朝起きて着替えてご飯を食べて学校に行って、友達と喋ったりして。当たり前に過ごしている日常が、今も過ごしているはずの時間が、どうしてこうも遠いのだろう。誰かと喋って、誰かに笑い返して、そういう自分を透明な壁越しにでも見ているような感覚。定められた役割を、演じているような気分だ。役割、桃井さつきの双子の妹。役割、気のいいクラスメイト。このキャラクターはこういうときにこういう反応をして、こう答えなければならない。役割。役割。役割。私が求めた、『私』の役。それで、……それで?

「アンタさあ、最近なんか元気ない?」

 テイクアウト用の紙袋を補充していたところで、なっちゃんに声をかけられた。

「……ぼーっとしてる自覚はあるけど、元気ない? かな」
「うーん。意識飛びつつ作業はしてるってのがアンタらしいっつーかなんつーか……平気ならいいんだけどさあ」

 確かに最近はふとした瞬間に考え込むというか、解らなくなっていることが多い。何をするべきか、何を言うべきか、どんな態度をとるべきか。『私』として不自然でない行動はどれか、迷うことがある。結果として行動がぎこちなくなっているし、考え込んでいるのは微妙に別の問題、というのが我ながら厄介だ。とはいえ考え込むというほど生産的でもない。答えの出ないことを、いつまでもいつまでも繰り返し思い浮かべている。
 ……あの人は、こんなこと、無いんだろうなぁ。

「……ねぇ名前、ホントに大丈夫?」
「んー、うんまぁ、ここでは比較的元気なんだけど」
「シフト終わりの時間にも気付いてないのに?」
「えっ…… ……あっ」

 言われて時計を見ると、確かに終わりの時間を十分ほど過ぎていた。黙々と掃除や作業ばっかりしちゃったなあ今日は、なんて思っていると私より二時間ほど上がるのが遅いなっちゃんに更衣室へ押し込まれる。ほら早くタイムカード打たないと店長うるさいよー! 言いながら客席をちらちら確認する、その顔が少し明るい気がする。

「なっちゃん?」
「んで、どうする。今日は何か食べてく?」
「あー……うん。夕飯食べて帰るって連絡したんだそういえば」
「じゃ適当にセット作っとくよ。ほら早く着替えなー」
「うん……」

 返事をしきらないうちにバタンとドアが閉められて、なんか忙しいことあったっけな、と少し考えるものの、頭が疲れているらしくすぐに中断された。
 最近、バイト終わりに夕飯を食べて帰ることが多い。バイトや社員はほとんどタダみたいな金額で食べられるっていうことと、……なんとなく、帰りたくなくて、だ。さつきはどうせ毎日部活に参加しているけれど、夕飯には帰ってくる子だから。家族で夕食を囲む、なんていう当たり前のことを、最近はどうしてかうまくできない。

(バイトしてるときはあんまり無いんだけどなぁ、ホントに)

 それでも元気がないと指摘されたのだから、日頃の行動はどうなっているのだろう。まぁでもいいか、紫原くんに謝って仲直りして以降、さつきの機嫌は悪くなっていないのだから。ウインターカップがもうすぐ始まるだか始まっただかで、そっちに忙しいのだろう。いいことだ。
 のろのろと着替えて、どうにか誤差の時間内にタイムカードを打って更衣室を出る。お疲れ様でしたー。お疲れ様でしたあ。軽く投げあう言葉に、寂しさを覚える。次のシフトは明後日だ。店長に会えたら、もう少し増やしてもらえないかと聞いてみようか。やることがないと何をしていいのか解らないし、かといって学校には残っていたくない。バスケ部に入るとか論外だ。
 いっそバイトを掛け持ちするか……いやいや、それはそれで学校生活に割く時間がなくなる。一応学生なんだから、本分は学業だ。……勉強。勉強なぁ。やることもないし少し頑張ってみようか、両親にはそういう話になっているわけだしバイト後の食事ついでに少しだけ予習復習。家でやるよりいいかもしれない。もやもや考えつつレジへ行くと、夕飯メニューの他に新作のテイスティングをふたつ渡される。尋ねるつもりで顔を上げると、なっちゃんに訳知り顔で笑いかけられて背中を押された。ありがとうございましたー。客を装う声に、黙って持っていけと言われていることを察して首をひねりつつ席を探す。今日、は、

(……あ)

 いつものボックス席に、頭ひとつ飛び出ている長身。思わずレジを振り返ると、なっちゃんだけでなくバイト仲間達は全員お客さんの対応に追われていた。確認はできない、けれど多分、この解釈で間違いないだろう。トレーに余分に乗せられた新作メニューと、夕食分のバーガーセットに視線を落とす。
 みんな、優しいなぁ。
 一度ぎゅっと目を閉じてから、その席に向かった。

「こんばんは」
「!」
「相席、いいですか? あとこれ、新作のテイスティングなんですけど、よかったら食べてみてください」

 山積みのバーガーを、一心不乱に頬張っていたらしい火神さんが口の中のものをドリンクで飲み込んでから『……おう』と返事をして、トレーを自分のほうへ引き寄せる。今日は黒子くんはいないのか。そう思って、少しだけ安心した。

「新作?」
「ちょっと辛いやつです。唐辛子系の辛いの平気ですか?」
「おう、サンキュ」

 向かいに座ったとはいえ、お互いがっつり食事だ。必然的にあんまり喋れないけれど、共通の話題があるわけでもないので喋れないタイミングでちょうどいいのかもしれない。具を少しおまけしてくれたらしい厚めのハンバーガーをかじりながら、また山を片付け始めている様子を見る。騒がしそうに見えて黙々と食べる人だ。

(口大きいなー、二口くらいでハンバーガー入っちゃう……でもよく噛む派か、頬っぺた膨らんでる)

 さっきも思ったけど、頬を全部使って食べる人だ。大型犬っぽいと思ってたけど、一心に食べてる姿はリスやハムスターを思い起こさせる。……かわいい、なあ。
 なんだか微笑ましい気分で眺めていると、口の中のものを一気に飲み込んで頬袋をなくした顔が、またドリンクを勢いよく飲んで下ろした。コップの中身は、今日もコーラだろうか。

「見すぎだ、です」
「! ご、ごめんなさい。つい」
「いーけどよ……自分も食えよ、です」
「……? 火神さん、そんな喋り方でしたっけ? 前は普通だったような……」
「あんときは、黒子がいたし……お前だって、敬語だろ」
「私はほら、店員ですから」
「今違うだろ。……黒子にも違ったろ」
「……じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」
「おう」
「火神さんも、です、ナシで」
「……おう」

 そうしてまた、お互いハンバーガーを咀嚼し始める。しかしやっぱり手も口も大きい、それなりに量のあるバーガーが次々吸い込まれていく。今度から火神さんの注文は包装しないほうがいいんじゃないかとさえ思えてくるけど、そういうわけにもいかないよね。

(……おいしそうに食べるなぁ)

 思わず、ふ、と笑みが漏れたのと同じタイミングでじろりと睨まれた。

「火神さん、じゃなくて火神くん、美味しそうに食べるなあって思って」
「ホントかよ、そういう顔かよ」
「……あと男の人にこう言っていいか微妙だけど、かわいいなあって」

 いちかばちかで言ってみたことに、火神さんは不思議そうに眉を寄せてからトレーに視線を落とした。半分以下になったチーズバーガーの山と、包装紙の残骸。
 やっぱり変なこと言っちゃったかな。ちょっとした後悔を抱きつつ反応を待つ。忘れかけていたバーガーにかじりつくと、多すぎる粒マスタードがツンとした。

「おまえ、も」
「ん?」
「……一生懸命、食ってんの、可愛いと思う」
「…………」

 思わぬ反撃を食らった。
 ハンバーガーを持ったままの両手がテーブルの上にぱたりと落ちる。言ってから照れているのか、真っ赤な顔を斜め下に逸らしている。……女に、言うべきだろ、かわいい、とかは。掠れた声で言い訳めいたことを付け加えて、火神くんは新しいバーガーの包装紙を剥いてそこに顔を埋めてしまった。食べてるんです、という態度で、だけど少し前とは全然違う速度で。
 やがて私も無言のまま、両手を持ち上げて同じように包装紙で顔を隠した。じわじわ血が上ってきていた頬は、今はもう完全に赤いだろうとわかるくらい熱い。
 ふたりして赤い顔を包装紙に隠して、食べ進めるわけでも席を立つでもなくただただその場に座り続けている男女は、他の人にはどんなふうに見えるんだろう。周囲をうかがう余裕はないまま、なっちゃん達バイト仲間に感謝しようと思う。次のシフトあたり、どうだったって聞かれるんだろうなあ。その予想さえなんだかくすぐったく感じた。


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2014.07.19