泣きながら呪詛の言葉を吐き続けて、落ち着いて、飲んで、食べて。あまりに色々なことを一気に片付けすぎたのか、今度は眠そうにこっくり、うつらうつらしだした女をどうしたものか花宮は考え、三十分だけ寝かせてやることにした。会ってから話を聞きだすまでに三十分、話し始めてからは一時間か一時間半程度、それが終わって大体二十分、ここから三十分を寝かせることにしてトータルは約三時間といったところか。以前、勉強を教えて遅くなった日とあまり変わらないだろう。遅いほうだが非常識の範囲ではない。眠気に逆らってがくんと揺れる頭を、少し前と同じように肩に抱いて落ち着かせる。うぅ、と不満そうに声が漏れるのを聞いたが、それは数秒もしないうちに寝息へと変わった。それがしっかり深くなるのを聞いてから、静かに顔を上げさせる。冷やさせた甲斐があったのか、赤く腫れた目元は泣いたことを隠せてはいなかったが想像したよりずっとマシだ。少なくとも、一時間も泣き続けたにしては上出来だ。目尻にもう一度濡れた布を当て、再び肩に寄りかからせた。時計に目をやり、つなぎ程度に注文した料理に手をつける。伸びるチーズが売りの揚げ物は、すっかり冷めてその特徴をなくしていた。同じく冷めた飲み物で流し込みひとまずの空腹を紛らわせながら、おとなしく腕の中に納まっている女を――といっても見慣れた自分の服を被せているわけだが――眺める。小さな頭は男物の上着のフードですっぽり覆われて、遠目には女ということくらいしか解らないだろう。喧嘩しているカップルの男が女をなだめている構図にでも見えたのか、最初はちらちら向けられていた視線も今は気にならない程度になっていた。
 それにしても、と花宮は思う。
 こいつはちょっと不器用すぎやしないか――そして馬鹿すぎやしないか。いつも死んだような顔の女にこの二時間ほどである程度のことを吐かせて、彼が感じたのはそんな意味合いのことだった。名前の片割れである桃井さつきのことは、花宮も知っている。現在高校バスケに携わっていて、キセキの世代と呼ばれる連中に興味を示す人間ならばある程度は知っているだろう存在だ。桃井さつき、元帝光中学バスケ部マネージャー。選手達に混じって月バスに載ったこともある。その高い能力は勿論、誌面として見栄えがいいというのも大きな理由だったことだろう。あれが双子の姉となればコンプレックスになるのもわからないではない、が、それにしたって過大評価というものだ。
 他よりもほんの少し優れた容姿、ほんの少し高い能力、マネージャーというよりも監督補佐。おそらくそういった表に出る部分、花宮のような他人にも察しのつく範囲ではないところで、桃井さつきは厄介な『姉』なのだろう。他よりほんの少し我侭で、その容姿と態度で許される程度の無神経。自身を清廉潔白と信じている人間特有の図々しさで、周囲を味方につけ、意志を押し通す術に長けていたのだろう。その場合、犠牲になるのはいつも身近な者だ。双子の妹。家族、しかも同性。学年も同じ。目をつけられないほうがおかしい。
 問題は、名前が全くそれに気付いていない点だ。
 みんなさつきが好きだから、みんなさつきを許すから、だから私も好きでいないと、許さないと。許されない。
 涙ながらに語る端々に、そんな言葉が挟まれていた。多分お前が思ってるほどお前の姉ちゃんは好かれてない、とは口にせず、ひとまず流しながらの聞き役に徹してはいたのだが。嫉妬、それもあながち外れではないだろう。人より優れた人間は人より多く憎まれる。けれど味方を得る割合だって、同じくらいにあるはずだ。ずっと十六歳でいたというのならまだしも、この姉妹は当然に赤ん坊から時を経て今の年齢になっている。容姿云々を気にする前の時代にさえ姉の傍を離れることを許されなかったというのなら、答えはひとつ、姉の傍には他に誰もいてくれなかったのだ。他の誰もが名前の存在を、『名前個人』ではなく『双子の妹』――姉を押し付けるにはうってつけの役割として求めたのだ。必然的に姉の傍には妹と幼馴染、それからたまたま優れた結果を残した所属している部活のプレーヤー。しかも異性。男は女に、女は男に、どうしても見方が甘くなる。根本的に別種の存在だという意識があるためだ。同性だとしてもマネージャー仲間などになると多少面白くないと感じても、部活限りの付き合いと思えば受け流すことは出来るだろう。
 同性の友人が人格のバロメーターなどと言うつもりはないが、この年齢になってまで決して乗り気ではない妹にベッタリだというのなら相応の理由がある。意識してやっているというのなら、まだ幾らかは好ましくも思えるが――その場合はもっと上手くやるだろうな、と寄りかかる女へ視線を移した。
 意識して妹を人から遠ざけ自分だけの傍に置いて、他に友人などひとりも必要ないというのなら、もう少し上手く飼い殺していることだろう。導き出される結論は、単純な無神経。面白くもねえなあ。複数のジュースを混ぜた、ノンアルコールカクテルと銘打たれたものを飲み干してグラスを置いた。そろそろ起こすべき時間か、と時計を見る。
 もしもこの女の姉が全て理解した上での腹黒だというのなら、目論見が進行するのを見守って、成功の一歩手前で盛大にヒビを入れてやってもいいところなのに。ただ単純に頭の足りない天然無神経であるというのなら、そこまで待ってやる必要もない。
 ――とはいえ、全ては憶測に過ぎない。腕に抱いたままの女を二、三度揺すり、起こしてやる。目覚めたばかりで現状を把握していない寝ぼけ眼に優等生の笑顔で語りかけると、ここに至るまでの全てを瞬時に思い返したらしい、白い頬にさっと紅が走った。

 予想通りと言えば予想通り。声も出さずにドン引きしている名前の頭上で、同じ画面を覗き込んでいる花宮もまた引いていた。着信履歴は藤井奈津実、桃井さつき、桃井さつき、青峰大輝、桃井さつき、桃井さつき、桃井さつき、桃井さつき、藤井奈津実、桃井さつき、桃井さつき……それ以上を辿るのを止め、履歴を閉じて電話帳から自宅の番号を呼び出し、遅くなった旨を短く説明する。それを隣でぼんやり聞いていた花宮だったが、ふと思い立って『桃井さん』と優しい声色で語りかけた。勿論、通話口にも届くようにだ。
 案の定、電話の相手にも聞こえたらしい。慌てた様子の名前が責める目で睨むのをいなし、貸して、とやはり声色だけは優しく言う。は? と言わんばかりの顔から取り上げるようにして携帯電話を奪い、はじめましてとどこまでも穏やかそうに話し始めた。

「花宮真と申します。桃井さんとは友人で――今日のことは申し訳ありません、今はまだ病院の前ですのであまり通話はできないんですが」

「いえ、桃井さんは無事です。僕も。ただ目の前で人が倒れて、恥ずかしながら慌てるしかできなかった僕を桃井さんが助けに入ってくれまして」

「こんな時間ですからお送りします。はい、ご挨拶と説明は、また改めてさせていただきたいと思います。はい」

 軽やかに通話を終えて、電話を名前の手に返す。窮地を救われたはずの名前は顔をしかめたまま、いいんですか、とだけ聞いた。良くなければ自分から話しかけたりするはずがない。答える代わりに白い頬をぶにっと引っ張って、抗議の視線に笑みだけ返す。これだけ泣いた痕があるのだから、物々しい理由のひとつでもなければむしろ不自然だろう。と答えてやるつもりはない。

「いーから道案内しろ。姉ちゃんと幼馴染には連絡しなくていいんだろ」
「……んー……いや、事情説明せずにメールだけ打ちます。なっちゃんにも」

 心配かけたことに対しての謝罪と今から帰りますの内容の一斉送信、しかし最後の『なっちゃん』にだけは『長くなるから次のシフトの時に説明するね』と書き加えられているのを花宮は見た。初対面時から思ってはいたことだが、桃井名前という人間は遠慮がちそうな顔をしておきながら態度が露骨だ。これでよく誰にも何も言われず気付かれずにきたもんだとある意味で感心する。もちろん名前自身の努力もあるのだろうが、思い込みの力は強い。それが意識的にしてきたことなら大したものだが。

「花宮さん、上着、」
「着とけ。そんなペラッペラの服で一月の夜にフラついてんじゃねー」
「……夕方には帰るつもりだったんですもん……ちょっと予定外のことが起きただけで……」

 でも、ありがとうございます。小さく付け加えて、歩き出した花宮の隣につく。この年齢の女子としては平均程度の身長だろうが、花宮からすればなかなか低い。ちょうど手を置きたい位置にある。欲求に逆らわずフードを視界へ押し込むように被せると、なんですか、と不満そうな声が上がった。小さい女だ。小さくて、馬鹿な。
 言葉は断片的なものでしかなかったが、名前のいった『予定外のこと』には察しが着いた。――バイトだって、楽しかったのに、やっと一人になれたと思ったのに、さつきが、黒子くんはどうして、言わないでって言ったのに、なんで皆まで、友達でもないのに、さつきを心配して、大ちゃん、皆で来る必要なんて、キセキの同窓会に私を入れる必要なんて、さつきが、さつきが多分望んだから、でも、でも、なっちゃんにも、何も言わずに逃げて、私は。ぼろぼろ零れ落ちた言葉は誰かに訴えるためというよりも、名前自身を落ち着かせるためのものだったと、花宮は理解している。名前はおそらく、根本的に他人を求めていない――求めるという発想がそもそも無いに近い。それもおそらく、双子の姉に起因している。みんなさつきが好きだから。みんなさつきを許すから。さつきを許せなくなってしまったら、誰も私を許さない。そうして拒絶を恐れるあまり、求めることを忘れた女。

「馬鹿だな」
「なんですか唐突に。花宮さんに比べたらたいていの人は馬鹿でしょう」
「そこは否定しねーが」
「……私、花宮さんのそういうとこ結構好きですけどね」
「バァカ」
「なんで!」

 自分が抱いた悪意で傷ついている馬鹿な女。無視もできず誤魔化すこともできず、生真面目に向き合って自分の腹に収めている。こいつの所持している悪意はきっと、柄のない刃そのものの形をしているに違いないと花宮は思った。強く握るほど持ち主を傷つけて、理不尽と理解しているからこそ、その切先を双子の姉に向けることもできないで。
 誰かに知られるくらいならと、一人もがき苦しむことを選び続けてきた。それを慈愛と呼ぶのか見栄と呼ぶのか意地と呼ぶのかは、人によって違うところだろう。花宮は、臆病と呼ぶ。

「お前」
「はい」
「最初の試合のときのこと、『さつきさえ居れば』って言ってたけどよ、なめんな」
「はい?」
「監督補佐の一人くらい、居たって居なくたって変わんねーんだよ。あん時はむしろ『怪我してたまるか』っていう部員のメンタルが厄介だった」

 負けるものか、怪我するものか、――これ以上、気負わせたりするものか。妙な気迫の正体に気付いたのは、試合が終わって名前を迎えに来た桜井と顔を合わせてからだったが。不可解そうに見上げる一年生レギュラーの顔に、ふっと思わず笑みが漏れたのを覚えている。何も把握していないくせに視線に混ざっている敵意。この程度の女に何をそこまで必死になってんだ、と微笑ましいような気持ちで踏み壊したくなったのを覚えている。正式なマネージャーではないようだし、そこまで手をかける暇もないというのが結論ではあったが。
 ……そうしてふと、自分の現状に気付く。熱中症らしいのを助けたのを発端に妙な関連でずるずる繋がって、今はわざわざ三時間も費やして愚痴を吐かせ、家へ送り届けようとしている。特に面白いことがあるわけでもない、馬鹿な女のために。別にお節介を焼いている意識は無いが、純粋に何やってんだ俺。思い浮かんだ疑問は、隣で見上げる小さな女の視線でゆるりと溶けた。まあいい、成り行きだ。出来は悪くないのにある一点でどうにも思考の足りていない女が、気付いてからはどう動くのか見たい気はする。それに何に対しても、こいつの反応は悪くない。あの試合で堪え切れずに笑っている姿を見たときの、呆れのような感心のような奇妙な興味は続いている。かわいい、気もする。こんなことは絶対に口には出せないが。
 顔を上げさせて、視線がかち合う。大泣きした後の顔は疲れてはいたが、会った時よりもずっとマシな状態だ。

「お前の姉を大好きなのも過大評価してんのも全部許そうとしてんのも、周囲じゃなくてお前自身だ」
「……え」
「気付け」
「……」

 混乱を映した黒い瞳が揺れる。慌てながら、忙しなく、整理のために動き始める。態度も露骨だし顔にも出る女だ。これでどうして周囲は気付かない。
 ぽん、と背中を叩いて混乱はひとまずそこで納めたあたりで、桃井という表札のかかっている家の前に着く。話合わせろよ、という言葉を最後に、優等生の顔を引き出した。


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2014.08.05