――次は、名前の話きかせてや。

 別れ際の言葉が耳を離れない。

 ――もうバスケ部の今吉先輩と違うから、ホントになんでも、聞かせてや。

 そう微笑んでいった先輩の真意は、なんだったんだろう。今日も自分の話ばっかりするつもりじゃなかったと、独り言のように口にした先輩は、本当は何を話すつもりだったんだろう。
 なんでも。……何でも、か。その言葉の意味を考えあぐねて、何も言えない。前に教室で慰められたときも思ったけれど、先輩はどうも私が隠し事をしていることに気付いているようだ。あれだけ聡い人相手に秘密っていうのも無理があるかぁ、と吐き出した溜息が白い。具体的には、きっとバレてはいないけれども。だってバレていたら、きっと、話しかけてももらえない。今吉先輩だったら、たぶん話くらいは最後まで聞いてくれるし、完全にさつき贔屓にもならず判断をしてくれるだろう。けれど正常な、本当に公平な判断の元だって、さつきが善人で私がクズなことには変わりないのだ。悪気のない、無邪気とさえ言えるお願い事や気遣いや優しさを、素直に受け入れられない私こそが悪いのだとわかっている。話したって、困らせる、だけだ。
 大丈夫、私は一人でも大丈夫。紫原くんに会うことはもう一生涯ないだろうし、他のキセキにしたってそうだ。大ちゃんだけは例外でも仕方ないし構わない。幼馴染だし、彼は私に興味がない時点で既に無害だ。たまに会ってしまったとしてもうまくやり過ごせる。さつきに対してだって、さつき一人だけが相手ならどうにかできないこともない。少し面倒くさいだけだ、少し何か削られていくような気分になるだけだ。さつきが笑っていてくれれば私は安全なんだ。安心なんだ。さつきの幸せが私の幸せだ、そのはずだ。大丈夫。私は平気。
 ――ぱき、と音を立てて、今日何本目かのシャーペンの芯が折れた。

「……」

 筆圧、そんな強かったっけな。ルーズリーフの汚れを消しゴムで落として、ペンを持ち直す。どうも最近は調子が悪くて、バイト中に心配されることもしばしばだ。仕事で失敗はしていないからいいようなものの、このままじゃ時間の問題だろう。
 ふとした瞬間、力加減がものすごく下手になる。ドアを開けるのに必要以上の力を入れてしまって派手な音を立てたり、臨時で使う紙エプロンを結ぶつもりが引っ張りすぎて裂いてしまったり。かと思えば震えて力が入らなくなって何も持てなくなったりする。
 手が震えるっていうのは怖いなぁ、なんかこう、脳系の病気だったりして。半ば本気で思うのに、病院へ行って調べる気にはなれない。怖いから、ってわけではないのが、自分でも少し意外だ。
 隕石。破滅。世界の終わり。言ってしまうと、死。それがゆるやかに、私に向かってきているような気がする。

(……早く)

 早く、終わらないかなあ。

「相席してもいいですか?」
「え、」

 開いて目の前にかざしていた手を咄嗟に隠す。ボックス席の向かいに滑り込んできた人は、にこりと人好きのする笑顔を見せた。
 花宮さん、だ。好青年モードは早々に終わったらしい、テーブルの上に散らばったシャーペンの芯を見て不審そうに眉を寄せる。すみません、と軽く言って拭くと、何やってんだよと呆れた声で言われた。

「こんなバッキバキ折って、不器用かテメー」
「いや……なんか最近、力加減が下手で」
「受け入れてねーからだろバァカ」

 短いながらボールを投げ合うようなテンポの会話が、唐突に途切れる。私が返事をしないからだ。

「……ぇ、」
「元々怪力なんだか最近力がついたんだか知らねーが、力量を把握してないから加減がつけられねーんだろ」
「ぁ、は、あぁ、なるほど」

 腕力の話か。そうだよね。詰まっていた息をそっと吸って、吐いて、落ち着ける。他校で知り合ったばかりで接点も全然ない相手だ、気付かれるはずのない人だ。私はちょっと神経質にもなっているのかもしれない、心配する必要もないのに。

「受け入れないから、暴走するんだ」
「――……」

 知られているはずがないのに。本質を突かれているような気がするのは、どうしてだろう。

「……ぁ、あの、そういえばこの前は瀬戸さんが来ましたよ! みなさんマジバお好きなんですか?」
「好きっつーか、まぁ便利だな」
「ああ、そういうポジションですよねファストフード」
「ただ視線がウザい。今日はマシだが」
「いつも制服だからじゃないですか? このへんじゃあんまり見かけませんから。花宮さんは背も高いしカッコいいし注目も浴びますよね」

 まぁ火神くんがいるから長身には慣れてるはずだけどな、うちの店は。やっぱり制服効果だろう。マジバに限らず霧崎第一の制服は珍しい。……そういえば超進学校じゃん、花宮さん頭いいじゃん。ついでとばかりに難問の解き方を尋ねると、思った以上にわかりやすく解説されてびっくりした。頭いい人は教えるの下手かもなと思ってた……先生よりわかりやすいんですけど……。

 宿題どころか予習復習まで自然と叩き込まれ、気付けば夜の九時を回っていた。

「う、うわぁ……」
「なんだその着信、引く」
「私も引いてます……」

 家と両親からそれぞれ二回ずつはまだしも、さつきからの鬼電……。少し違った意味合いで帰りたくねぇなぁと思いながら画面を見つめていると、画面がパッと切り替わって着信を告げた。そうかバイトだからサイレントモードにしてたのか……。花宮さんに頭を下げてから、それを取る。まず最初に『名前!!!』と叫ばれるのはわかっていたので耳は離しておいた。

「あ、あーさつき、ごめーん」
『すごく心配したんだからねお父さんもお母さんも心配してるんだからね今どこにいるの!!』
「勉強してたらこんな時間に」
『嘘つかないでよ名前そんなに集中力ないでしょ! どこで遊んでたの!』
「……いやホントだって」

 信用ねえな私。聞こえたらしく、花宮さんが下を向いてプルプルしている。笑うなら笑ってください。
 少し時間がかかりつつも同じ説明を繰り返し、じゃあその友達出してよ! と言われたもののもう別れたからと言う。名前を聞かれたので仕方ない、なっちゃんの名前を使わせてもらった。さすがに花宮さんの名前は出したらまずいだろう。

「……すみません花宮さん、付き合っていただいて」
「全くだバァカ。頭は悪くないんだから冷静に解くクセつけろ」
「あ、はい、ありがとうございます心がけます」

 電話を切って、謝りつつノートやら筆記用具やらを片付ける。花宮さんも遅くなっちゃいましたよね、と言うと、この歳になった男がそんなことで神経質になんねーよと返ってきた。私も男の子だったら多少は違ったんだろうか。いいなぁ男子。

「お前、」
「はい」
「姉ちゃんと話してると、すげーブスになるのな」
「…………」

 久々に、面と向かって言われたなぁ。
 手を止めた私に、花宮さんが視線を向ける。反射のように、へらっと笑い顔を作っていた。

「さつきのこと、知ってるんですよね。美人でしょう。自慢のお姉ちゃんなんですよ」
「……」
「仕方ないですよぉ、あれと並んだら大抵は残念な感じになっちゃうんですよ。って、思うことにしてるんです」

 ふざけるみたいに笑い声を含ませてみても、花宮さんの表情は緩まない。だからって変わらない。同じだ、一緒だ、私のするべきことは、私のとるべき反応は、昔からずっと、

「あ、もしかして花宮さん、さつき狙いですか? ダメですよーさつきには好きな人が」
「今もブスだな」
「……、だからー、それは仕方ないんですって」
「お前、ブスって言葉の語源知ってるか」
「……?」

 返答に困って、作り笑いも消えてしまう。なんなんだ。なんなんだこの会話の流れは。予想してなかったほうにばっかり転がるんですけど。花宮さんは結局、何を言いたいんだ。
 頬をぐいっと引っ張られて、戸惑いつつも『いいえ』と答えた。ブスって言葉の、語源?
 教えてくれるのかと思いきや、ぱっと手を離されていつのまにか纏められたノート類を押し付けられる。反応する前に、花宮さんが席を立った。

「勉強代。それ片付けとけ」
「え、」

 テーブルの上にトレーや空になった紙コップを残して、返事も待たずに行ってしまう。数秒ぽかんとして見送ったものの、確かに早く帰らないとまずいので急いで片付けた。
 ……しかし本当に、久々に面と向かって言われたなぁ。陰口で言われることは多かったけれど、成長するにつれ直接言ってくるような人はいなくなっていた。言われ慣れていても傷つかないわけじゃないんだなあと、他人事のように思う。ただ立ち直るのは早かったかもしれない。意外なくらいのショックは、急速に和らいでいる。……あの台詞があったからかな。ブスって言葉の語源。知ったところで意味は変わりはしないだろうが、あれは調べてみろって意味だったりするんだろうか。そういえばあの人は、『姉ちゃんと話してると』と言った。並んでると、じゃなくてだ。
 調べたほうがいいのかな。でも調べてショック受けるのもやだなあ……今更か。
 悩んだけれど、やっぱりどうにも引っかかるので部屋に戻ったのちに辞書を開く。わからなかったらネットでも調べてみよう。だけど辞書は、案外さらりと由来も含めて説明していた。

「……元は『ブシ』というトリカブトの塊根。薬だが誤って口に含むと神経系の機能が麻痺して無表情になる。その顔を『ブシ』というようになり、転じて醜い顔をブスと言うようになった ……?」

 姉ちゃんと話してると。そう付け加えられた言葉を思い出して、顔に触れる。人に由来を確認するくらいだから花宮さんはきっと知っているのだろう。知っていて、私にそう言ったのだろう。必然的に思い出すのは、黒子くんと紫原くんと会った、あの日だった。震える手をごまかすようにテーブルの下に隠すか、冷たいコップをずっと握り締めていた。表情が失せていく感触。周囲の笑顔に取り残されていく。穏やかな談笑の中、たったひとり凍りついている。誰もそれに気付かない。
 ……まさか。まさか、ねぇ。だって普段の表情がわかるほど親しくはないはずだ。さつきの話をしている時だって私はにこにこへらへら馬鹿みたいに笑っていたはずだ。無表情なんかではなかったはずだ、あれはきっと、単純に私が罵られたってだけの話で。
 でも、そんな人が語源を知っているかと尋ねたりするだろうか。

「……やめた」

 辞書を閉じて、考えるのを中断する。どっちにしても、あまりいい結果にはならない気がした。だって私は現状で満足してるんだから。さつきが笑って許してくれていればそれでいいのだ。紫原くんへ謝罪は終わった、もう会うこともない。あれは実際に私が悪かった、部分もあるんだし、今後気をつけていけば似たようなことはもうないはずだ。大丈夫。それに私には、優しくしてくれる人だっているじゃないか。今吉先輩は条件付だけど、火神くんはそんなことない。……私なんかに、かわいいって言ってくれた、いい人だ。だから大丈夫、やっていける。
 私には私の領域がある。さつきの存在に後押しされなくても、私に優しくしてくれる人達がいる。仲良くしてくれる人達もいる。居場所が、ちゃんとある。だから平気。



「――それでね、かがみんと大ちゃんが足のサイズ一緒だったからバッシュ持ってったの」

 洗っていたコップがつるりと手のひらから飛び出た。シンクに落ちてガコンと鳴る、その音にさつきが『何してんのー』と悪びれず笑う。黒子くんの相棒、大ちゃんと同じサイズ、誠凛のエース、……かがみん?

「…………」
「名前ー?」
「あ……いや、うん」
「かがみんて同じモデルを使い続けるタイプらしいんだけど丁度使ってない新品があってー」

 親しくなった男の子を、あだ名で呼ぶ癖は昔から変わりない。
 そう、か。そうだ。火神くんの傍には黒子くんがいる。さつきは黒子くんの彼女を自称している。かつての相棒に勝利したシックスマンの存在は、他のキセキにとってだって、重要なものだろう。なにより単純に、彼らキセキ達は仲間同士で、友人同士だった。
 ……火神くんがさつきのことを知っているのは、わかってた。接点もあるだろうことは想像がついていた。ただ、そうやってあだ名で呼び始めるまで、とは。

「……、」
「名前、焦ってる?」
「、え?」
「大丈夫、ただの友達だよ」
「…………」

 振り返ってにっこり笑ったさつきに、声も出ない。
 完全に洗い物の手を止めた私をどう受け取ったのか、くすくす笑って『仲いいって聞いたよ』と付け加えた。なんだろう、なにも不自然でないはずなのに、微笑ましさすら感じられるシチュエーションのはずなのに、背筋が寒い。

「名前ってば、昔っから私にはそーゆー話ぜんぜんしてくれないんだもん。別に取ったりしないのにさぁ」

 なっちゃんとしている噂話と大差ない。お互いの好きな人や気になる人、ちょっといい雰囲気の人との仲を、からかってみる態度と全く変わりない。はずなのに。

「……、火神くんとは、そんなのじゃないよ」
「うーそ! 名前、あんまり男の子と仲良くなったりしないじゃん!」
「いやホントに……アドレスも知らないし……」
「え、そうなの? 今日交換してきちゃった! 教えてあげよっか?」
「いやいい」
「ええー? 意地張んないでさー」
「いやホラ、そういうのって本人以外から聞くの悪いし」
「名前ってば強がっちゃってー」

 なんだろう、すごく気持ち悪い。
 さつきと仲いいのかな、ちょっとやだな、と感じた以上に、何故かものすごい違和感がある。これも嫉妬、か? やたら楽しそうな様子のさつきが、わざわざキッチンまで来てぷにっと頬をつつく、その指先の感触にざわざわする。濡れて泡だらけのスポンジを掴んでいなければ振り払っていたかもしれない。

「……そーいえばさ、中学のときに好きだった人ってもしかして大ちゃん? かがみんとちょっとタイプ似てるもんね」
「いや違うけど……っていうかなんでさつきがその話知ってんの……? 話したことないよね?」
「企業秘密ですっ」
「企業違う」

 無理に笑い話のほうに持っていきながら、顔では笑みを保ちながら、寒気が消えない。背筋を、虫が這っているような気持ち悪さが続いている。

「じゃあ誰ー?」
「大ちゃんではない。他の誰に憧れようと大ちゃんは無い」
「だから誰ー……あ、そうだ、それで本題。明日の応援、一緒に行こ!」
「応援?」
「ウインターカップ! 明日が最終日だから! 多分キセキの皆と会えるよっ」
「……、」

 三位決定戦と決勝戦の出場校がねえ、ミドリンときーちゃんとテツくんかがみんと赤司くん! それでさー、と話し続けるさつきに、相槌を打つ余裕もなくて軽く俯く。それでも機嫌の良さそうな声はそのままの勢いで続きを喋り続けていた。
 気持ち悪い。――気持ち悪い。お前、姉ちゃんと話してると、すげーブスになるのな。なぜかこのタイミングでよみがえる罵声。誰かに貶された言葉を思い返すのはこれが初めてじゃないのに、あの繰り返し切りつけられているような感覚はなくて、ただただ、今もそうなんだろう、と連想しただけだった。使いようによっては薬になる植物の根。神経に作用して表情を奪っていく毒。錠剤ひとつぶんの重みで、死に至る。
 私は、なにを。

「名前、むっくんとだってせっかく仲直りできたんだしさー」
「……そ、だね。応援、しなきゃね」
「ねー!」

 どうして、さつきを、悪者にするようなことを、考えて。
 上げた視界で、楽しくってしょうがないって顔で笑う。造形以上に可愛い笑顔。甘い匂い。完璧な、女の子。

「……、」

 誰かに泣きつきたい気分だった。
 誰にも、こんなことを言えるはずがないと思った。今吉先輩はああ言ってくれたけれど、私は先輩に嫌われたくなくて、軽蔑も、されたくなくて。

「…………」

 洗ったばかりのコップで狭い喉に水を通す。そうして深呼吸してみても、胸の苦しさは一向に改善しない。


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2014.07.26
ウインターカップ結果はたぶん捏造になります