崩壊は、始まってみれば早かった。

「なんていうか、姉妹関係を保つのに、いかに自分しか努力してなかったかを痛感したよねぇ」

 切なそうに目を細めながらも、決して事態を重く受け止めてはいない苦笑。その違和感に、黄瀬は言葉をなくしてモデルらしくもない引きつった笑みを浮かべていた。

 あの夜を境に、名前はさつきに干渉するのを止めた。それまで姉妹間で諍いがあれば当然のように名前から折れ、接し、さつきを宥めて関係を円滑なものに戻す、といったことを、今回に限りしなかった。とはいえ、それだけだ。別に避けているわけではないし拒絶しているわけでもない。対話の機会を求められれば応えただろうし、これからだってそうするつもりはある。ただ物陰から睨まれてもどうしたのと問いかけてやることをしなくなった、部屋にやってきて謝罪待ちの体勢を取られても空気を読んでそれなりに対処するということをやめた。無反応というほどでもない、本当にささやかな冷ややかさだ。意思さえあれば決定的な隔絶ではない。
 それでもさつきは、ある時期以降ふっつりと名前に関わらなくなった。
 学校が再開して毎日の部活が始まっても、マネージャー補充のお願いに来ることはなくなった。何かの集いで声をかけられることもないし、多少時間が遅くなっても着信が入ることもない。執拗に教室へ来ることもない。しばらくはバイト先に繰り返し現れたが、名前はあの日から次のシフトを組まれる頃にバイトを辞めてしまったからその後はどうなったのか解らない。
 同じ家に住んでいながら、そして確かに姉妹でありながら、他人同士が共同生活しているような感覚だ。さつきはどうだかわからないが、名前としてはなかなか居心地が悪くはない。両親は初めて見る形の姉妹の距離感に戸惑っているようだが、表立った問題もないので口を出していいやら迷っているのだろう、何も言ってはこない。静かでいい。

「まさか黄瀬くんが桐皇近くまで来るとは思わなかったけど。何、さつきから何か連絡あった?」
「……や、特に、そーゆー訳ではねーんスけど」
「別の人かぁ」
「……なんで誰かから話があったこと前提なんスか」
「あははは、黄瀬くんが自発的に私にちょっかい出してくるわけないじゃん」

 面白い冗談でも聞いたように笑いながら、緑茶とアールグレイをブレンドしたという紅茶をカップに注ぐ。ケーキのメニューを眺めていた名前が、いらないのに注文することないか、と口の中で呟いたのを聞き取って黄瀬はまたしても顔が奇妙な緊張を帯びるのを感じた。
 ――桃井サン、お茶でもしねっスか。
 学校帰りを待ち伏せた唐突な誘いに、驚いた顔をしていた名前は迷うように首を巡らせ――にこりと微笑み、時間までだけど黄瀬くんの奢りならいいよ、と答えた。まさか真っ先にたかられるとは思わなかった。その笑顔の性質も言葉の選び方も、自身が知っている桃井名前という人物像とは離れていて違和感を抱く。よくいる好意的な女子ではなく、友人の気安さとも微妙に違う。

「ケーキ、食いたいならどうぞ?」
「いや、特にお腹すいてない」
「メニュー見てたじゃないっすか」
「せっかくの機会だから注文だけしてつつきまわして食べずに帰ろうかと思ったけど、やっぱ食べ物で遊ぶのは良くないなって思いとどまったの」
「…………そうスか」

 思いとどまる理由、そこか。せっかくの機会だから食べずに弄ろうかって、それまるで俺を怒らせたいみたいな。と、口にするのは躊躇われた。いやいやそんなはずがないだろう、という気持ちと、今の彼女であれば迷いなく笑って『よくわかったね』とでも言いそうな気がせめぎあって黄瀬の口を閉じさせた。結果としてそれが黄瀬の精神衛生に貢献したかどうかはわからない。

「んで、さつきとはお話したとおりの感じで喧嘩にもなってない現状だけど。他に何か聞きたいことある?」
「……やだなー桃井サン、俺は別にそういう計算で声かけたわけじゃ」
「あははは! そ、そっか。くふっ、それなら、ふ、それでいいけど。ははは」

 ウケているのを隠せていない。というか隠す気もないだろコレ。え、なんかこう、もうちょっとメソメソされたり悩み相談されたりそこを利用して距離詰められたりを覚悟して来たのになんだこれ……。

「はー笑った。……そうだね、私としても気まずいというか家庭内の空気が悪いままなのは嫌なんで、どうにかしたいとは思ってるんだけど。さつきがあの状態のままじゃどうにも」
「……桃井サンから話ふってあげればいいじゃないスか。桃っちだって困ってるでしょ多分」
「ははは。甘えんな」

 最後の一言は聞き間違いか何かだろうか。思わず真顔になった黄瀬に、名前がちらりと視線を合わせて――それはそれは綺麗に微笑んだ。モデルが思わず感心する、お手本のような笑顔。ただしそれに温度は一切ない。ぞわ、と背筋が寒気を訴えた。
 黄瀬の知る桃井名前は一度だってこんなふうには笑わなかった。ではどんなふうに笑っていたのかというと、……普通に、としか彼の語彙では表現されない。いつだってにこやかであったことは確かだ。部活で、教室で、それほど接する機会は無かったけれど――声をかければ彼女はいつも笑ってくれた。それが他の人間に対する、少し困ったような笑顔や呆れた様子を隠そうともしない表情、少し緊張して強張った顔などとは違ったことを黄瀬は自覚しているし、周囲も気付いていたことだろう。だからこそ今日、名前から話を聞き出す役割に黄瀬は抜擢されたのだ。やはり女の子というべきなのか、名前は中学時代から黄瀬には比較的甘い。説得するのなら黄瀬が適役だろうと不満そうに言った同級生と、いまいち釈然としないながらも同意したメンバーを思い起こす。

「私としては現状がどうにも楽なもんでね、ついズルズル引き伸ばしちゃってるんだけど、良くないのはまぁ解ってるよ」
「……楽って」
「楽だわ、静かで。入ってもいない部活に巻き込まれることもないし、自分に関係ないイベントで土日つぶされることもないし。……ああでも、こうやって人に絡まれることは増えた気がするから、プラマイゼロ……ってことはないか。差し引きして、少しはプラスかな」
「…………」

 暗に、というより結構明確に迷惑だと告げられたことに気付くまで数秒、気付いてからは言葉を失って数秒。角砂糖を入れたり付いてきたスパイスを入れてみたりと紅茶を楽しんでいる名前には、黄瀬を意識に入れている様子はない。黄瀬涼太、今も店内の女性客や店員、店の外からもちらちら注目されている現役モデル。女性客の『あれキセリョじゃない?』『えー、彼女がキセリョをあんなに邪険に扱う? 顔見てもないじゃん』『そっくりさんか』『なんだ』という会話が耳に入ってきて訂正したくなった。本物です、モデルのキセリョです。あと彼女じゃない。『喧嘩してんじゃない?』『見ないであげよう。ほら写メるんじゃないの! かわいそうでしょ!』どこの誰かはわかりませんが違います喧嘩ですらねえです俺は断じてかわいそうじゃない、……あ、桃っちの現状こーゆーことか。そりゃどうしようもないわ。と一瞬納得しかけた黄瀬が、思わずいやいやいやと声を上げた。おかしいっしょ、これ。

「いやいや桃井サン、桃井サン違うっしょ」
「ミルクティーも案外いける」
「話! 会話して!」
「先に話を打ち切ったの黄瀬くんじゃーん、もー我侭っ子だなあ、知ってたけど」

 顔だけは微笑を保ちつつ、迷惑そうな態度が全面に出ている。やっぱキセリョじゃないわ、キセリョあんな情けなくないわ。その声が名前にも聞こえたのか、ふっと可笑しそうに声を漏らす。楽しそう、ではある。

「モデルの黄瀬くんはカッコいいもんね、気持ちはわかる」
「……ホントっすかぁ? これカッコいいと思われてる態度っすかあ?」
「ホントホント、雑誌とかで見かけると別人みたいだもん」

 くすくす笑う顔にようやく普段の調子を取り戻した気になってほっとする、のも束の間、普段の調子じゃダメじゃん俺。という気持ちを表情から読み取ったのか、また笑い声を漏らした。

「少しは真面目に話そっか。……正直、寂しい気持ちもあるよ。関係を保つのに努力してたのは私だけで、さつきは自分から話すこともしてくれないんだなーって。ちょっと気を利かすのやめたくらいでこの状態だもん」

 ふうっと紅茶の湯気を吹いて水面に目を伏せる、下を向いた睫毛が白い頬に影を落とす。素直な憂いの表情が思いのほか色濃くて、黄瀬は喉までせり上げる感情を覚えたが、それがどんなものなのかは自分でもわからなかった。
 焦って、いる。
 自分の状態に思い至って、つい口元に手を当てた。焦ってる? 戸惑ってる? 見知った女の子の初めて見る表情に? どうして。どうだっていいだろう、本来、彼女が何を考えてどう変化していたって。正直にそう思う反面、納得しきれない自分自身がいる。
 俯くとさらりと落ちる髪を耳にかけて、黄瀬の表情に気付いた名前は安心させるように穏やかに微笑んだ。きゅう、と喉の奥が痛いような錯覚。

「話しすぎたかな、ごめんね。コメントしづらいよね」
「……や、別に」
「不思議なんだけど、黄瀬くんには何でも話せるような気がしちゃって」

 自分で口にした言葉に、照れた――というよりやはり面白がっているように、小さく笑う。そこについ先程感じた氷のような冷たさはなくて、黄瀬はついほっと息を吐いた。変わったとしても、変わらない。こうして笑ってくれているし、よく見てくれている。自分でも意外なほど安堵を覚えて微笑み返し、……いや待て、俺、待て。ほってなんだ、なに安心してんだ。別に不安に思うコトも安心するコトもねぇっしょ。桃井サンがどうなってようと俺には別に。それも確かに、正直な意見ではあるのだけれど。ひとり悩んで考え込んでしまった黄瀬に、今度はどうしようもないと判断したのか名前は声をかけず二杯目の紅茶を注いだ。ついてきたスパイスを足し、混ぜて、味を確かめる。カップに集中しているのか、黄瀬の視線に気付いている様子はない。
 カップをソーサーへ戻す、その仕草ひとつにしても静かで、余裕のようなものが滲み出ている。こんなに堂々とした女の子だっただろうか。こんなに淀みなく話す子だっただろうか。こんなに、綺麗な女の子だっただろうか。視線に熱がこもるのを自覚しながら、目を逸らせない。

「――初めて会ったときのこと、覚えてる?」

 桜色の唇がそうゆっくりと紡ぐのを、ほとんど魅入られたように見つめていた。

「……黄瀬くん?」
「え。あ、はいっス!」
「いきなり変な話題ふっちゃった? カップルかって話だよね図々しい?」
「や、別に、そんなことないっスよ! お、覚えてるっス」
「そっか」

 間違えていなければ、それは放課後だ。マネージャーとして働いているのをちらちら見かけはしたはずだが、きちんと顔を合わせて名乗り合ったのは一軍に上がった日のことだった。

 ――黄瀬くん、ちょっといいかな。

 放課後、教室で声をかけてきた女の子。バスケ部に入ったことなんてもう知れ渡ったと思ったのにと歯痒い気持ちで部活があるっスからと断りを入れると、首を傾げつつ『……知ってるよ?』と返ってきた。知ってんなら引き止めるなよと、口にも出せず。

 ――や、ウチのバスケ部キビシーんで話とかちょっとできないんスよ……
 ――……? あ、覚えてないのか。私、バスケ部のマネージャーなんだけど。
 ――えっ。
 ――赤司くんが、今日から違う体育館で練習してくれだって。最初だから案内するようにって言われてるの。

 その後『桃井』と名乗られて、桃井さんなら知ってるっすけどやっぱバスケ部でもなんでもないでしょ、と聞いたこと、それには苦笑を伴って双子だと説明されたことも覚えている。似てないでしょ、よく言われるの。話題はそんな言葉で打ち切らせながら、一軍用の更衣室へ案内された。そのとき確かに、全然似てないと感じた。桃井さつきはその外見とバスケ部一軍マネージャーという役柄から学年問わずの有名人で、桃井名前は特徴のない一般生徒に過ぎない。人混みに紛れる黒い髪、黒い瞳。飛びぬけてスタイルが良いわけでもなく頭脳で優れているわけでもなく。マネージャーとしても一軍と二軍三軍の体育館を行ったり来たりしていたから、雑用のようなものだったのだろう。たまに青峰と親しげに話しているのを見て、そっか桃っちと双子ってコトは青峰っちとも幼馴染なんだ、と意外に感じた。それから、気の毒、とも。
 双子の姉が非の打ち所のない美少女で幼馴染が帝光バスケ部のレギュラー、んで本人があの地味子じゃ色々嫌になるだろーなあ。カワイソウ。一方的で独善的な同情だと、自覚してもいたので口に出したことはないが。
 つい先日まで――つい一時間前まで、ずっとそんなふうに思っていた。
 でも今はどうか。ほとんど存在を忘れていた自分のコーヒーカップに口をつけるフリをして、そっと名前の様子を窺う。黄瀬と同じく中学時代の記憶に思いを馳せているのか、紅茶の水面を通して遠くを眺めるような目をしていた。それを素直に、きれいだ、と感じる自分がいる。
 かわいそう、だったのだろうか、彼女は。
 今もこうして複数人に気にかけられて、姉妹喧嘩の終わりを願われている。話す相手に黄瀬を推薦しながら、緑間は不本意そうな顔をしていた。黒子もだ。青峰は最後まで自分がやると言い続けていた。赤司には報告を命じられ、紫原は意見を求められても何も言わないくせに相談の場には参加し続けていた。
 自分が知らなかっただけで、こんなに求められていた。それを知って、――拗ねたような気分になったのは、何故だろう。

「本当は」
「え、はい?」
「本当はね。あの時からずっと、黄瀬くんには何でも話せたはずだった」

 繊細な形をしたティーカップがテーブルへ置かれる。きらきら輝く、濡れたような瞳が黄瀬の姿を映し込む。

「だけど私は見栄っ張りでかっこつけだったから、……多分、いろいろなことが怖かったから、何も言えなかった」

 過去を懐かしみながら自嘲する微笑みは、確かにずっと大人びている。その笑顔と言葉に、黄瀬はようやく名前の変化と、その原因に思い至った。

「……今は、言えるんスか?」

 声が僅かに掠れている。それに気付かなかったはずもないだろうに、彼女は優しげに微笑んだ。
 これまで逃げて、目を逸らしてきたものと向かい合って、戦うちから。女の子を強く、美しくするものの名前。

「言えるよ。全部話せる。今はもう、怖くない……ことはないけど、でも、頑張れる。信じられる人と、欲しいものがあるから」

 覚悟と恋。

「……桃井サン、」

 何を言うべきなのか、何を言おうとしたのか。わからないまま口を開いた、その先が音になる前に――テーブルの上に置かれたままだった名前の携帯が震えた。

「!」

 黄瀬の様子を気にもかけず画面を確認した名前の顔が、傍目にもわかるくらいに明るくなる。漫画であれば背景に花が咲いていそうな笑顔で素早く何か打ち込むと、すぐにそれをポケットへ滑らせた。同時に持ち上げられる鞄、片付ける形で寄せられるティーポットとカップ。

「じゃあ黄瀬くん、今日はごちそうさまです! 約束あるからもう行くね、情報共有してもいいけど私よりさつきを説得したほうが解決は早いと思うよって伝えといて! バイバイ!」

 一息で言い切るよりも早く席を立って、伝票を持ち上げかけて手を引っ込める。やはり眩しいほどの笑顔で手を振って去っていくまでが素早すぎて声もかけられなかった。軽やかなベルの音と、少しばかりテンポの遅れた『ありがとうございましたー』でようやく我に返る。
 キセリョのそっくりさんフラれた。あれはフラれた。こそこそ交わされる言葉に反論する余裕は今の彼にはなかったし、仮に反論できたところでこの状況下では説得力の欠片もない。そうこうしているうちに黄瀬の携帯も鳴り出して、確認すれば報告待ちをしているメンバーからの催促が送られてきていた。丸々説明した後に、『なんだ結局フラれたんじゃねえか』と全く同じ評価を受けることを、彼はまだ知らない。


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2014.08.07