シフトの時間まで働き終えて着替え、荷物を持って店内に戻ったところでちょうどメールが届いた。
 差出人名は藤井奈津実。件名が得意そうな顔文字を添えた『言ってやった』、内容は件名と関係なさそうな雑談と『明日そっちのお店に顔出すからケーキ類欲しいな』といった内容で、不思議に思いつつも了解の旨を送り返す。ちょうどレジ業務をしていた店長にそれを伝えると、じゃあ明日は洋食と甘いものメインにしようかなーとのんびりした返答があった。
 マジバを辞めて一週間ほど。同じ系列だということで紹介され、切り替えるように働き出したレストランでは、店長である彼女の気分によって日々メニューを変える。和洋中華に多国籍、実に幅広いジャンルを抑えている店長兼シェフ兼店員の女性は、おっとりして見える割にアクティブだ。彼女に店舗を貸す形で店を手伝っているマスターも、厳しいながら優しい。小さいけれどメニューは多彩で何を食べても美味しく、店員は感じがいい。隣には芸能事務所のビルという立地の良さもあって、マスターと店長だけではどうにもお店を回せない――という状態だったため、二つ返事で名前は即日採用された。忙しいけれど働き甲斐のある、楽しいお店だ。

「なーに、名前ちゃんの彼氏って甘いもの好きだったの?」
「彼氏じゃなくて、女友達の話です」
「なんだそっか。彼氏クン、しょっちゅう見てるけど甘いもの注文してるの見たことないから驚いちゃった」
「……は、花宮さんは彼氏とかじゃ」
「ふうーん? いっつもイイ雰囲気でお勉強会してるのに?」
「だ、だから違うんですっ! だいたい勉強会に雰囲気も何もないじゃないですか!」
「京也さん、あんまりからかわないの」
「あら、俺ってば怒られちゃった」

 内緒話のように顔を寄せていたのを、店長の声を聞いて離れていく。お得意さんでもある、隣の芸能事務所所属のひとり――伊達京也さんは、どうにも距離感が近くていけない。一応、現在大活躍中のアイドルのはずなんだけれども。チャラいイケメン、美形でもある気遣い屋さんとか天が二物三物を与えたもうた所の話じゃない。

「でもさー、マジで付き合ってないの? あれで?」
「……っ、伊達さんミーティングに来たんじゃなかったんですか! 不破さんと神崎さんご飯だけ食べて帰ろうとしてますよ!?」
「っ」
「うぇっ……」
「……そーだったそーだった。食後のドリンク追加でよろしく。ケント、トオル、お座り」
「言うなよモモイぃー……」
「おすわり」
「ハーイ……」

 うなだれて席に戻る、これまたアイドルであるはずの二人と、牧羊犬さながら追い立てていく伊達さん。あの三人は国民的アイドルグループのはずだよなあ、正直もう見慣れちゃったけど……。
 くすくす笑う楽しそうな店長を手伝おうとキッチンへ入ろうとして『もう時間過ぎたでしょ』とフロアへ押し戻された。カウンター式のキッチンでどうしてあんなに凝った料理が次々できるのか不思議でならない、と思いながら見つめていると、カップをふたつ渡された。ひとつはブラックコーヒー、もうひとつはコーヒーに生クリームとチョコレートソースが乗っている。

「店長?」
「今は他にお客さんいないから大丈夫。いつも頑張ってるし注文もしてくれるからね、これはオマケ」
「……」
「ほら、窓際の席使っていいよ」

 頑張ってね、と――それは勉強の話だけじゃない気がした――囁いて背中を押されるのと同時、チリンと出入り口のドアに設置されたベルが鳴る。どちらかというとランチがメインのお店で、こんな時間にやってくるのは隣の事務所の人間か――最近は、他に一人しかいない。

「お、噂をすれば花宮クン!」
「……何スか」
「嫌そうな顔しなーいの。今日の俺は名前ちゃんがナンパされてんの助けてあげた恩人よ?」
「……は?」
「伊達さんミーティング! 花宮さん店長がコーヒーくれました飲みましょう!」
「名前ちゃんの俺に対する扱いが日々雑になっていく気がする」
「京也サンの構い方がウザいんじゃん? つーかコーラ早くー」
「はーい」
「花宮さんは! こっちです!」
「……」

 余計なことを言おうとした伊達さんと引き離し、いつも使わせてもらっている窓際の席へ誘導する。ほら、コーヒー熱いうちにね、飲みたいからね。付き合ってるわけでもないのにナンパされたどうこうの話とかマジでどうでもいいだろうし……っていうかあのお客さんは店長にも同じことを言っていたので多分ナンパとかではなくてああいう人なんだろう。店長だって笑って受け流していたし、気にしたら負けだ。……よく考えたら私っていうより店長にちょっかい出されるのが嫌だっただけなんじゃないの伊達さん。よし次の出前で伊達さんだけ私が持って行ってやる、ただでさえライバル多いのに会う機会が減って焦るがいいわ。一人そんなことを考えていると、真向かいに座ってコーヒーカップに口をつけていた花宮さんからデコピンを食らった。地味に痛い。

「なんですか」
「……スペルが違う」
「えっ」

 慌ててルーズリーフに顔を伏せる。ここ、と指先で示されて、確かに言われたとおり綴りを間違えていた。うう、今回は大丈夫だと思ったのに。思わず唸ると、落ち着いて解けっつってんだろ、と何度目か解らない注意を頂いた。はい、すいません……。

「……そういえば黄瀬くんがコンタクトとってきたって話はしたじゃないですか」
「ああ」
「今日は緑間くんがいました」
「で、どうした」
「顔を合わせてないのでわかりません」

 目立つ人達で助かります、逃げやすくて。付け加えながら間違えた箇所を直すべく辞書を引く。その向かいで花宮さんもさらさらと課題を片付けていく。十分程度で終わってしまい、雑誌を読み始めるのはいつものことだ。ここでバイトを始める前までは花宮さんの部活が終わるのを私が待っていたはずが(黄瀬くんにお茶をおごってもらったのはその時間を待つついでの話だ)、今は花宮さんが私を待ってくれている。……こういうことをしているから付き合っていると思われているのでは。そう思い至ってペンが止まり、すかさずそれを突っ込まれる。手が止まってんぞ真面目にやれ。はい。いやこれ彼氏っていうか家庭教師だろう……。毎回こうして迎えに来ては勉強を教えてくれて家まで送ってくれていて、私はというとお礼と称してここでのお茶や食事を奢る程度しかしていない。それさえ拒否されたりもする。か、考えれば考えるほど関係性が謎……!

「親切心で忠告しといてやるが、次はデコピンじゃ済まねーぞ」
「真面目に解きます」

 デコピンでさえ殺傷力が高いのになんてことだ、この人バスケプレイヤーの指力わかってない。彼氏っていうかスパルタ家庭教師だ、考え事はダメだけど雑談はオッケーという基準のよくわからないスパルタ先生だ。雑談といっても、私の場合は近況報告や家族、花宮さんが事情を知っているという点から、さつきの話が多いのだけれど。
 真面目に課題を終えて、そのままの流れで予習と復習をさせられる。わかりやすい解説に、やっぱり主将兼監督なんだよなーと毎回思う。これが最高学年になるのだから、逆らえる人なんか居ないんだろうなあ。私程度のレベルだと、逆らう気にもなれない。

「……今日、緑間くんが居たからじゃないんですけど、そろそろ真面目に話をしようと思います」
「ふうん」
「皆に心配をかけてるのも心苦しいですし、さつきとはいつか必ず向き合わなきゃいけないので……」
「それが理由のうちだとして、残りは?」
「いいかげん待ち伏せられるの鬱陶しいです」

 特に大ちゃんな。バスケと向き合うことにしたならそっちに夢中になってりゃいいのに、多分さつきに泣きつかれたからって昼休みにまで絡んできやがって教室内でちょっとした噂になってるだろうがあ。ここしばらくでキセキと呼ばれる人達によってどれだけさつきが大切な存在なのか痛感した、よくわかった、だから関わらないでほしい。姉妹間の話なんだから首突っ込んでくるなや大ちゃんは仕方ないにしても。さつきもさつきだ、周囲を巻き込むな。今現在も花宮さんを巻き込んでいる私が言えたことじゃないかもしれないが、いいの干渉するところまでは行ってないから。これは雑談という名の愚痴と相談でしかないからいいの。

「先に方針決めとけよ」
「方針、ですか」
「お前の姉ちゃんがどうしたいのか知らねーけど、少なくともお前はどうしたいのか。整理しといたほうが話しやすいだろ」
「……なるほど」

 ――目的地がはっきりしないで走るの、辛いやろ。
 その声を聞いたのが、随分前になってしまったような気がした。

「……似たようなことを、今吉先輩に言われたことがあります」
「あ?」
「あれ、花宮さんと今吉先輩って中学一緒だったんですよね?」
「……あー、……まあな」

 何か思い出しているのか、それとも話したくないことでもあるのか、目を逸らして黙り込んでしまう。課題を終えて教科書類をしまっていると、見計らっていたのか店長が注文を持ってきてくれた。具沢山が自慢のホットサンドと、コーヒーのお代わりが注がれていく。無言の花宮さんを眺めながら、それに手を伸ばした。

「……」

 今吉先輩とは、ここしばらく話していない。話す機会も、元々それほどあるほうじゃないし――先輩は部活を引退している。仮に私がバスケ部に所属していたとしても接点はなくなっていただろう。それでも、行けば多分、話してくれるだろう。遊んでもくれるだろう、けれど。

「あの人とは、なんもねーのか」
「? はい?」
「告ったり告られたり付き合ったり」
「……は!? え!? な、ないですよ! 何言ってるんですか!」
「別に、変な話題じゃねーだろ」
「へ、変だし失礼ですよ! ……そりゃ私基準では仲はいいと思いますけど、今吉先輩は後輩みんなに優しいだけですっ……」

 咄嗟に出た大声を自覚して、もう遅いと気付きながらもこそこそと潜めて喋る。ふうん、と短く答えた花宮さんは自分で話を振ったくせに興味もなさそうな顔をしていた。な、なんなんだ本当に。
 ――本当に。

「……最近は、話してもないです。見かけることもあんまりないです」
「同じ学校だろ」
「そうですけど、あっちは三年でこっちは一年ですし、……巻き込んだら悪いじゃないですか」
「悪い?」
「悪いです。……今吉先輩にとって大ちゃんはかわいい後輩ですし、さつきは貴重なマネージャーです。私のこともかわいい後輩って言ってくれてます。……そんなとこで揉めてるとか、気苦労にしかならないでしょう。ただでさえ大事な時期なのに」
「……それに?」
「……、」
「まだあんだろ」
「…………軽蔑、されたくないです……」

 もう怖くない、ことはないけど、頑張れる。誰に何を思われたところで仕方がないのだと理解できる。それでもいいと思ったのだ、嫌われて軽蔑されて、それでもいいと。嘘をつかない代わりに、信じられる人を得て自分自身を否定しない代わりに、痛みを引き受ける覚悟を決めた。黄瀬くんに言ったことは、間違いなく本当だ。けれどやっぱり――特別な人は、居る。仕方ないと思う一方で、拒絶しないでほしい人はいる。助けてくれた、優しくしてくれた、そんなつもりがなくても、息もできずにいた私を、救ってくれていた。
 嘘をつきたくなくて軽蔑もされたくないのなら、離れることしかできない。

「先輩は、優しい、から」

 ――火神くんも、そうだ。
 助けて支えになってくれていた人たちに、嫌われたくない。

「ふうん。……報われないもんだな」
「えっ」
「別に」

 その『別に』は、聞くなという意味だ。ということを瞬時に理解して、弾かれるように上げた視線をまた下げる。報われない。報われない? 誰が? ……彼らが?

「……、」

 名前を聞かれた日や、優しい笑顔を向けられた日、繋いだ手の温度をそれぞれ思い出して俯く。火神くんは、先輩だって、優しいだけだ。ずっとそう言い聞かせてきたことが、そう自分へ繰り返すことによって潰してきた気持ちが、波になって押し寄せる。
 報われないもんだ。そう言う花宮さんは、何か知ってるとでもいうのか。遠くから見つめて察せてしまえるほど、わかりやすい何かがあったっていうのか。こんなの、勘違いなら本格的にただの痛い奴だ。報われないなんて、そんな、まるで先輩が、私を好きみたいな。

「…………」

 そうであればいい、みたいなことを。
 そう考えた瞬間、自分でも意外なくらいの痛みに打ち抜かれる。胸が痛い、というのはあながち間違った表現でもないのだと、今知った。花宮さんは、私と今吉先輩が、どうかなればいいと思っているんだろうか。告ったり告られたり付き合ったり、という系統の、どうにかを、私と先輩の間に期待していたんだろうか。先輩が私を好きだとして、私がそれに応えればいいと――思っているんだろうか。
 一口かじったままだったホットサンドに噛み付いて、喋らなくても不自然じゃない状況を作り出す。何か言ったら喚き散らしそうだったし、言いたくないことを言ってしまう気がした。八つ当たりになってしまう気もした。いつも美味しいはずの料理が、石のように喉を落ちていく。なんでか泣いてしまいそうだった。私、私は。……私、は。

「念のため言っとくが」
「え……は、はい」
「俺を優しいだけだとは思うな」
「えっ? は、い?」
「お前の場合は姉ちゃんのどうこうって話もあるし、今最優先で考えなくてもいい。でも覚えとけ、優しいだけなんて言葉で片付けるな」
「…………」

 それ、は。
 悲しいのとそうでもないのと新たな疑問で混乱して、何も答えられないまま首を傾げた私に本日二度目のデコピン(どころではない)が繰り出される。思わずぐぅっと唸ったのを花宮さんはそれはそれは楽しそうに笑って、文句のひとつも言えなくなってしまった。
 ……弾かれてもいない頬は、鏡を見るまでもなく熱い。もやもやにどきどきが加わって、もう何も考えられない。こんなの八割は都合のいい妄想で、残り一割は花宮さんの気まぐれか悪戯だろう。いやその悪戯が妄想原因の可能性もあるからもうひっくるめて九割が花宮さんの悪戯だ、そういうことにする。
 ――更に残った一割、は。

(……くっそ)

 とりあえず、帰ったらさつきと話を始めよう。一刻も早く事態を片付けないと、考えることもできない。


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2014.08.12

何故かときメモシリーズをねじ込む意地。