一歩踏み出そうと足を上げて、着地点を見失ったときのような気分になる。どっちに向かおうとしていたのか、どこに何のために行こうとしていたのか、つい一瞬前までしっかり解っていたはずのことを、どこかへ取り落としたような感覚。ど忘れというにも唐突すぎるような躊躇を覚えることが、最近はあまりにも多い。脳に異常を抱えてしまったのかと疑うほどの違和感の正体は、多分ぼうっとしてしまっているってだけなんだろう。ウインターカップ予選の最後、霧崎と誠凛の試合を見たあの日からずっと。

「名前ー」

 その声と、ノックの音が聞こえなかったわけではないけれど、身体がどうしようもなく重かった。ベッドに横たわって開いた本のページに視線を落としたまま、けれど内容は一切頭に入ってこない。寝てしまおうかと考えるでもなく思っていたとき、鍵のかかっていないドアが開いた。なんだ名前、いたんじゃない。軽い調子で投げられる声。

「そんなに集中して読んでたの? 何の本?」
「友達から借りてる漫画。それよりどうしたの、さつき」

 どうせ頭に入っていないので、どこで閉じても問題のない本を伏せて、顔を上げる。双子の姉はきょとりと小首を傾げた後、とびっきりの良い報せを抱えているような含み笑いを見せた。幸せなサプライズを予感させる子供のような笑顔に、やはり何の感慨も抱けない。

「ねえ名前、明日一緒に出かけよう!」
「……急だね」
「いいじゃん、暇でしょ? 暇だよねっ? 絶対いいことあるから! ね!」
「んー……」

 悩むそぶりを見せつつも、選択肢は無いのを肌で感じる。姉がこういう態度で誘ってくるときは、用事があると言っても『何の用事? 別の日にできない? ねえ名前お願い!』と続き、抵抗しても無駄に疲れるだけだと知っている。諦めたような気分で口角を上げ、できるだけ優しい声色で――といってもやはり、いまいち上手くできない――いいよ、と口にする。土曜には珍しくバイトの入っていない日でよかった。
 喜んではしゃぐ声、メイクしてあげるね服も考えてあげる、かわいくしてこーね! と盛り上がっている姿は客観的に見て確かに可愛らしい。顔立ちが大人びて整っているのに仕草や行動が少し幼くて、そういうところが彼女を魅力的にする要因でもあるのだろう。と、わかるのに、よくよく理解できるのに、何だろうこの感慨の無さは。さつきに限ったことではなく、桜井も青峰もクラスメイト達も全て。すべてが、感情に触れず上滑りしていくような感覚。

(……疲れてるのかなあ)

 覚えのある経験の中ではそれが一番近かった。けれど何に疲れているというのだろうか。考えてみても、思い当たる節はない。運動しているわけでもないし、バイトだって忙しくはあるけれどそれほどハードじゃない。疲れるほど考え込んでいることも、特に、ない。むしろ最近は何かを考えようとしてもぼうっとしてしまっている。

「ねー名前ってば! 聞いてるー?」
「聞いてないけど服は自分のやつ着る」
「ええ?!」
「化粧も自分でする」
「なんでー! とっておきのワンピース貸したげようと思ったのにー!!」
「ていうかあの服やめなよ……すっごい悪目立ちするからさあ……」
「胸がなくても着れるようにアレンジしてあげるからあ!」
「それ以前の問題だって気付いて頼むから」

 しかし何も考えなくともぽんぽん口から適当な言葉が出る性質でよかった。いや、これまで続けた努力の成果か。……努力、か。人の気を悪くしないことだけに特化した、適当なことをほざく努力か。それで私は一体どこに行きたいんだっけなあ。
 もう寝るからとさつきを部屋から追い出して、真っ暗にした中で横たわる。携帯のランプがちかちか点灯していた気がしたけれど、それを手に取る気にもなれなくて目を閉じた。眠ってしまいたい。全然眠くない。
 そういえばこうやって強引に誘われるのは、バスケの試合以外では久しぶりだ。昔はお買い物だのデートの下準備だの、夏休みは大ちゃんと遊ぶの何だので色々あった。……最後のひとつは結局ほとんどバスケに費やされたけれども。さつきは相変わらず友達いないんだな、私も人のこと言えないけど。姉妹だからってこんなところだけ似なくてもいいのに。ああでも、違うか、さつきは嫉妬されてるから友達ができにくいってだけで。私は嘘吐きだから友達って呼べる人もそうそういないって話で。一緒にしたら悪いか。

(……私のさつき関連のいざこざ知ったらなっちゃん引くだろうしなー……なっちゃんだけじゃなくて、誰だって、ねぇ)

 優しいクラスメイト達だって、桜井くんだって大ちゃんだって今吉先輩だって誰だって、引くに決まっている。
 双子の姉に嫉妬してうまく優しくできなくて心の中で呪詛を吐き続けている、特に美人でも賢くも運動ができるわけでもない地味女。うん、駄目だ。悩むまでもなく駄目だ。自分でさえちょっと引くわ。
 ああそうか、私はきれいな女の子になりたかったんだ。外見はどうしようもないとしても、せめて内面は。さつきを受け入れて、さつきに優しくして、心から。そのために少しだけ、素直になれるようにがんばってみただけ。さつきに優しくしたい、さつきを綺麗だと思う、それらは本当に本当なのに。――なのにどうして今、わからなくなっているんだろう。優しい言葉のどこまでが本当で、どこからが嘘なのか、自分でもよく解らなくなっているんだろう。寝るとか漫画読むとか嘘を吐いてまでさつきを追い出したのはなんでだろう。優しくしたいのに。お願いは聞いてあげたい、はずなのに。
 どこからどこまでが私なんだろう。
 頭まで布団にもぐりこんで、丸くなる。寝なきゃと思うのに、睡魔はやっぱりいつまで経っても訪れなかった。



「テツくん! こっちこっちー!」

 おいまさか『二人っきりで会うのはちょっと恥ずかしいから一緒に来て?』事案だったわけじゃないだろうな。この寒いのにオープンカフェの路面席、そわそわと歩道を眺めていたさつきが顔を輝かせて席を立ったのを真向かいで見つめ、思わず遠い目になる。黒子くんとさつきの背後を幽霊のようについて歩くとか嫌だ。デートなら二人っきりでしなさい。消えたいなーでもさつきが嫌がるかなー、恥ずかしいってだけならどうにか言いくるめられる気もする。とりあえず三人でお茶をしつつ予定を話すって流れになるだろうしそのタイミングで提案してみるか。頭の中ですばやく考えつつ振り返ると、周囲がざわつくほど大きな影に覆われた。

「……、」

 無表情に人を見下ろす顔。夏、文句を言って振り払って、それ以降は接点のなかった人、だ。

「こんにちは、桃井さん」
「……く、黒子くん……あの、今日は、何の集まり……?」

 私、さつきから何も聞いてないんだけど。多分ぎこちなくなっている作り笑いを浮かべつつ、紫原くんの背後から出てきた彼に声をかける。さつきに薦められて私の隣に腰掛けた彼は、だまし討ちの形になってすみません、と私だけではなく未だ無言で見下ろしている紫原くんに対しても顔を向けつつ言った。

「余計なお世話かとは思ったんですが、桃井さんは様子がおかしいですし、紫原くんも気にしているようだったので」
「……はあー? 俺が? なにを? 黒ちん目ぇおかしーんじゃねーの?」
「とりあえずむっくんも座って座って! ここのお店のパンケーキ美味しいんだよっ」
「…………」

 なんだこれは。
 なんだこれは。
 さつきの隣に座る、椅子がギシッと軋む音がやけに耳に残る。呆然としたままの私に、名前、と柔らかい声がかけられた。

「黙っててごめんね。でも、話したらきっとうまくいかないと思って」

 何が? なんで?
 喧嘩をしたと、簡単な説明を、そういえば黒子くんにしてあった。夏の話だ。まさか今更、掘り返されるなんて思っていなかった。黒子くんと紫原くんは何も言わず、やってきた店員さんが追加メニューだけ聞いて去っていく。さつきは穏やかな微笑のままだ。

「名前、ずっとむっくんに謝りたかったんでしょ?」

 声も出ない。自分が今どんな表情をしているのかもよく解らない。ただ、さつきのその言葉に、紫原くんが背けていた顔をこちらに向けた。昔から彼が私に向ける顔は面白くなさそうなものとか、不機嫌とか無表情とか、とにかくプラスには捉えられないものばかりで。今回も、そうだ。子供が拗ねているような顔。

「さつ、き?」

 さつきは事情を知らない。黒子くんにも詳しい話はしていないし、紫原くんにもだまし討ちしたみたいなことを言っていたから、きっと詳しく状況を説明されたってことはないだろう。
 顔を上げて正面から紫原くんを見ると、じっと睨み返される。さつきが『名前、ほら』と私の二の腕を、促すように叩いた。
 え、これ、謝らなくちゃいけない場面?
 確かに私は言い過ぎた。言い過ぎたけど、彼ほどだろうか。彼の常日頃の暴言ほどだろうか。そもそも気分悪くて顔を背けたのはそんなに罪か。離せと言って離されなかったので振り払ったのは、それほど悪事か?
 さつきは気を使ってくれた。黒子くんも気を使ってくれた。ここの小さなゴタゴタのために手間と時間をかけてくれた。それは本当だ。心配をかけた。それは、よくわかった。わかったけれど。

「――、」
「名前」

 さつきが、宝石のような瞳で私を見つめる。謝ることもできないでいる妹を、強く諌めるような視線。きらきら、うるうる、こんなに綺麗な目の持ち主は世界中探したって早々いないだろう。輝かしい瞳に映されて、なのに何故だろう、私の心臓は浄化されるどころか腐っていくような気がする。嫉妬。嫉妬か。嫉妬しているからか。嫉妬を乗り越えるにはどうすればいいんだ、素直に受け入れて認めればいいのか。さつきが誰より綺麗な女の子で誰より正しくて優しいって認めてさつきの言うとおりにすればいいのか。そうすれば私は、

「紫原くん」

 私は楽になれるのだろうか。

「……なに」

 私はさつきの望みをかなえたい。みんなで仲良くっていう平和的で優しくて女の子らしくて非の打ち所のない願いをかなえたい。今、謝罪を口にしてほしいっていう、さつきの意思を、

「……夏は、ごめんなさい。言い過ぎたよね」
「……次また生意気なこと言ったらマジでヒネリ潰すし」

 ふいっと顔を背けてしまう、その向かいで黒子くんが詰めていた息をそっと吐き出して、私のほうを向いて笑う。さつきが、よかったね、と言うように二の腕をそっと撫でて手を引っ込める。運ばれてきたメニューの湯気に、空気までやわらかくなる。私、以外は。
 これは仲直り成功ってことになっているんだろうか。マジで? これで? 今のって許すよって意味だったの? っていうか喧嘩だったら普通『ごめんね』『こっちこそごめんね』って流れじゃないの? 紫原くんはそういうキャラじゃないから仕方ないの? 一方的に私が悪くて一方的に許された形? ……マジで?

「…………」

 表情が失せていくのがわかる、作り笑いが全然できない。だけどそんなものはもう必要ないのだろうか、皆笑っている。私が笑っていようといなかろうと。これを平和な光景と信じて。誰もが。
 酸素が足りない。
 さつきが笑っている。黒子くんともう何かを話し始めていて、視線をやった紫原くんが少し機嫌の回復した顔を綻ばせる。これが、これが私の欲しいものだった?
 息苦しい胸を落ち着かせようと水を飲む。コップを下ろした手が震えていて、それをテーブルの下に隠した。


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2014.07.18