(……今日もいないのか)

 これまでよりも少しだけ早かったり、遅かったり。時間を微妙に変えて繰り返し訪れても、レジに探す姿を見つけられていない。普段と同じメニューを注文し、同じ席へと座る。先週のように声をかけられるのを期待していたが、今日もそれはなさそうだった。

 ――火神くん、よかった、会えた。

 カウンターを挟んで向かい合ったとき、名前はそう言って安心したように微笑んだ。ごめん、少し話したいから待っててもらってもいいかな。私ももうすぐ上がるから。小声で言う隣で、すっかり顔見知りになった名前の友人――なっちゃんと呼ばれる茶髪の彼女が、何か言いたげに唇を噛んでいるのを視界の端に捉えながらも頷いていた。よかった。またも柔らかく微笑む名前に、火神も安堵した気持ちで微笑む。
 自分のミスから姉や幼馴染にバイトを知られ――隠していた、ということを火神はそのときに知った――押しかける形で訪れて、泣かせてしまったことを、なんだか後味悪く引きずっていた。なんとなく足が遠のいていたマジバだったが、今日は来てみて良かった。そう思いながらテーブル席で待っていると、着替えた名前がいつもより多く商品を持ってやってくる。テイクアウト用の大きな袋を見て、夜食にでもすんのかと聞いたとき可笑しそうに笑っていたことまで、はっきりと覚えている。

 ――あのね、火神くん。この間はすみませんでした。

 さらりと言って頭を下げた名前に、何故だか火神のほうがうろたえた。いや、俺こそ、っていうか、隠してたって知らなくて、悪い。不器用な謝罪に微笑みながら首を振る、その顔が今までよりずっと大人びていてどきりとする。初めて会ったときから――見かけたときから、可愛いとは、思っていた。小さくてよく動いて、明るくて優しい。いつだって楽しそうに笑っている。それになんだかほっとして、声を聞くだけで安らいだ気持ちになれていた。その気持ちが、名前を呼びたい、返事して欲しい、名前を呼ばれたい、というところまで進化するのに、あまり時間はかからなかった。一目惚れと呼ぶにはやや緩やかで曖昧な気持ちは、今も確かに続いている。
 けれど今の彼女は、あのころに火神の視線を奪った人物とは少しばかり違っていた。ただ無邪気に明るかった、言うなれば幼さのようなものが薄れ、穏やかに落ち着いて見える。

 ――泣いちゃうとは自分でも思ってなくて。困らせたよね。ごめんねって言いたかったんだ。

 だから、会えてよかった。少し照れたようにそう付け加える顔は、可愛らしいというよりも綺麗だと言えそうだった。触れれば壊れそうな小ささや細さは変わらないのに、なんだか以前よりも凛として見える。向かい合っている事実に顔が熱くなっていくのを感じながらも、いや、としか返事ができなかった。普段から決して器用な男ではないが、今はなんだか殊更に不器用だ。そのことも、原因も、自覚している。最初からずっと可愛かったけど、今も可愛いけれど、こんなに、まるで淡い光の粒子を纏っているかのような性質の女ではなかったはずだろう。とても目をあわせられないのに、見つめずにいられない。
 謝り合うのもそこそこに、その日の続きは雑談となった。学校の話、友人の話、バスケの話。最後のひとつについては名前は専ら聞き役に徹していたが、火神くんの声や喋り方は好きだから聞いてて楽しいよ、という言葉に、どうにも反応できず、その顔にまた笑われた。本当に楽しそうに笑うものだから、怒ったフリも長続きしなかった。

 避けられている、ということは、ないはずだ。先週、円満なまま別れたことを思い出し、火神はひとり不安を打ち消す努力をしていた。家まで送ることはできなかったものの、このあと人と約束があるからと言われてしまえば無理強いはできなかった。あれはマイナスになってはいないはずだ。へえ、姉ちゃんとかか? 何気ない問いかけには少し困ったような顔で、友達なのかなあ、という返事だったが。キセキの世代と呼ばれる連中と火神が繋がっていると知られた今、そのうちの誰かであればそう言うだろう。そこまで考えて、ふと思い出す言葉。――キセキの誰かに、憧れていたそうです。いつだったか無感情に呟いた相棒の声を、痛みを伴って思い出す。今は、どうなのか解りませんが。やはり感情の色を見せずに言うのは、意図的に隠そうとするときの癖だと気付いてしばらく経つ。過去は過去だろ。今は今だ。きっぱり言い返した火神に黒子は淡く笑い、単純ですね、キミらしいです。と短く答えた。少しの沈黙を挟んで、そう言われたかったのかもしれません、とも。
 キセキの世代。纏う空気の性質が人ではないような雰囲気の男や、ひどく几帳面で整っている男。子供じみているのにえらく丈夫で強い奴、圧倒的に強くてどこかでとても乾いている、切り替えの早いあいつは幼馴染だという。男女問わず視線を集めるきらきらした男と、火神自身も誰より頼りにしている、堂々として男らしい負けず嫌い。過去は過去で、今は今だ。言い切っておきながら、憧れの人、というフレーズはいつまでも消えていない。気になるなら聞いてみる、というのが一番手っ取り早いというのはわかっているのに顔を合わせると口に出していいのか解らず、また最近は会いたくても会えていない。
 次に会えたら、連絡先を聞く。数回くじけた経験のある決意が、ここ数日で強くなっている。
 会いたいときはいつだって会えたから、ウインターカップが終わったあの日でさえ名前は店頭に立っていたから。その状況に甘えてずるずる引き延ばしてしまっていたのを火神はようやく自覚した。会いたいときに、せめて会いたいと伝えられる間柄になりたいのだと、やっと。
 ――決意した矢先にぱったり会えなくなってしまったのは、まるで笑えない状況だが。山になっていたバーガーをぺろりと平らげて、レジを振り返ってもやはり彼女の姿はない。それにしても最近はほとんど毎日来てんのに、こんだけ会えないっておかしくねーか。時間が変わったとかなのか。と考えた矢先、ちょうど茶髪の彼女――『なっちゃん』が従業員用の扉から出てきたのを見つける。店内を通らなければ出られない従業員用出口を、あの日の名前が使わなかった理由についても、もう少し聞くべきだったんじゃないか。今更ながらにそう思って、『次に会えたら』リストの中に加える。次に会えたら連絡先を聞く、名前を呼ぶ、話を聞く。したいことが、たくさんある。

「なあ、そこのアンタ」
「……」

 茶色いポニーテールを揺らした彼女は、捜すというほど時間もかけずに火神を見た。それから、やはり何かを耐えているような、面白くなさそうな顔。その反応を妙に思いながらも言葉を続ける。この少女は、自分と彼女に協力的なはずだった。

「あのさ、最近あいつ……桃井、名前、って見かけないんだけど、時間変わったとかか?」
「……」

 すっと目を細めた彼女が、真向かいの席に滑り込む。ボックス席に向かい合う、黒子や名前ともよくする形だ。そういった意味で慣れているにも関わらず、今はなんだか妙な威圧感を覚えた。自分よりずっと小さくて細い、名前さえあやふやな一人の女に対してだ。思わずたじろいだ火神を気遣う様子もなく、彼女はやはり睨むように見上げる。

「あんたが声かけてきたんだからね」
「……は、あ?」
「名前が庇うし、一応お客さんだし、あたしは店員だし、焚きつけたのはあたしだし、責任あるから黙ってるつもりだったけど。あんたが声かけてきたのが悪いんだからね」
「……はあ?」

 何言ってんだこの女、という気持ちが声にそのまま出る。呆れを反映したそれは火神の外見や背丈や声質もあり、女を怯えさせるには充分な要素を備えている。それを咄嗟に自覚し、やべえ、と思うと同時、しかし彼女はそれまで以上の強さで火神を睨みつけただけだった。

「名前は辞めたわよ」
「……は? えっ?」
「あんたたちのせいだからね」

 前置きもなく、バンと音を立ててテーブルに手のひらが叩きつけられた。痛いだろうと確信できる速さと強さで、細い指をめいっぱいに開いた手が、突き立てられるようにしてテーブルに伏せている。思わずそれに視線を吸い寄せられていると、あんたたちのせいで、とか細い声が続いた。

「なん、で」
「――よっぽど虫でも入れてやろうかと思ったけど。あたしたちのプロ意識と名前の説教に感謝しなさいよ」
「な、」
「でもあたしは絶対許さない。あんたたちのせいで、あたしたちは名前といられなくなったんだ」

 吐き捨てるように続けて、テーブルに伏せたままの手を支えに立ち上がる。これを言うためだけだったのか、と考えるひまもなく、離れていこうとした腕をぐっと握り締めた。振り返った顔が、忌々しそうに歪む。

「先週よ。先週、相席したのが、最後の日。お土産、いっぱい持たせたわ」
「……」
「今日で辞めるとか言われなかった? また会おうとか連絡先教えてとか無かったの? なんにも? ……じゃ、そういうことなんじゃない?」

 フラれたのよ、あんた。
 驚くほど冷ややかな声がそう付け加えて、手を払う。細さに見合った、本当に軽い動きだったにも関わらず、抵抗できずに手は外れた。そこから先は振り返りもせずに去っていく。茶色いポニーテールが威嚇のように揺れながら離れていく。夕暮れ過ぎのファストフード店で、やはり火神に声がかけられることは無かった。


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2014.08.11