「桜井くんは強いね。本当の意味で」

 柔らかくさらりとした声で、ほとんど初めての会話の中で、彼女は事も無げにそう言った。

「負けず嫌いもあるんだろうけど、見てて実際怖くなるくらい」
「……、桃井さん?」
「私が言っても意味ないかもしれないけど。ちゃんと皆、わかってるから。少なくともレギュラーは皆わかってるから、あんまり肩肘張ってなくても大丈夫だよ」

 ぱん、手際よく終わらせた足のテーピングを叩いて、微笑む。余分なことだったらごめんね。そう付け加えて、返事も聞かずに次の仕事へ戻っていった背中を、桜井は数秒ぼんやりとして見送った。
 桃井名前。桐皇に入学早々、一軍マネージャーとして就任した桃井さつきの双子の妹。突出した能力があるわけではなく、見目麗しいわけでもない。ごく平凡に見える彼女がバスケ部使用の体育館、しかもレギュラー陣の傍に入り浸っている理由は、姉の存在に集約される。いつのまにか居てマネージャーの仕事を手伝っている彼女に、監督が何も言わないものだから部員達も何も言えない。けれど影で囁かれる言葉を、桜井だって知らないわけがなかった。――男目当て。内申目当て。姉があれだからって自分まで優秀なのだと勘違いして。入部はしていない。監督に断られたんだろう。等々。直接聞いたわけではないが、バスケ部に所属していれば嫌でも耳に入ってくる囁き声を思い出し、俯いた視界にしっかりと施されたテーピングが映った。

「……、」

 患部を軽く撫でて、立ち上がる。
 ミニゲーム中の軽い衝突事故は、足をひねるまでのダメージではなかった。加減を知り尽くしているそれは、偶然だと思い込むにはタイミングが良すぎて頻度が多すぎる。けれど故意だと決め付けるには軽傷すぎる。わずかながらも長く残る違和感に気付いてでもいたのだろうか、念のため、と言ってベンチまで引きずった桃井の手の、意外なほどの力強さを思い出しながら選手たちのところへ戻る。足は、むしろゲーム前より調子が良いくらいになっていた。

 ――ちゃんと皆、わかってるから。

 桜井に限った話ではないが、強豪とされる桐皇バスケ部で入学間もない一年が活躍するのは、実力主義という言葉で賄えるほど単純な事態ではない。その強豪で努力を続けてきた人達が居るのだ。人それぞれに苦痛はあって、バスケのために何かを犠牲にすることがあって、それでもユニフォームを手にできずに退部していく人達がいる。次は自分の番だと信じて努力を重ねて、入部してきたばかりの一年生に横から攫われている人達がいる。スポーツマン全員がフェアを心がけ全力をもってして正々堂々と戦い、負ければ潔く諦める生き物だなんて、桜井はとっくの昔に思っていない。
 大した事はない、少しずつ少しずつ気力を削っていくような嫌がらせ。意識して耳を向けなければ聞こえない程度の中傷。
 青峰のように堂々と不遜でいるのならまだしも、桜井は別種で嫌われやすい性質だった。すぐさま謝罪を口にするくせに、薄皮一枚剥げばものすごく気が強くて負けず嫌い。自分なんかがスイマセン、そう言いながらレギュラーと並ぶのに劣らない実力を持っている。厭味に取られがちなのも、単純に鬱陶しがられるのも、好かれる性質ではないことも、桜井は自覚していた。青峰なら、『キセキ』ならばまだしも、どうしてあいつが。そう言われていることも知っていた。それでもどうしようもなくて、負けたくなくて、バスケを好きでバスケをやりたいだけなのにプレー以外の部分で煩わされるのが我慢ならなくて。桐皇のユニフォームに恥じないために、彼なりに戦っていたのだ。それは徹底した無視と、気にしていない気付いていないフリ、という、至極平和的なものではあったけれど。
 あんまり肩肘張ってなくても大丈夫だよ。その言葉は、桜井には侮辱に聞こえた。悪気は無いのだろうと解るけれど、それでもこの程度、こんなこと。……『この程度』と思っておかなければならない。多少の嫉妬や嫌がらせや悪口は黙認される。桐皇が掲げているのは、それらを退けることも含めた『実力主義』なのだから。

(桐皇でバスケを続けたいなら、レギュラーでいたいなら、この程度、軽くあしらえなくちゃいけない)

 責任。自負。義務。権利。レギュラー税。名前をつけられた現象が、中学を卒業したばかりの少年に圧し掛かる。才能が足りないなら、『キセキ』の存在でないなら、そのぶんは努力で補うしかない。本当に、実際に、大した嫌がらせではないのだから。気付いていないはずのない先輩達や監督が、介入するほどのものではないのだから。

 ――少なくともレギュラーは皆わかってるから。

 そうだ、わかった上での放置なのだ。そんなことは桜井だって自覚している。この程度あしらえないならレギュラーの資格は無いのだと、今この瞬間も試されているということだ。解っている。……なのに桃井さんはそんなことを言って何をしたいのか、本当は何を言いたいのか。長いこと彼の中に燻っていた思いは、ある日唐突に解消される。

「アドバイス、かぁ。……喧嘩の仕方でも教えてあげれば?」

 それを聞いたのはドアノブを回してほんの少しだけ扉を押した、その瞬間だった。午後の太陽の白い光が一筋、隙間から差し込んでくる。

「アドバイスくれなんて言ってねぇよ」
「何考えてるかわかんねー、っていうのはわかりたいってことでしょ。それで、仲良くなりたいってことでしょ?」
「……別に、」
「ん、まあ、それはそれでいいけど」

 聞き流すように言って――あの威圧感のある『キセキ』に、そんなふうに接する女子は初めてだと桜井は思った――そこから少しの沈黙が降りる。盗み聞きになるかな、まずいかな、青峰サン呼びに来たんだけど、ああでも。考えながら、手はしっかりと銀色のドアノブを握ったまま動かない。コンクリートの壁の中で、差し込む光が妙に眩しく感じられた。

「……多分さぁ、桜井くんもわかんないんだよ」

 名前が、出た。一瞬どっと鼓動が大きくなったが、それほど意外ではなかった。自分の話題だと、勘でしかないが察知していた。これは多分、聞かないほうが、いいんじゃないのか。その気持ちが押し込んでいたドアノブを音もなく自分のほうへ寄せる。気付かれないうちにここを閉めて、ここを去って。そう思ったのに、続きの言葉は聞こえてきた。

「何が」
「対処法。これっていう確実な方法のあるもんじゃないし、仕方ないんだろうけど……今回に限って言えば、『スルーして嵐が過ぎるのを待つ』っていうのは正解じゃないよね」
「……つうかスルーっていう判断がわかんねぇよ。ふざけんなって言えばいーじゃねぇか」
「だからそれを教えてあげれば?」
「俺が口出すのも変だろ」
「先輩方には変かもだけど、桜井くんに言うのは全然変じゃないでしょー」

 何か飲んでいるのか、ストローを通る液体の尽きたズズっという音と、紙パックをたたむ様な音が所々に挟まる。がさがさビニール袋の音が続いたところで、わかんねえよ、という声が繰り返された。

「あいつがユニフォーム着てんのは実力だろ。それで文句言われるのもわかんねーけど、文句言ってる奴らを放置するのはもっとわかんねー」
「桜井くんは平和主義なんだよ、大ちゃんと違って」
「怒るぞ」
「ははは。……それか、だから、わかんないんじゃないかなー桜井くんも。どうしたらいいのか。……頑張りすぎてて、見てて不安になるよ」

 ――強いね。怖くなるくらい。
 テーピングを施しながらそう言った声を思い出す。

「喧嘩すりゃいいって私が言っても意味ないだろうから、大ちゃんが言ってあげればいいじゃん」
「別に喧嘩しろとは思ってねーよ。つーかなんでお前が言うと意味ねーの?」
「……選手間でしか通じないこともあるでしょ」

 最後の一言だけは、少しばかり言いよどんで。それは彼女が未だ入部していないからだろうか、と桜井は思う。部外者は黙っていろ。そう言われることを察して恐れているのだろうか。……どうして入部しないんだろう、あれだけ働いていれば監督だって許しそうなものなのに。思考回路が外れかけたところで、それまでの会話のテンポを考えれば長い長い沈黙を挟んで、青峰が言った。

「……悪い」
「どういたしまして」

 重苦しく、むしろ自分が傷付いたような謝罪に対して、その返答が明らかに素早いし軽い。慣れている。
 二人はこの会話を――桜井のどうこうの話ではなく、選手間でしか通じない事柄、の話を、何度もしたのだろうか。一体どうして。……帝光で、だろうか。キセキの世代の分裂は、別の中学であってもバスケを続けていた桜井の耳には入っていたし全員が違う高校を選択したことからも察しはつく。双子のマネージャーは一人はバスケを続けていて、一人は帰宅部を名乗っている。それに何か、関係があるのだろうか。
 話題が変わったのを聞いて、今度こそ扉を音もなく閉めて静かに階段を下りる。それからずっと、彼女のことを考えていた。自分と同じく心無い噂を囁かれているにもかかわらず、まさか気付いていないはずもないのに、そちらに関しては一切触れない。怒ることも泣くこともしないでたた淡々と仕事を続けている。入部を許されていないわけではなく、本人が頑なに入りたがらないのだと知ったのは随分経ってからだった。
 長いこと耐え続けた桜井の、爆発、と呼ぶにはささやかすぎる事件を経て桐皇バスケ部での嫌がらせはいったん落ち着き、事態が収束しても、桜井にとって名前はなんとなく気になる人であり続けて。
 そうして、冬。

「――最近、桃井さんが……あの、……元気ないと思うんですけど……」

 言いにくかったのは、少し前までのような明らかな拒絶ではなかったためだ。
 姉妹喧嘩(と、さつきは表現した)は落ち着いて、名前はまた体育館に顔を出してくれるようになったし、教室でも目が合ってすぐさま逸らされるようなことはなくなった。ずっと落ち込んでいるような、誰に対しても戸惑って怯えているような、あの態度はなくなったけれど――ウインターカップ予選を見て以降だろうか、少しずつ少しずつ、柔らかくではあるけれど、遠くなってしまったような気がする。
 話してくれるし笑ってもくれる。彼女は入学当初からずっと桜井に対して優しい。けれど授業中、休み時間、放課後、ふとした瞬間に目を向けると決まって窓の外を眺めている、あの眼差しに不安を覚える。ずっと何かを考え込んでいるような横顔が、なんだか恐ろしくてなかなか声をかけられない。やっと顔を向けてくれても、その微笑がつくりもののような気がしてしまう。
 桜井の言葉少なな訴えに、さつきも少しばかり落ち込んだ様子で頷いた。

「なんかね、そっけないの。優しいことは優しいし、お願いすると聞いてくれるんだけど……上の空っていうか」

 心配事でもあるのかなあ。溜息と一緒に落とされた言葉が、渡り廊下で頼りなく消える。並んで部活へ向かう最中のことだった。今日も誘おうと思ったのにいつのまにか居なくなっていたのだと、重い口調で続けられた。靴もなくなってたから帰っちゃったんだと思う、とも。

「変な人に捕まってるんじゃないかと思って調べたんだけど、それもないっぽいし」
「変な人、ですか?」
「予選で、霧崎第一っていたじゃない? あそこの選手と話してて、引っかかっちゃったんじゃないかと思って……名前ってばイマイチ見る目ないから」
「え……」
「あ、でも大丈夫だったの! 携帯見たけど特に何もなかったし!」

 霧崎第一。そう言われて思い出すのは、冬よりもむしろ夏のことだ。花宮真。自販機の傍で寄り添うように彼女といた姿は、コート上の『悪童』とは随分と印象が違って見えた。名前。甘やかに紡がれた名前と、慰めるように頬を撫でていった指。思わず凝視したこと、すれ違い様に柔らかな笑みを嘲笑に塗り替えて見下されたことを覚えている。
 今の人が助けてくれたの。そう言った彼女は、戸惑った様子ながら疑ってもいない顔をしていた。
 あのとき感じた不安が強さを増して、桜井の気を重くさせる。

「……、ウインターカップも始まりますし、キセキ全員での対決が、不安なのかも……」

 むしろ、そうであればいい。桜井の、半分以上は思いつきのような台詞にさつきは表情を明るくさせて『そうかも!』と手を叩いた。テツくんに、何か知らないか聞いてみる! 想い人に連絡する理由ができたのも重なってか、それまでよりも足取り軽く体育館へ向かって進んでいく。反して足取りを重くさせた桜井は背後を振り返ってみたが、そこに名前の姿を見つけることはできなかった。


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2014.07.14