こんなに綺麗な人だっただろうか。何よりもまずそう思った自分自身にも驚いた。

「ありがとうございましたー!」

 同じ声で、半年前までは『おつかれさまでした』を聞いていたはずだ。それなのに全然違って聞こえるのは、自分が変わったのか、彼女が変わったのか。二つ隣のレジで受け取ったバニラシェイクに口をつけつつ視線を向けるが、彼女が視線を返すことはなかった。生まれつきの影の薄さを、幸運と思うべきか不幸と思うべきか、本格的にわからない。客の波が引いて、同じくレジをしている隣の女子と小声で何か話してはくすくす笑いあっている顔を見る。あんなふうに笑う人だっただろうか。確かに接点はそれほど無かったし、彼女についてどれほど知っているかというと――ろくに知らないのだから、驚くことさえないはずなのに。
 そっと、見つかりにくい席の更に見つかりにくい角度に入る。なっちゃん、と明るく呼ぶ声が聞こえた。以前は自分も、ああやって呼ばれていたのだったか。黒子にはあまり自信がなかった。
 桃井名前。中学の三年間、丸々同じ部活で過ごしたはずの存在に、正直なところ印象は殆ど無い。あまりにも接点が少なかった。辛うじて三軍にいたころに世話を焼かれたことがあるものの――倒れたときや吐いたときだ――新入部員と同じく何人かいる新入りマネージャーの一人を、特別に気にかけたことはない。三軍にいたころは特に、青峰と知り合ってからは更にだが、バスケを続けることに精一杯で、周囲を気にする余裕もあまり無かった。練習の始めと終わり、それからたまに丸一日、レギュラーの仕事を分担することもある程度のマネージャー。桃井さつきと双子だということさえ長い間知らなかった。苗字は知っていたから、偶然なのか、もしかして親戚なのか、程度に考えてはいたが。知ったとき正直にそう言った黒子に対し、さつきは気分を害したようでもなく笑って『よく言われる』とだけ答えた。きっと名前本人も似たような反応を返すに違いない、と思うくらい、慣れた態度で。
 双子と青峰の関係を不思議に思ったことはある。さつきはレギュラー達について帰ったり寄り道をしたりするものの、名前はそういった集まりには一切参加していなかったし、青峰もさつきもそれを気にした様子は無い。もしかしてこの三人の幼馴染は一人だけ仲良くないのかと勘ぐったものの、『大ちゃん』『名前』と名前で呼び合っている様子や気安い雰囲気からそれもないと思った。良くも悪くも――ただしおそらくは、とてもとても珍しく、名前はどこまでも『普通のマネージャー』だった。桃井がいてくれると助かるね。いつだったか、そう小さく呟いた赤司の声に、そうですねと何気なく同意したとき彼は笑った。あのとき彼が言った桃井とは、名前のことだったのだろうと、今は解る。レギュラーとはいえ一部員の黒子と、部長を務める赤司とではやはり視点が違ったのだろう。名前がマネージャーリーダーをしていたことを、ここ数日で知った黒子はなぜか繰り返しマジバへ向かい、彼女の声を聞きながら中学時代を思い返していた。
 居るのか居ないのか解らないような、さっと来て何かを手伝って、さっといなくなるマネージャー。接点が少なかったのは、彼女が忙しすぎたためだ。各体育館とのパイプ役、必要書類の作成やデータの整理、常時百人を超える部員達と十数人のマネージャーの管理。リーダーとして、部長や副部長や教師陣への対応と報告。……その上、たまにとはいえ一軍体育館を手伝っていたのかと思うと、他人事ながらぞっとする。
 どうして少しも、本当に一切、そんなことに気付かなかったのか。やはり接点の少なさと――彼女がいつも、笑ってくれていたからだ。
 下手をすると部員より疲れていたに違いない。それでも名前はいつも適切に動いたし、必要なときは赤司や緑間の補佐をした。体育館に入り込んだ灰崎の恋人だという女子生徒を、言葉巧みに外へ連れて行った。誰かの八つ当たりを困ったような笑顔で宥めていた。そのくせ練習内容や試合の出来やレギュラー陣の人間関係、肝心な部分には決して踏み込まずに。
 ……体育館の、中の話だ。
 自分達がずっとその中に居たから、彼女の姉もずっとそこに居たから。外でどんなことが起きているのか、彼女がどれだけ働いてそこに来たのか、外で何から守ってくれているのか。全然、考えても、いなかった。
 影を自称する自分が光の側に居た。それにずっと、気付きもしなかったのだ。

「ご注文は以上でよろしいでしょうかー?」

 柔らかく張りがあって、よく通る声。友人らしいバイト仲間と言葉を交わしながらも、こまごまとよく動く。明るい笑顔で対応するから、レジに並んでいる客の態度まで柔らかくなっているのが、第三者の目から見るとよく解る。
 ……助けられてきたのだろうか、こんな風に、ずっと。三軍に居たときも、一軍に移動したときも、レギュラーになったときも、決裂したときも。覚えがないという事実に胸を痛めながら、きっとそうだろうと確信した。ずっとこうして空気を穏やかにしたり誰かの気を軽くさせたり、してくれていたのだろう。それこそ黒子の言う、『影』になって、支えてくれていたのだろう。
 申し訳ないような、今からでも取り戻したいような、けれど今更と思われてしまいそうな。
 事実、こうして偶然再会するまで彼女のことを思い出しもしなかった自分が、そんなことをしてもただ都合のいい奴になってしまうんじゃないのか。気付かなかったなんて、あのころは解らなかったけれどありがとうだなんて、言えるわけでもないのに。楽しそうな声と、それこそ花のような笑顔に、今になって惹かれているなんて。
 葛藤は、憧れていた人がいたという彼女の言葉から更に強くなって黒子の中に渦巻いた。
 憧れの人。会話の流れからして『アイドルみたいな部員』――キセキの誰か、と考えるべきか。誰、だろう。耳をそばだてていてもヒントは入ってこなくて、すっかり時間の経ってしまったシェイクのカップに浮いた水滴が指先を濡らしていく。憧れの、ひと。……誰にも肩入れしている様子のなかった、けれど誰にでも優しく適切に対応していた彼女が、憧れていた人。自分、ということはまず無いだろうと考えた自身にはっとして、緩く首を振った。そんな素振りでもあれば自惚れてしまいたかったが、残念ながらその面に関して黒子はどこまでも客観的に物事を見られる性質だった。
 赤司、緑間、紫原、青峰、黄瀬。灰崎。一人一人を思い浮かべ、誰も微妙にしっくりせず、けれど誰であっても納得できてしまいそうで唇を噛む。立場上、近しかったのは赤司と緑間。黄瀬と紫原はたまに彼女と話していたのを覚えている。それから多分、一番直接的に親しいのは青峰だ。

(……青峰くん)

 明るくて単純でまっすぐで馬鹿で、決して褒められたことばかりではない、けれどその性質に救われたことはたくさんある。今は決別してしまっているとしても、過去の彼だって間違えようもなく本物だ。一度は相棒と称した眩しい光。誰もが羨むような才能を抱えながら、自分自身の強さに傷ついている人。彼、だろうか。彼女は彼に、憧れていたのだろうか。幼馴染ではなく憧れの人と言っても不自然ではないくらい、中学時代の彼らの関係は希薄で遠かった。一時期は本当に四六時中一緒に居た黒子が、さつきの名前は何度も聞いても名前の名前は数えるくらいしか――……数えるほども、なかったのだから。

(……だから、バスケをしていないんですか?)

 青峰くんがバスケに向き合っていないから。だからバスケ部に入らず、ここでバイトをしているんですか? あのころの彼がいなくなったから? 今の彼を見ていられなくて? それとも、桃井さんとは違う形で支えるために? 彼を一人にしないために? 口に出せない問いかけが巡り、底をついたバニラシェイクが濁った音を立てた。
 決め付けるのは早計だ、ということは黒子にも解っていた。それでも一番、説得力のある仮説だった。相手が幼馴染なら仕方ない、そういった逃げの部分もあるのは、黒子の自覚したところではない。ずっと一緒に育った幼馴染、未だに名前で呼び合う相手。たとえ関係が希薄になっても変わらず傍にいた、そんな関係性になら、負けてしまっても仕方がない。出遅れた部外者の、自覚もなく甘え続けた第三者の、出る幕では既にないのだと。意識もせずに、そう思った。無意識下で諦める理由を探しながら、こっそりとマジバへ通い続けた。
 そうして何度目かの日。

「あ、の! 名前、教えてく……ださい」

 どっ、と鼓動が響いたのは、どうやら自分にだけだったらしい。きょとりと目を丸くして見上げる彼女と、背後の存在に気付いてもいない背中。耳が赤い。
 ある店員が気になるのだと、ここしばらく、主に昼食中に相談めいた話を聞いていた。アドレス聞いてみろって! いやまずは名前だろ! 自分の携帯番号書いて渡すのがスマートなんじゃねえ? 捨てられたら終わりじゃん。そのつもりじゃなくても失くしちゃったりさあ。どっちにしろ早いって。一年部員で面白がりつつそれなりにアドバイスをしていたのが、まさか彼女の話だとは思わなかった。首を左右に傾げつつも注文を準備し終えた彼女が、まっすぐに顔を見上げる。きちんと、視線を合わせる。やわらかく微笑む。ああやっていつも話されていたはずなのに。ああやっていつも笑ってくれていたはずなのに。気付かなかったから、出遅れたから、彼女には想う人が居たから、でも、でも、――だけど。

「……答えることないですよ」

 とっさの行動だったにも関わらず、邪魔を入れるのはそれなりに成功した。そ知らぬ顔で自分も注文をしながら、どうしようもなく自覚した。――逃げていたことを、そうしながら、諦めようと思いながら、やっぱり諦めたくないことを。目の前で攫われるなんて我慢できないことを。
 握り締めた手に、照れるよりも戸惑った様子の顔に、距離を感じる。けれど振り払うことも誘いを断ることもしない優しさに、また甘えて、今度は付け込んでもいる。今更、虫が良すぎるなんて自覚はある。だけど気付いてしまったし、惹かれてしまったし、欲しいと思ってしまっている。たとえ青峰の姿がちらついているとしても、可能性は完全にゼロではないはずだ。
 青峰に勝つ。その目標は黒子にとって桃井さつきとの約束になり、桃井名前への誓いになった。



「……負けたのか 俺は」

 それは喪失感だろうか――まだ、そこまでは至っていないのかもしれない。あの日に合わせられなかった拳をぶつけて、試合終了のため列を作る。会場の客席を見上げたが、黒子の目では彼女を探すことはできなかった。それでも、居るはずだ。桐皇の生徒であり、何より――幼馴染と双子の姉が関わる試合だ。たとえ学校が違っても駆けつけているに違いない。
 勝ちました。そう、直接は伝えられない言葉を伝えるように、客席に強く視線を向ける。桐皇の制服が集まっているブロックを見つめる。彼女は今、喜んでくれているだろうか、それとも泣いているだろうか。
 おつかれさまでした。そう幾度となく聞いたはずの声を思い出し、不意に目頭が熱くなった。帝光中時代、何人もいるマネージャーの一人でしかなかったはずの声。いくつも投げかけられるうちのひとつでしかなかった労わりの声を、もう一度聞きたい。ベンチに、戻ってきてほしい。自分のところじゃなくてもいいなんて、そこまで綺麗には思いきれないけれど。それでも見つけられないよりずっといい。
 ――試合が全部、終わったら。日本一になったら、そうしたら、また彼女に声をかけられるだろうか。少し勇気を出して、誘ってみてもいいだろうか。今度は二人で、と言っても応えてくれるだろうか。考え着替えながら、意識が保ったのは、そこまでだった。


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2014.07.22
さらりとウインターカップが開始しました