「……っていうかね、私がいても困らせるだけだと思うんだ。さつきはともかく私とか存在忘れられてるんじゃない?」
「何言ってんの、そんなことないよ」
「いやあホラせっかく仲直りしたんだし水入らずで楽しんでおいでよ、部外者入れるのよくないって。私マジで元レギュラーの皆さんとは全然仲良くないしさ、大ちゃんとはいつでも会えるし」
「名前は部外者なんかじゃないってば」
「部外者だってば。元マネったって二軍三軍のマネだし。会ったところで話すこともないし」

 身支度も終えて靴も履いて、玄関先に突っ立ったまま話す。その声がうんざりしているのが自分でもよくわかった。言い合いを聞きつけた両親が、せめて居間でやりなさい、と声をかけてきたけれど私はドアノブを手放したくない。名前。怒った声色のさつきにも、ただ首を振ることで答える。今回の件は全面的に私が悪いし、こんなところで言い合っていたら外に聞こえてしまう。ご近所さんにも何かと思われるだろう。それでも今このタイミングを逃せば、ずるずると引きずられる形でさつきのお願い事――キセキの皆と遊ぶ、を聞くはめになるのだろうと解っていた。
 当然といえば当然なのか、熱を出したフリは長くは続かなかった。そもそも中学時代は私なんかいてもいなくても全く意に介していなかったさつきが、どうして今回に限ってこんなに意固地になっているのか解らない。
 仕方ない、早めに家を出て携帯の電源も切っておいてすっぽかそう。そう何度もあるとは思わないけれど、こういうことを繰り返していけば誘われることもなくなるだろう。ドタキャン、というか土壇場でなくとも断りを入れているのに受け入れてもらえない状況だが、とにかく失礼なことをする勇気も必要だ。という計画は、身支度を終えて玄関先に立った時点で声をかけられて頓挫した。さつきは着替えていないパジャマ姿のまま、髪をとかした形跡すらない。そりゃそうだ。休日の、朝の七時だ。お店だってまだ殆ど開いてない。

「……とにかく私は行かない。ごめんだけど、用事があるから絶対行けない」
「だからその用事は何って聞いてるのに!」
「ごめんねさつき! 行ってきます!」
「名前!!」

 後々面倒なことになるとわかりきってはいたけれど、言い逃げるようにして家を出る。これ帰ったら確実に説教コースだ。それでもあの連中の中に放り込まれるより遥かにマシだ。中学時代のある一日、何の間違いなのかレギュラー陣に混じって外出した日を思い出してぞっとする。思い出したくもないのにくっきりはっきり覚えている自分が嫌になるほどだ。
 住宅街の十字路を曲がって、ようやく足を止めた。軽くとはいえ走ったので、息が少し上がっている。白く煙っては晴れていく視界に、何をしているんだ、と呆れた気持ちが去来した。ここまで必死に逃げて意味はあるのか、ばかか。ちょっと自意識過剰なんじゃないの。自分でもそう感じるのだからさつきはもっとそう感じているだろうし、彼らも聞いたとしたらそう思うことだろう。

 ――居ても居なくても大差ないっつーの。

 あ、まずい。
 いつかどこかで聞いた言葉が再生されて、首を振る。早いうちに振り切らないと延々リピートすることになる。気分を変えようと手近なコンビニに入り、用もない商品棚を物色しながら、この後バイト開始時間までどうやって暇をつぶそうか考え始めた。



「あ、桃井さん。ポテト俺やるから大丈夫だよ、レジ行っといて」
「え」

 無事バイトが始まり、福袋商戦も落ち着いた頃合。都内の住宅地より少し離れた場所にあるマジバは、それほど忙しくもなくなっていた。年末年始で遊ぶ場所に困った学生達の避難場所になりつつある店内は、ゆったり、というよりもだらけた空気が漂っている。必然的に暇なレジを離れ、比較的注文のあるポテトを作っておくかと思った矢先、フライヤーに使う網をキッチン担当の男子に取り上げられた。

「でもレジ暇で」
「だけど桃井さん、こないだ勢いよくやりすぎて油跳んだっしょ」
「……ごめんなさい」
「怒ってんじゃないよ。ただ女の子なんだし、火傷は気をつけないと」
「……」
「忙しいときはそうも言ってらんないけどね。とにかく今は大丈夫」

 ほら、レジ。
 そう付け加えて背中を押した手が優しくて、本気で心配されてそう言われたのだと解る。もう一度、今度はごめんではなくありがとうと言ってからレジへ戻った。掃除を終えて戻ってきたなっちゃんが、不思議そうに首をかしげる。なんかあったの? 何気ない問いに、首を振るだけで答えた。
 力加減の下手さは、周囲に心配をかけるレベルになって久しい。大失敗をする前にどうにかしないと、と思うものの、どう対処していいやら解らない。受け入れないから暴走するんだ。お互いのことをほとんど何も知らないはずなのに、毎回なぜか痛いところを突いていく人の言葉を思い出す。受け入れないから、っていったって、何を。さつきのことなら、さつきへの嫉妬どうこうの話なら、今も努力の真っ最中だ。これ以上どうしようもない。それとも、間違えてでも、いるというのか。

「……」
「ねー名前、なんか疲れてない?」
「え、……あーうん、そうなのかな?」
「ま、あんまりヒマでもどうしていいのかわかんないよね」

 最後の言葉だけは少し小さめに、店内を見回しながら呟く。ひとりでも誰かと一緒でも、スマホや小型のゲーム機や参考書類に顔を伏せている人達が一番多い。騒がしくないだけよしとするべきか。

「今日、さあ」
「うん?」

 誰もがこちらに関心を向けず、自分の世界に没頭している。それが目でも空気でもよく解ったからだろうか、朝からの騒動でよほど疲れていたのだろうか。これまで一切、話したことのなかったことを、口にしていた。

「同窓会、みたいなものがあってさ。逃げてきちゃったんだよね」
「なに、出たくないってこと?」
「出たくないっていうか……まあ出たくないかな。ていうかどうして誘われたのかもわからない集まりで」

 多分さつきが『名前も連れてきていい?』とか聞いたんだろうけれども、誰か断れよ。さつきと大ちゃんに遠慮したのかもしれないけど、呼ばれても困るんじゃないのくらい言えよ。それとも話が出たその場に穏健派しかいなかったのか。黄瀬くんあたりがいればさらりと拒否ってくれただろうになあ、タイミング悪かったのかね。紫原くんはその場に居なかったか、居たとしたらウインターカップ直前の仲直りらしきものを考えて遠慮してくれたのかもしれない、余計なお世話だ。

「仲いい子とかは参加してなくてさ、顔と名前だけ知ってる連中のとこに放り込まれる感がすごくて」
「あー、部員の数多かったんだっけ?」
「入ったり辞めたりが年中あったけど、いつも百人は切らなかったかなー」
「うわあ、一学年レベルじゃん。そりゃ親しくないのもいるわ」
「でしょー。……それでもまあ、知り合えば仲良くなれるかもっていうのも、わかるんだけどねー……」

 彼らの大半を嫌いではない。なんたって好き嫌いを判断するほど親しくないのだ。そして付き合ってみれば、おそらく悪い人達でもないだろう。これはどうせ先入観と偏見だと自分でも知っている。さつきへの、もしかしたらキセキと呼ばれる人達に対しても、嫉妬と愛情をこじらせた、なにかよくないものだと、解っている。受け入れたい、克服したい。その気持ちは嘘じゃないはずなのに。

「……自分でも、よくわからないんだ。何がこんなに嫌なのか」

 ただ、あの人達と居ると、さつきの笑顔が気持ち悪い。そんなこと思っちゃいけないのに、違和感を拭えない。さつきだけでなく、キセキの連中もなんなんだ、中学時代にはそんなこと全然なかったのに、離れた今になって接点を持とうとするのは何故なのか。わからなくて、不思議で、……気持ち悪い。

「ていうかマジで誘われた理由がわからない」
「あんた優しいし愛想いいからムードメーカーにされてんじゃない? ちょっと扱いにくい奴が居てもこいつと組み合わせときゃなんとかなる、みたいな人っているじゃん」
「あー……でもマジで接点なかったんだけどなーあの人達……」
「それか参加者の誰かに片思いされてて、同窓会きっかけにラブストーリー狙いとか!」
「やだロマンチック! 少女マンガみたい! あ、少女マンガといえば読んでたマンガが映画化することになってさー」
「最近の? 知ってるかも。ああいうのってキャストがハマればいいけどイメージ違っちゃうとねー」

 答えの出ない愚痴を打ち切って、最近よく見る俳優や女優、彼らの出演する映画、主題歌を歌うアーティストへと話を転げる。話題があからさまに変わったのはわかっただろうに、なっちゃんは笑ってそれを受け入れてくれた。
 お客さんの邪魔にならない程度、店長に叱られない程度、に声を潜めてお喋りして、時折くすくす笑う。たまにキッチンで暇をもてあました人が表に出てきて、それに混じる。そういえば桃井さん、こないだの彼氏とはどうだったん。 えっ名前、彼氏って!? 火神く……赤毛チーズさんのことだよ、そんなんじゃないってば。 なんだあの人かあ。でもそろそろ進展してもいいよねーあの人とは。 なっちゃんまで。 多少からかわれながらも、穏やかでゆったりした時間を過ごす。
 お昼は大分過ぎて、けれど夕方より手前。客足は依然として多くなく、学生客は帰り始めるものもいる。他愛ないお喋りとのんびりした仕事、新しく落としたコーヒーのにおい。あと少しでバイトも終わる。朝、双子の姉の追及から逃げた罪悪感は残りつつも、気分は完全に緩みきっていた。

「! 名前っ」
「え、なに? あ、火神……く …… 」

 ちょうどレジではなくキッチンに向かって補充作業をしていた最中、脇をつつかれて振り返る。
 そこに予想した人と、それ以外の影を見た瞬間、どっ、と肋骨の中で心臓が暴れた。

「……名前、どうして何も言ってくれなかったの」

 見慣れた長身の影からぴょこっと飛び出して、レジの前で可愛らしく頬を膨らませている、姉。鼓動で耳が痺れた。わらわらと、見覚えのある色彩が視界に雪崩れ込んでくる。
 なんで。そんな。なんで。

「……名前?」

 不思議そうに隣から顔を覗き込まれる。なっちゃんの声だ。心配してくれている。それはわかったのに、反応するより先に真向かいにある顔がにっこりと微笑んだ。

「いつも妹がお世話になってます! 桃井名前の姉の、桃井さつきっていいます!」

 どくどくと血の流れる音が聞こえる。何か言いたいと思うのに、口から何も出てこない。営業用スマイルを貼り付けていたなっちゃんが、安心したように笑うのを見た。やめて、違うの。何が、かもわからないのに、その言葉だけが頭を占める。

「いえこちらこそ! 桃井さん、すごいしっかりしてるから頼りになるんですよー。あ、俺は田淵正彦です!」
「ちょっと田淵、さっきキッチンに引っ込んでたじゃん! 藤井奈津美です、桃井さんと同じ高一でーす」

 とてもとても幼いころ、たくさんの背中を見つめながら立ち尽くしていた記憶が甦る。さつきちゃん、優しいね。名前ちゃんのこと大好きなんだね。よかったね。優しいお姉さんでいいなあ。あの声は、友達だったか、教師だったか。俯いた足元には何もなくて、けれどその場にしゃがみ込んでしまえば泣いてしまいそうで、ただじっと地面を睨んでいた。汚れた靴と、砂場の色。

「桃井さん何で教えてくんなかったんだよーお姉さんスゲエ美人じゃん!」
「田淵みたいなのが出るからじゃないのー」
「ひっで!」
「でも名前、お姉さんいたんだねー。歳近そうに見えるけど、一個違いとかですか?」

 名前ちゃん、私達より、さつきちゃんと居てあげたほうがいいんじゃないかなあ。ほら、寂しそうだよ。ううん、私達は大丈夫だよ。教えてくれてありがとうね。ごめんね。もう平気だから。ほら、さつきちゃんが呼んでるよ。遠慮がちな笑顔、やわらかな拒絶。名前。後ろから繋がれる、細く小さな手と甘いにおい。そうすることが当然のように、腕に絡み付いて、唐突に離れていく。

「双子なの」
「似てねえ!」
「あはは、よく言われる」

 中学時代、体育館裏で聞いた会話。桃井という双子の噂話。たまには姉妹入れ替わって仕事してくんねーかなあ。悪気の無い願望。会いたきゃ一軍来いって話なんじゃねえのー。罪のない笑い話。偶然それを聞いたらしいさつきの声が続いた。――私ももっと働きたいから、是非がんばってくださいねっ。眩しいほどの笑顔。一軍、特にレギュラーの傍にだけいる、トロフィーのようなヒロイン。僅かながらに築いていた信頼関係の崩れる音。

 やめて、と口を動かしたと思ったけれど、声は出なかった。

「藤井さんも田淵くんも面白くっていい人で、いいなあ名前ー。私もここでバイトしよーかなあ」
「是非! 大歓迎です!」
「バカさつき、お前は部活あんだろ」
「えー」

 やめてやめてやめて
 ここまできたのに、ようやく、ここまで来たのに。
 カウンターを挟んで笑い合う三人の姿に呆然として、ほぼ無意識に一歩退く。全身が熱くて、鼓動が激しくて、それに呼応するように両腕がひどく震えているのが見えた。

「桃井さん」
「――黒子、く……」

 どうし、て。
 さつきの前から退いた先に待っていたのは、視界の端に見た色とりどりの色彩だった。その一番前に、彼がいる。私がどんな顔をしていたのか、その表情をどう受け取ったのか、いつもあまり感情の見えない顔がやわらかく微笑む。安心させるように。どこか儚く優しそうな、善人そのものの笑顔を私に向ける。

「いきなり、こんなことになってしまってすみません。……大丈夫です、桃井さんはちゃんと、受け入れてくれますよ。だからあなたも受け入れてあげてください」

 何の話をしているんだ。私は何を求められているんだ。これ以上、なにを、差し出せっていうんだ。
 彼の言葉に、こめかみが痛いほど熱を帯びた。首の後ろから背中にかけて、神経がざわりと逆立つ。痛い。熱い。心臓が暴れ続けている。
 ここまできたのに。ここまできて。家族ごっこを強要される、のか。

「……何が不安なのかはわかんねーけど、言いたいことはちゃんと言ったほうがいいぞ」
「か がみ くん」

 喉が引きつって声もまともに出ない。私の呼んだ声が聞こえていたのか、いなかったのか、それすら解らない。力強い炎のような目は、隣で談笑する四人に向けられていた。

「お前の姉ちゃんいい奴だし、可愛いじゃん。家族なんだし大事にしてやれよ」
「」

 煩いほど全身を駆け巡っていた血が、一瞬にして引いたのがわかった。足元に落ちて温度をなくす、それがありありと感じられる。
 ああ、もう、――むりだ。
 世界がぼろぼろ崩れ落ちる。足の下に地面が残っているのが不思議なくらい、唐突に、徹底的に、それは起きた。

「田淵ってばいっつもそうなんだからさぁ、ねぇ名前……え、ちょ、何! どうしたの!?」

 肩をぐっと押されて身体が揺れる、切り替わった視界になっちゃんの色がぼやける。なんでもない、反射的にそう答えようとして、口から出たのはしゃくりあげる音だけだった。途端に、周囲のざわめきが耳に入ってくる。ああまずい、仕事中なのに。思ったことはそれだけだった。

「ひ、人が見てないうちに何したのよ赤毛チーズ!」
「赤、えっ!?」
「誤解です、今のは」
「名前!!」

 カウンターに乗り上げる勢いで上半身を引っ張られる。肩を掴んでいた手が乱暴に外されたと思ったときには、視界は桃色に染まっていた。震える細い肩を覆う長い髪。さつき。

「大丈夫だよ、私名前のこと大好きだよ、だから何も心配しなくっていいよ!」

 泣いているのだろうか、涙声で、それでも可愛らしく優しい声。僅かに上げた視界に、見知らぬお客さんがこちらを見ているのが映った。不安と興味を半々にまぜたような表情が、やがて呆れたような、微笑ましいものを見るようなものに変わる。
 よかったですね。くだんねー。とか言いながら桃っちが爆発すんじゃないかって一番心配してたの青峰っちじゃないっすか。黙れ。そんなことより席へ移動するのだよ、あまりレジ前に留まるのは迷惑になる。店員サンが泣いてる時点で既にってカンジだけどねー。ところでこういう店では名前が料理をしてくれるのかな。前も思ったけど赤ちんいつからアイツ名前で呼ぶようになったの。じゃあ桃井さん、待ってますから。火神くんも行きましょう、話は後でもできます。お、おう。ふうやれやれ、めでたしめでたし。そんな声が聞こえてきそうな穏やかな会話が通り抜けていく。柔らかな胸に抱かれながら、それを感じる。
 誰かが笑う。これを幸福な光景と信じて誰もが。姉さえ笑っていれば大丈夫だと。姉さえ幸せそうにしていればこの姉妹は安泰だと、ごく自然に。
 ああ、――ああ。
 華奢なのに力強い両腕から解放され、定時を告げられてふらふらと更衣室に戻る、その背後に明るい声がかけられる。天使のような姉と、不器用ながらも優しい幼馴染が何を口にしたのか、聞いたはずなのにわからない。着替え始めてようやく自分が涙を流していることに気付いた名前は、声も出せずにしばらくその場に座り込んでいた。


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2014.07.29