がおかしい。最近ずっとおかしい、遠い、何考えてるかわかんない、今までこんなことなかったのに絶対なかったのに。
これまで誰より味方でいてくれたはずの妹が、まるで誰かと入れ替わったように態度を変えた。両親に話をしてみても、保護者の視線では微妙にすれ違った回答しか返ってはこない。あんた達もいいかげん大人なんだから自立しなさい。妹が取られそうで寂しいのは解るけど、あの子だって頑張ってるんだからお姉ちゃんらしく見守ってあげなさい。大丈夫、姉妹なんだから最後には仲直りできる。名前にも言っておくから。時間が必要な時もあるから。今度は正真正銘、はっきりと諭されて、さつきには泣きつける相手はごく僅かしかいなかった。中学時代の部活の仲間。
名前がおかしいの、名前が、何考えてるかわかんないよぉ……っ。
一番近く、一番名前を知っている幼馴染に泣きつけば、面倒そうな態度をとりつつも名前が家を出る件になると顔色を変えた。あいつが。その先の言葉を、さつきは聞いていない。泣いてしまってそれどころではなかった。
名前、名前。どうしてそんなこと言うの。どうして傍にいてくれないの。どうして今までどおりにいてくれないの。私達、ずっと一緒にいたのに、どうして急に、何があったの。どうして遠くに行こうとするの。どうして何も話してくれないの。
堪えきれず零れる涙は、その都度誰かが拭ってくれた。幼馴染、好きな人、友人。慰められながら気休めを囁かれながら、いつだって真っ先に撫でてくれた手がない。さつきは悪くないよ。そう断言してくれた声がない。名前。名前。妹は振り返らず、姉は見つめる眼差しを逸らさず、日数が経過した。
そうして。
「…………」
指定の時間と場所――名前が働いていたところとはまた別のマジバ、早めの時間帯、端の席。さつきよりも遅く家を出てやってきた名前は、見えた光景をまず疑った。怪訝な顔を傾げつつ何度か確認し、やがてぐったりと疲れた様子で首を落として大いに呆れた溜息をついて、踵を返した。背中にかけられる声にも構わず立ち去ろうとして、自分よりずっと足が速く力も強い男に捕まえられて立ち止まる。セルフ式ゴミ箱の上に置いてそのまま帰ろうとした一応注文したらしい品は、手をつけられてもいない。
「どこ行くんだよ」
「なんでいんの、大ちゃん。私さつきと話そうっつったはずなんだけど」
「別にいーだろ、俺いても」
「それを決めるのは大ちゃんじゃなくて私とさつきだよ。私だけじゃなくてさつきだけでもない。つうかマナーの問題じゃないかね」
「名前、大ちゃんは私達を心配してくれてっ……」
「今そこ関係なくない?」
水掛け論にしかならないと断じたらしい、ちっと小さく舌を打って、歩き去ろうとしていた足をテーブルへ向ける。それでひとまずほっとした様子で青峰とさつきも椅子へ戻った。一対二、向かい合う形で見る名前の顔の、初めて見る表情。青峰が声に出さず動揺していたところ、名前、と隣から弱々しい声がした。この一週間ほど、ずっと塞ぎ込んでいた様子の幼馴染。
「……いいよわかった、妥協するよ、大ちゃんについてはね。許す」
最後の一言をやたらと強調して言う名前の態度は、確かに少なからず青峰が知っているものと違う。外で会うギリギリまで他のメンバーの所在を知らせず、待ち合わせ場所で驚いた顔をするなんてのは青峰が知っている限りでも何度かあったはずだった。多かったのは小学校時代で、中学時代については一度か二度だったが。
さつき、もう、せめて前もって言ってよねぇ。やや疲れた様子で、それでも仕方なさそうに笑ってみせた名前の顔を覚えている。なんでそんないちいち気にすんだよ、別にいーじゃねーか。いつだったかそう言った青峰に対しても、……まあね、とだけ返ってきたはずだ。
端的に言えば、刺々しい。誰かにふとそんな顔を見せることがあっても、さつきに対してだけは優しく優しく甘やかして接してきたはずの名前が。なるほど確かにこれは、おかしい、のかもしれない。今まで話を聞きながら半信半疑でいた状況をようやく飲み込んで、青峰は奇妙な緊張を覚えた。さつきに対する態度がこれなんだったらそれ以外の人間にはもっと酷いことになってんじゃねーのか。
「名前、そんな言い方っ」
「……言葉遣いについて議論に来たわけじゃないんだ。あとどう考えても無断で他人を連れてくる方に非がある」
「大ちゃんは他人なんかじゃないでしょ!?」
「この話題やめよっか」
がぱっと大きなドリンクの蓋を開けて、ストローではなく紙コップのふちに口をつけて中身を飲む。この寒いのに冷たいソーダを注文したらしく、小さな氷が隙間なく満ちている下でしゅわしゅわと音が鳴るのを聞いた。
「……ねえさつき、私はさつきと話し合いに来たんだ。そのために考える時間も作って、今日ここに来た。家より外の方が中断せずに済むから」
「……」
「言いたいことと聞きたいことをお互い考えておこう、って話をしたよね。そんでこの、姉妹喧嘩って言われてるものに一応の決着をつけて、他の人を巻き込むのよそうって」
「……」
「…………」
気を取り直してにっこり微笑んでいた顔が、だんまりを決め込んださつきによってまた表情をなくしていく。頬杖をついて唇を小さく動かした名前が、何と言ったの青峰には聞こえなかった。さつきにも、だろう。しばらくそのまま時間が過ぎて、ふと携帯電話の画面で時間を確認した名前が顔を上げる。
無駄なのかなあ。おそらく八割がたは独り言の声が、妙に乾いていた。
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2014.08.17
2014.08.17