三十七度八分。体温計を差し出した名前に、さつきは隠す様子もなく不満の声を上げた。

「名前ってばなんでこんな日に熱出すのおー! かがみん決勝だよ!?」
「……さつき、あんまり近寄るとさつきにまで感染するから……」
「ううー……」
「さつき、大ちゃん迎えに来てるわよ。ホラ名前、おかゆ」
「はあーい」
「ありがとーお母さん……」

 ぐったりダイニングテーブルに突っ伏している妹を恨みがましく睨みつつ、みんなが東京に集まる機会あんまり無いのに冬休みのうちに治してね約束ね、名前のぶんまで応援してくるからちゃんと寝ててね! と恨み言なのか慰めなのかわからないことをまくしたてて家を出て行く。玄関先で青峰となにやら話している声がリビングまで聞こえたものの、内容まではわからなかった。わざわざ耳をそばだてるほどの興味も名前にはない。

「じゃあ名前、お母さんたち出かけるけど大丈夫?」
「平気、悪化しても病院近いし……これ食べたら薬飲んで寝るよ」

 何かあったら電話するのよ。その声にもぐったりとした『はーい』を返して、玄関のドアが閉じられる音を聞く。途端にしゃんと背筋を伸ばして土鍋におかゆを一杯分平らげた時、ちょうど着信が入った。

「はーい、もしもーし。なっちゃん?」
『あ、名前ー? 店長が今日やっぱ出て欲しいだって。平気ー?』
「いいよー、午後ー?」
『二時くらいに入ってくれたらありがたいってさ』
「オッケー余裕余裕」
『しかし働くねー名前。クリスマスも出たんでしょ?』
「年末年始は時給上がるし」
『案外現実的な話が!』
「あはは、なっちゃんだって今日も出てんじゃん。じゃあそういうことで、店長に伝えといて」
『わかった、また午後にね』
「うん、またねー」

 先程までのぐったり具合はどこへいったのかという機敏さで動き、食器を片付け、テーブルの上に広げた紙にさらさらと『薬飲んだら元気になったのでウインターカップの会場に行ってきます』と書置きを残す。部屋へと立ち去りかけて、その場に置き忘れていた体温計をケースに戻した。口をつけていないお湯のマグカップ――母がキッチンに立ち、さつきがリビングへやってくるまで、体温計を突っ込まれていた――の中身を流して捨てながら、名前はふっと柔らかく微笑んだ。ネットで調べた体温計の温度偽装は実にうまくいった。
 さつきのお願い事は何だってかなえてあげたい、だけどやっぱりキセキの連中は避けたい。夜中になってようやくそう決断できた名前は、衝動の赴くまま仮病を使うことにした。キセキの連中だってヒマじゃないだろうし、さつきの言うとおり、この機を逃せば顔を合わせることもそうそうないだろう。

(バイト行って帰ってきて、まだ誰もいなかったらこの紙は捨てて、一日寝てたフリすればいいよねー)

 見落としている点はないか確認しながら身支度を始める。具合の悪いのを隠すならともかく仮病はあまり経験がなかったが、まあまあ上手くいったらしいことに上機嫌でさえいた。ひとまず危機は脱した、先のことはまたそのときに考えればいい。
 最近あった震えや力加減の下手さも運良く出ないでいてくれて、名前はその日大いに働いた。むしろこれまでで一番調子が良いのではないかというくらいスムーズに仕事を進め、店長に時間の延長を頼まれても快く引き受けて、一向に絶えない客をさばく。彼の来訪は、随分遅くになってからのことだった。

「……忙しそーだな」
「火神くん。いらっしゃいませ!」

 名前だけは小声で呼んで笑顔を向けると、これ頼む、と複数の筆跡で書かれたメモを渡される。随分な量と種類だ、と思いながらオーダーだけ通して確認しながらレジを打っていると、彼がそわそわと落ち着かない様子でいるのに気付いた。

「……?」
「あの、……えっと」
「ポテトお願いしまーす!」
「はーい! ごめん火神くん、後で」
「お、おう」

 キッチンが忙しすぎてレジにも一部仕事が回ってきている。フライヤーのポテトを上げ、油の中に新しい芋を入れてタイマーを押すと同時に箱詰めを始める。今日一日だけでこの仕事にもだいぶ慣れた。レジ前でやはりそわそわしている彼に視線をやると、同じく気になっていたらしいキッチン担当から『彼氏?』と尋ねられた。

「いや友達」
「ってかアレ、春くらいにナンパしてきた人じゃん。続いてんだ」
「付き合ってないって」
「はいはい。店長ー、桃井さん休憩入れまーす」
「え」
「はーい」
「ちょ、」
「桃井さん残業してるのに休憩とってないっしょ。ていうか残業前の休憩も取ってなかったし、ついでに行っといで」
「……うちの店は協力的な人ばっかで困るなー」
「日頃の行いじゃね? どっちにしろそろそろ交代だし、余計な世話だったら休憩室でメシ食うといいよ」
「……どうも、です」
「うは。桃井さんの照れ顔レア」
「うっさい」

 軽くからかわれながらも、数量分のポテトを手にレジまで戻る。確認しながら袋に詰め、手渡した。

「お待たせいたしましたー。……火神くん、ちょっとだけ外で待っててもらえる?」
「! お、おう……!」
「レジ替わりまーす」

 次の客と顔を合わせる前に素早く引っ込んで、制服の上にパーカーを羽織って見えないようにする。帽子は、一応外したほうが良いだろう。
 ホットコーヒーを二つ持って外へ出ると、火神は壁に寄りかかる形でそこに待っていた。

「火神くん」
「おう」
「ごめんね急に。これ私から、サービスって言ったら変だけど」
「お、おう。サンキュー」

 腕の上げ下げで大きなビニール袋がガサガサ鳴る。火神はしばらくコーヒーの水面を眺めていたが、やがて小さく『今日』と呟いた。

「?」
「今日。決勝戦、だったんだけどよ」
「あ、……うん」

 夏から続く高校生バスケットボールの試合。仮病を使って応援から逃げたその大会の話題を出され、ちょっと目を逸らしたい気分になりながらも名前は彼の言葉を待った。バスケには、正直なところ未だに興味がない。それは今、目の前にいる彼がやっていても依然として変わらず――けれど、やはり、勝って欲しいとは感じていた。仮にも自分の所属校が負けた相手でもあるし、ここまで進んだ選手達の中では一番応援したい相手だ。

「……勝った」
「……!」
「って、言いたく、て」
「お、おめでとう!! すごい! 日本一だ!!」

 思わず上ずった声もそのまま、叫ぶように言う。中学時代、日本一を三連続で経験していた名前だが、そのどれよりも嬉しいと断言できる勝利宣言だ。マネージャーもしていない、応援もしていない、全ての試合を見た当時よりもずっと、よほど、今目の前にいる男の子が勝ってくれた今日の方が。

「うわあ、なんかすごく嬉しい……! おめでとう火神くん! 本当によかったね!」
「……」
「火神くん?」
「……や、なんか、そんなに喜ばれると思ってなくて」

 照れているのか、困っているのか、視線を彷徨わせながらもあの素晴らしい発音で『サンキュ』と短く言う、その笑顔が本当に嬉しそうで幸せな気分になる。手を取って跳ねたいような気分だったが、彼の両手にはテイクアウトの大きな袋がふたつとコーヒーのカップがあって、名前の大声に周囲の視線が若干集まっていた。それに今更ながら気付き、小さく『ごめん』と呟くと今度はおかしそうに笑う。なんで謝んだよ、と、やわらかな声が降る。

「んで、俺んち集まって祝賀会してて、マジバ食いてーんで買ってきますっつったら、これ」
「なるほどパシリ。エースなのに」
「……や、手伝うとは言われたんだけど、よ」
「え」
「ひ、……人いたら、話せねーかなと、思って」
「……」

 もしや黒子くんを苦手なのがバレているんだろうか、と思うものの、視線を逸らした横顔が赤いのが寒さのせいでないのなら単純に恥ずかしかったのだろう。やや甘酸っぱい空気が流れているような気がして名前も少しばかり頬を染めた。彼氏か、と尋ねたバイト仲間の声を、心の内でもう一度否定する。そんなんじゃないですから。火神くんは友達で癒しで、うん、ちょっと気になる感じはあるけれども、そんなんじゃないですから。確かに前、なっちゃんと話しながら考えた恋愛相手の条件は満たしている気はするけれども――……
 あ、いや、さつきと親しいんだったわ火神くん。
 そして唐突に今日の自分が仮病を経てここに立っていることを思い出す。まずい。……いやウインターカップ会場に向かってたところを電話でバイトに急に呼び出されたことにすればいいか、うん。そのへん突っ込まれないのが何よりだけれども。

「そういえばよ」
「はい」
「お前と姉ちゃんはあんまりタイプ似てねーのな」
「…………」

 裂けては通れない道らしい。
 ひとまず笑顔を作りつつどう答えたものか考えていると、その顔をどう思ったのか『悪いイミじゃねーよ』と続いた。その言葉には、意識せず苦笑が漏れる。悪い意味じゃない、か。そうだろうとも。口にする人の大半には、悪気がないのだ。そして実際、悪気のあるなしは関係ない。

「さつきに、何か言われた?」
「前の試合の時に、少し話した」
「そっか」
「……姉ちゃんと、喧嘩でもしてんのか?」

 浮かれていたからだろうか。バイトで働いて、素が出ていたからだろうか。今の自分は繕うのが下手らしい。
 苦笑になってしまう顔をぐにぐにと弄りながら、そういうわけでもないんだけど、と軽く答えた。たいていの人はこれで、他愛ない姉妹喧嘩だろうと片付けてくれる。

「……俺にも、兄貴がいるんだ」
「え」
「血は繋がってねーんだけど。兄貴分っつーか」
「う、うん」
「そいつとはゴタゴタしてて、この前まで片付いてなかったんだけどよ。つか今もちゃんと話できてねーんだけど、多分どうにかなってて、つーか俺が悪かったんだけど、それがマジで、何年も続いてて、こないだの試合でやっと落ち着いて……だからあの、……なんつーか、誰だって、色々あるけど、でも大丈夫だろ、兄弟なんだから」
「……」

 どうやら慰められているらしい、と気付いて、思わず笑いが漏れる。まさか笑われるとは思っていなかったのだろう。なんだよ、と拗ねた声がして、それにまた笑えた。絶対に話しながら何を言いたかったのかよく解らなくなったパターンだ。

「ありがと、火神くん」
「……お、おう」
「あと、何より、おめでとうございます! 桐皇が負けたのはちょっと悔しいけど、誠凛が日本一になってくれてすごく嬉しいよ!」
「……おうっ!」

 それから少しだけ立ち話をして、休憩時間が終わったあたりで解散する。ごめん商品冷めたかも、と言うと、別にいい話せたし声かけたの俺だし、と返ってきて不覚にも若干ときめいた。レジへ戻った名前に、機嫌いーじゃんとからかう声が投げられたが、それにも笑って返事ができた。
 ――さつきを知っても、親しくなっても、火神くんは変わらないでいてくれるかもしれない。そういった意識が気持ちをとても楽にしてくれたことに気付いたのは、家に帰って風邪の偽装工作を引き続き行っている最中のことだった。
 期待しすぎてはいけない、と思う。信じたいとも思う。

(……いや、私だって別にさつきを嫌いなわけじゃなくて……ただ自分の嫉妬心をどうにかしたいって話で、素直になろうと頑張ってるところで……)

 あれ、じゃあそうすると何でキセキを避けてるんだっけ。面倒が多いからか。あ、いや、キセキを避けるのはやめてみようって思ったんだっけ? でもやっぱ関わりたくないんだよなーなんでだろう、バスケにはやっぱり興味がないからか。……バスケには興味ないけど火神くんの優勝は嬉しいっていうのは、矛盾かなあ……。でも色んなスポーツ見て思ったけど、私どうも競技そのものよりもプレイヤーに思い入れを持つ派みたいなんだよなあ……。
 どうにも自分が複雑すぎて溜息をつく。この心情が最近の調子の悪さに繋がっているのでは、と感じて自分の手を開いて目の前に掲げてみた。今は震えてはいない。

 ――色々あるけど、大丈夫だろ。兄弟なんだから。

 楽天的な台詞を思い返して、ふっと笑う。単純さが純粋に羨ましくて、眩しく感じられる。
 黒子くんは彼を光と称したらしい。ちょっと違う意味だけど、そうかもしれないなと思った。

「名前ただいまー! かがみん勝ったよー!」
「おかえりさつき」

 偽装工作が終わっていてよかった。興奮して話す姉に、うんうんと頷きながら心穏やかでいられる自分にほっとしていた。
 昨日の気持ち悪さは、きっと今日の決勝戦を控えていたからだ。そう考えれば整理がつく。もしくは火神くんとさつきのことが不安だったからだ、だけど安心していい、彼は姉妹だからって二人を比べる人ではないし同一視する人でもない。そこは無条件に信じていいはずだ。そのほかの恋愛うんぬんはまた別の問題だ。

「でね、お正月いっぱいは皆こっちに残ってるらしいから、一度くらい会おうねって!」
「え」
「名前も! それまでには治るよね風邪!」

 キセキを避けるのはやめてみて、ちょっと素直に接して、ちょっと親切にしてみよう。
 思い出したはずの決意をきれいに翻して、心の中では仮病を正月いっぱいまで続行する算段が始まった。

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2014.07.27