涙の後にやってきたのは強烈な吐き気だった。トイレに駆け込んで胃の中のものをすべて出して、壁についた腕がひどく震えているのを自覚する。胃液に焼かれて掠れる喉で咳をすると止まったはずの涙がまた一滴二滴、ぽたぽたと落ちた。
 ……飲食店で、これはまずい。すぐに流して換気して、証拠隠滅を図る。口をゆすぐついでに顔を洗うと、鏡には死んだような顔色の女が映っていた。

「……『ブス』」

 顔中の筋肉が弛緩しているのがわかる。恨みがましささえ失った、ただ暗い目。赤く腫れた瞼を冷やそうと再び顔を洗いながら、成程これは醜い顔の代名詞にもなるな、と不思議に納得した気分でいた。朝はこんな顔ではなかったと思うけれど、同じ人間でも随分違って見えるものだ。あの人は、こういうことが言いたかったのだろうか。

(……疲れた)

 からっぽになって立ち上がり、溜息をつく。鏡の中の女は依然として死んだような顔をしている。
 少し前までの感情の濁流が嘘のように、今は何も感じてはいなかった。悲しくはない、怒ってもいない。おかしい、わけもない。ただひたすらに虚しくて、疲弊している。
 普段はあまり使わない、荷物運搬用の裏口から店を出て、少し歩いてから振り返った。席の八割ほどが埋まっている店内、暗くなり始めた外にこぼれるオレンジ色の光。年を越えたばかりの気温の中で一層あたたかそうに見えるその中で、笑い合っている顔がある。遠目にもよくわかる色鮮やかな集団、その中心にいる女の子。眩しいように見えるのは、照明のせいだけではないだろう。
 俯いて足元を見ると意外なほどに暗かった。冬の太陽は沈むのが早く、見下ろす身体はもう何色なのかもわからない。

「……」

 心がぴくりとも動かないのを不思議に感じながら、店に背を向けた。吐き出した息は白く、今着ている上着ではこの夜を越えるには心許ないとわかっていたが、それでも帰路につく気にはなれない。行先も定められないまま歩き出す。風邪をひくかもしれないな、今度は本当に。少し可笑しいような気はしたけれど、依然として顔は動かなかった。

(……何を、したかったんだっけなぁ……)

 あてもなく、人混みに紛れたくて比較的大きな駅に辿り着く。駅名の表示や光り輝く看板を見上げながらも、それらに近付く気になれなくて植え込みのレンガに座った。待ち合わせだろう、同じような人達が各々抱えている携帯機器に顔を伏せている。たくさん人がいるのに、誰もいないみたいだ。どうしてか、ひどく心が落ち着いた。揃えた膝に視線を落とし、少し眠いな、と思う。マッチ売りの少女は冬に屋外で眠って凍死した。この気温では風邪が精々だろうなあ。波音に似たざわめきを聞きながら思う。
 何が、欲しかったんだっけ。ここまで必死になって、逃げて、逃げられなくて。結果として無駄だったというのに、何をそこまで必死に求めていたのか。
 ――何が欲しかったん? それはたぶん、あくまでも手段やろ?
 あの問いの答えはさつきだと思った。さつきを許して受け入れたい、それは本当だ。だけどそれも、手段のうちだったのかもしれない。作り笑顔や嘘やバイトも同じように、手段だったのかもしれない。私、は、本当は、なにが。

「……」

 ただ。ただ好きなことがやりたかっただけで、ただ解放されたかっただけで。
 ただ…………

 緩く瞬きを繰り返していた視界に、缶がひとつ入り込む。最初は幻覚だと思ったそれは、暗い口を開けて私に差し出されていた。やっぱり幻覚、かなあ。マッチ売りの少女の例えも外れてはいなかったみたいだ。触れると、缶を差し出す形で掴んでいた手が離れていく。考えるのも億劫で、熱くはないそれを一気に呷った。

「……口が開いてる缶に手ェつけるかフツー。毒でも入ってたらどうすんだ」
「……花宮さん。ごちそうさまです」
「ごちそうさまですじゃねーよ。毒でも入ってたらどうすんだって聞いてんだよ」

 自分から出しておいて理不尽な。呷った勢いで上げたままの視界には、上機嫌とは言い難い顔があった。ぼんやりそれを見上げたまま、言われたことの意味を考える。食道が、ゆるゆるとあたたかくなっていくのを感じた。

「毒、だったら」
「ああ」
「……ラッキー」
「ああ?」
「……だなって、今、考えて思いました」

 マッチ売りの少女。擦ったマッチの光にごちそうを見て、あたたかい部屋を見て、最後になんだっけ、おばあちゃんに会うんだっけ。会いたい人に会って、もう離れないと誓うんだっけ。
 変な顔をしていた花宮さんが、大きく溜息をついて暗い色のマフラーを外す。それをぐっと、首を絞められてるのかと思うくらい強く私に巻きつけて、腕を取った。強引に立たされて、転びかけるのを支えられる。冷て、と小さく呟く声がする。

「花宮、さん?」
「へこんでるときに身体冷やすバカがあるか。来い」
「……、」
「来いっつってんだよ」

 強く引っ張られて、根を張っていたようだった足がその場から動き出す。手近な居酒屋の戸を開けて一瞬ビクッとした私に気付いたのか、酒さえ飲まなきゃ入ったっていいんだよ、とまた腕を引いて中へ入った。

「女なんだから自覚しろ」
「……何がですか?」
「あんま自暴自棄になんな。毒ならまだしも、死んだほうがマシな目なんて幾らでもあんだろ。若い女は特に」
「…………」

 半分個室タイプになっている席へ追いやられて、脱いだ上着をかぶせられる。無抵抗でぼうっとしていると、憮然とした顔で肩にかけられた。
 ……もしかして暖めようとしてくれているのか。聞くと否定されるような気がして、ただ俯いた。頭の上では慣れた様子で注文をする声が飛び交って、気付いたときにはホットのウーロン茶が置かれていた。

「花宮、さん」
「なんだよ」
「……あの、……なんで……連れてきて、くれたんですか」

 直接会って話すのは、これで四度目だったと思う。対戦した日と、タオルを返した日と、マジバで会った日。私はともかく、彼が私を気にかける理由はないはずだ。
 予想はしていたけれど苦々しい顔でしばらく睨んできた花宮さんは、お前こそ、と吐き捨てるように言った。

「お前こそ、なんで会うたび死にそうな顔してんだよ」
「…… なん」

 なんで。

「気になんだろうが」
「……だっ て」
「あ?」
「だって、……なんで、そんなの、」

 今まで誰も気付かなかったのに。

「っなんで、そんなの、わかるんですか……っ」
「……」

 答えはなかった。花宮さんがどんな顔をしているのかもわからなかった。俯いた視界で、枯れたと思った涙がぼろぼろ零れ落ちていく。ただ下を向いて耐えていると、隣から肩にかけた上着のフードを被せられた。そのまま肩を抱かれて、彼氏に甘える彼女みたいな寄り添い方をする。時折背中をさする手が、初めて会った時を思い起こさせる。

「お待たせいたしましたー」
「どうも」

 店員さんだろう、男の人の声が何かを置いて去っていく。腰程度の高さしかない扉を閉める音が聞こえて、もしかしてこれを予想したから半個室タイプの居酒屋を選んでくれたのだろうかと考える。見慣れない色と、知らないにおいの上着にあたためられて何かが緩む。涙が、止められない。
 飲み物ふたつと料理の皿をひとつ、しかも殆ど手をつけていない。泣き止むにはそれらがすっかり冷めてしまうまでの時間が必要で、花宮さんはその間ずっと肩に抱き寄せながらも顔を見ないでいてくれた。



 泣きすぎて朦朧とした頭で口にした言葉は、多分整理されていなかっただろうと思う。
 わかってる、さつきは悪くない、私がクズなんです。さつきにもあの人達にも悪気がなくて、そういうのを装ってるとかじゃなくて本当の本気の善意で、優しいんです。それを素直に受け取れなかったり迷惑に感じたり他の部分が気になってしまう私が、ただ、くずで。間違ってるってわかってるのに、怒っちゃダメだってわかってるのに、私は私の性格が悪いのを治せなくて、それが嫌で怖くて隠していて疲れて。みんなさつきが好きだから、私も好きじゃないと。そんなようなことを延々とつらつらと話し続けて、おそらくは具体的な例さえ出していない。幼いころのことも最近のことも本当に些細なことも大きなことも、時系列もばらばらに、垂れ流すような形で喋り続けた。話しながらまた泣き出したりもしたから、聞き取れない部分も多くあっただろう。愚痴にさえならないような気持ちを吐露する間、肩に回る腕がたまに撫でたり、人の気配を察してか顔を肩につけさせる形で寄せたりする。
 そうして口から何も出なくなったころ、ぬるくなったウーロン茶を差し出された。

「……」

 受け取って、大人しく飲む。からからの喉にじわりと染みて、暖房の効果なのか話し続けたせいなのか、初めて喉が渇いていたことを自覚する。顔を上げると、真っ赤だな、と呟いて今度はウエットタイプの紙ナプキンを渡された。

「善意の悪人が一番タチ悪ィ」
「……」
「お前が言うように家族って条件だけで全てが正義で理想どおりなら、世の中に犯罪は起きてねーだろ。毒親だとか優しい虐待って言葉も生まれてねーだろうな」
「…………」
「……責められたかった、みたいな顔すんな」

 渡された紙ナプキンをそのまま持っていると、それを取り上げられて袋が破られ、濡れた紙を目元に押し付けられる。なんだか随分、世話を焼かれているみたいだ、と今になって思った。そういえば本当に、なんで連れてきてくれたんだろう。なんでこんなに世話を焼いて、優しくしてくれているんだろう。一瞬不思議に思ったけれど、大きくて少し冷たいような手があまりに心地よくて、どうでもよくなってしまった。

「そうだお前が悪い、謝られても許さないお前の心が狭いのが悪い、とでも言うと思ったかバァカ。家族だろうが他人だろうが上手くいく奴は上手くいくし、気に入らない奴は気に入らないんだよ」
「……」

 怒っているのか冷静でいるのか、判断のつきにくい、あまり愛想のない声。これが素だとしたら好青年モードの時のやわらかい話し方は随分気を使っているに違いない、と少し思う。そういえば、私もそうだった。

「つーか話聞いてたらお前それ面倒事押し付けられてきただけじゃねーか。いたなーそういう、面倒見がいいばっかりに問題児の監視役を割り当てられる奴」
「……花宮さん」
「なんだよ」
「私、クズなんですけど」
「ふうん」
「……いいんですかね」
「随分基準厳しいけど、いーんじゃねーの。色んな奴がいんだろ。胸糞悪ィいい子ちゃんも、クズも、善意があればすべて許されると思ってる馬鹿も、俺みたいなのも。それでも着いてくる奴は居る」

 その言葉に、霧崎第一の試合を思い出した。彼のチームメイト達を思い出した。話すと案外普通で、人によっては優しい雰囲気さえある。古橋さんは案外話しやすかった。美しいまでのパス、連携の取れた綿密なラフプレー。特徴的な、だけど確かにチームプレイと呼べるものだった。
 下衆だと罵られながら笑っていた人達。味方がひとりもいなくても、堂々と立っていた人達。
 ――羨ましそうな顔だと言われた。後で気付いたけれど、本当に、羨ましかった。

「おい」
「はい」
「なんでまた泣く」
「すみません」
「謝んな。泣いたんなら水分補え、メシも食え」
「……ありがとう、ございます、」
「それでいい」

 コップをぐいぐい押し付けられて受け取ると、店員さんを呼び止めて注文する声がする。泣き続けているためだろう、顔を肩にぐっと押し付けられて、なんだか慣れてしまった花宮さんのにおいに落ち着いている自分に気付いた。泣いてしまったためだろうか、散々色々、十数年抱え続けた鬱憤を吐き出したせいだろうか、とても穏やかな気持ちでいる。ウーロン茶を喉に通すと、そういえば胃が空っぽなことに気付いた。おなかがすいた、かもしれない。

「花宮さん」
「なに」
「……おなかすきました」
「すぐ来るから待ってろ」

 なんとなく言ってみたら、褒めるように頭を撫でられて若干困惑する。このひとが優しいのはなんでだろう。誰も気付かなかったはずの作り笑顔を、わかってくれるのは、なんでだろう。

「――、」

 嘘をつきながらずっと苦しかった。
 嘘を本当にしようとしたらもっと苦しくなった。
 私の本性を、クズを、許してくれる人なんて、どこにも居ないと思っていた。
 ……ああそうか、これが、欲しかったのか。作り笑顔も嘘もバイトも、さつきを受け入れようとしたことも、平和な日々が欲しくてずっと。そうか、本当に手段を間違えてたんだ。私はまず、何より先に自分を許して受け入れなくちゃいけなかった。

「それ以上考えるのは腹満たしてあったまって寝てからにしとけ、疲れてるとロクなことしねえ」
「……ふ」
「あんだよ」
「いえ、ありがとうございます。元気、出ました」
「……そうかよ」

 マッチの火に見る美しい幻想に例えるには、ちょっと現実的すぎる人かもしれないなあ。むしろこの人が居たから死なずに済んだ感じだ。運ばれてきた熱いリゾットを食べて、じわじわ胃袋が反応する。帰った先に何があっても、きっとこれだけは絶対吐かない。


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2014.07.31