ほしいもの、か。
 古文の授業中、不思議と眠くなる音程で読み上げる教師の声を聞き流しながら、名前はくるりとペンを回した。ろくな説明もできなかった自分に対し、意外なほど的を得ていた慰めとアドバイスが頭の芯に残っている。何が欲しい。そのために何をするべきか。……目的地がはっきりしないで走るの、辛いやろ。いつも全てを見通したような笑顔でいる先輩の、意外と不器用な慰めは可愛らしくて心地良かった。ちょっと関わりのある程度の後輩にここまで優しく接して大丈夫なのかと別方向に心配してしまったほどだ。というのは自身に対する照れ隠しも含んでいると、名前は自覚できていない。
 欲しいもの、そのための手段。
 くるり、ペンが滑らかに回転する。受験時期についてしまった、女らしくないと言われる思考中の癖だ。
 言われてみれば――『上手くやる』こと自体が目的にすり替わっていたかもしれない。きれいな態度を取ること、上手に嘘をつくこと、誰にも本心を気付かせないこと。そうでもなければ私の居場所はどこにもない。けれど、そうしながら欲していたものは何だろう。

(……さつき)

 いい時も悪い時も、真っ先に思い浮かぶのは双子の姉の顔。
 可愛くて優しくて才能豊かで女友達がほぼゼロ。とはいえ最後の一点は、彼女が優れすぎたためなのだろうと名前は知っている。どの女の子も、自分と同じだ。さつき自身を嫌いなわけではなくて、さつきの隣で比べられることを恐れている。そのはずだ。だって誰かがそう言っていた。みんな嫉妬しているんだと。そうでなければ、あんな宝石みたいな女の子を嫌いになるわけがない。
 ――平和な日常が欲しい。心穏やかでいられる日々が欲しい。嘘はつきたくない。けど嘘をつかなきゃ平和な日常なんて得られない、――本当に?

(……いや無理だろ……)

 嘘をつかずに色んな人と上手く過ごすなんて無理だ。だって私はクズの自覚がある。色んな人を傷つけてしまう、さつきのことを傷つける。そうして世界に責められる。あんなに優しいお姉さんを心配させるなんて、あんなに綺麗な女の子を泣かせるなんて、あんなに完璧な女の子を悲しませるなんて。最低な妹。本心に気付かれてしまったら、私はどこにもいられない。

(……)

 くるくる踊るように回転していたペンがてのひらに収まって、とりとめもなく書き連ねていた『私』や『さつき』や『キセキ』『バスケ』の文字列をぐしゃぐしゃに塗り潰す。バスケを好きになれない。キセキを好きになれない。さつきに優しくできない。私はクズだ、知っている。知っている、から。
 細いペン先ではなかなか文字を塗り潰せなくて、丹念に何度も何度も線を重ねる。そうしているうちに、授業終了の音が鳴った。


「名前!」

 その声を、本当ならば無視したかった。そう感じることが罪悪だ。
 一瞬のうちに嫌悪と罪悪感と疲れを過ぎらせながらも名前は足を止め、振り返った。陽が落ちるのがずいぶん早くなった季節の空の下、輪郭を橙色に縁取られながら長い髪をなびかせて走る姿。全体的に細く華奢な印象があるのに女の子らしい柔らかさを併せ持つライン、桃色の髪がきらきらと光を弾く姿を、素直に綺麗だと感じた。

「よかったぁ、帰っちゃって、なくて……」
「……どうしたの、さつき?」

 膝に手をついて息を整えるさつきの横を、名前も知らない男子生徒が眺めながら歩いていく。今の子かわいーなあ。あれだろ一年の。桃井姉妹。あー、あれが。そこまで聞こえて名前は意識的に聴覚を閉じた。物理的に聞こえなくとはならなくとも、聞き流すことはできる。聞こえなかったことにすることはできる。それでもこれまで無数に繰り返した経験が、その先を連想していた。じゃあ、あれが妹。可哀想に。頭の中で作ったそれは、実質的には自分の声だ。

「あの。あのね、名前」
「……うん?」

 顔を上げた瞳が、光を映してきらきらしている。自分は今、対照的に暗い眼をしているのだろうとぼんやり思った。

「に、二年のね。マネージャーの先輩が今日お休みで、人手が足りなくって」
「うん」
「他の部にもね、お願いしてみたんだけどダメで、それで」
「うん」
「……名前に、手伝って欲しいんだけど、だめ?」

 答える前から拒否の言葉を想像しているのか、大きな瞳がうるうるしている。遠くに野球部だろう、掛け声が聞こえる。そういえば昔もこんなことがあったな、と少し思った。大半の場合は名前が折れてきたので、この双子の間で、喧嘩はそれこそ数えるほどしかなかったけれど。それでも名前が本当に怒ったとき、悲しんだとき、さつきにも青峰にも背を向けて部屋や布団に潜り込んで鎖国や国交断絶を決め込んだとき。さつきはいつもこうして、何気ない日常会話やこれまでどおりのお願い事のふりをして、距離を測ってきたのだった。名前の機嫌が直っていればそこで元通り、だめなら断絶続行の流れで。幼いころから変わっていない姉のご機嫌伺いの仕方に、名前は隠しようもなく大きな深呼吸じみた溜息をついた。細い肩が、怯えるように震える。ほぼ無意識に、長い髪に手を伸ばした。

「……?」

 さらり、指どおりも滑らかな桃色の髪は、甘いにおいがする。
 これまで見たことのない反応に驚いているのだろう、どちらかというと大人びた顔立ちをしているけれど、不思議そうな表情は幼いままだ。途方にくれた子犬のようにわんわん泣く顔を思い出して、小さく笑った。
 美しく完璧な双子の姉。彼女を悲しませるなと誰もが言う。彼女を尊重しろと口を揃える。それだけの価値があると知っているけれど、自分が持っているクズの素質がなかなかそれを許さない。これは、嫉妬、なのだろうか。どうしたら乗り越えられるのだろうか。どうしたら、私はさつきに、……嘘をつく以外で、猫を被る以外で、妹キャラを貫く以外で。優しく、できるのだろうか。

(……私は、さつきに、優しくしたいのか)

 嫌いか、と問われれば――嫌いなはずがない。姉だ。世話も手もかかるし面倒くさいのも鬱陶しいのも本当だ、だけど家族だ、嫌いなはずがない。嫌いになれるわけがない。そうだよね? そうに決まってる。
 黒子くん関連は本当にくそめんどくせえ死ねと思うけど。大ちゃん関係のことも心の底から面倒くさいけど、姉と幼馴染が相手なのだし仕方ないとも思っている。バスケに関しては全然好きになれないけど、それでも続けてきたことだし出来なくもないし試合になれば応援したい程度のモチベーションはある。選手には到底かなわないだろうけれど、モブ系マネージャーとしては問題ない程度の情熱はある。それさえ隠そうとしていたけれど、本当はいいんじゃないのか、それで。
 平和な日々を手に入れる。
 それは、さつきを拒絶しなくたって、いいんじゃないのか。嘘をつかなくたって、できるんじゃないのか。

「名前……?」

 こてんと首を傾げる仕草に、にっこりと笑みを向けてみる。不安そうにしかめられていた眉が、空が晴れるように表情を明るくしていく。それを綺麗だと、可愛らしいと思うのは、本当のことだ。

「さつきは可愛いね」
「え、え? 何、いきなり!?」
「素直な気持ち」
「……何それえ!? もー、名前ってば変! 最近冷たいと思ったらいきなり! 意味わかんないっ!」

 ぷんと顔を背けてしまったものの、そこから居なくなろうとはしないし白い頬を赤くしている。手を伸ばしてみると、冷たい二の腕に触れた。

「さつき」
「……なに?」
「心配かけて、ごめんね」

 振り返った顔が、泣きそうに歪む。少しの沈黙ののち、ほんとだよ! という声とともにぎゅっと抱きつかれた。
 可愛いと思ったのも心配をかけて申し訳ないなと思ったのも、本当のこと。本当のことだ。だから今回のこれは間違っていない。目を閉じて、ふわふわ豊かな胸に顔を埋めた。


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2014.07.06