ごめん。なんか体調悪いから。大丈夫たぶん寝てれば治る。ごめん。本当にごめん。……ひとりにして。寝させて。
 死んだような顔色で無感情に言う妹の姿にさつきはそれでも繰り返し食い下がったが、とうとう鼻先で部屋の扉を閉められ間髪入れずに鍵もかけられ涙目になった。名前。ねえ、名前ってば。何度もノックをして大きめの声で呼びかけてドアノブを鳴らしても――やがて気付いた両親が話を聞いて『そういうことなら寝かせておいてあげなさい』と告げるまで、それは続いた――名前が出てくることはなかった。
 妹の静かな、けれど確かな拒絶はそれ以降も続いたが、翌日になると姉がそれを気にかけることはできなかった。幼馴染との喧嘩、仲直り、想い人との話、それに何より次の試合に向けての準備。名前が部屋に篭るのは頻度こそ低いが昔からたまにはあることであり、特別気にかけるべきではないと判断した部分もある。よって、問題が表面化したのは秋口に入ってからのことだった。

「久しぶりやな」
「……今吉先輩」
「桃井が嘆いとったで、最近名前が全然つかまらんって」
「ははは」
「ワシも寂しい」
「……ははは」

 泣きたいのだか呆れたいのだかわからない顔で声だけはしっかり笑って見せた名前に、これは重症だ、と今吉は内心驚いた。あらゆる意味で問題児の一年エースと、その専用メンテ役のような扱いで入部してきた一年マネージャー。その二人に巻き込まれる形でバスケ部に関わり、要所要所はうまいこと手綱を握ってくれている名前はバスケ部レギュラーからすれば影で頼りにされている後輩だった。青峰がどうにもならない、桃井を呼べ。桃井がどうにもならない、桃井の妹に頼め。マネージャーでもないのに入り浸る名前を疎ましがる声も最初はあったが、下手をするとマネージャー以上にてきぱき働いて部室には立ち入らずにさっさと帰っていく様子から徐々に小さくなっていった。マネージャーになればいいのに。最初から言われ続けているその台詞は、少しの嘘も含まれていない。

「……ちょーっとだけ、お話せん?」

 缶ジュースを目の前にちらつかせて言うと、名前は困ったような表情で今吉を見上げた。身長差的に無理もない視線なのだろうが、男としては心がざわつくものがあるのであまりそういった顔をしないでほしい。

「勧誘と違うから」

 濡れたような黒い目が、ぱちりと瞬く。
 勧誘ではない、というのは、目的を考えれば厳密には嘘だった。名前の様子がおかしいんですと落ち込んだ様子で言う桃井や、最近あんまり顔を合わせることがなくって、と心配している様子の桜井、相変わらず部活に顔を出さない青峰、他の部員達やマネージャー達のことを考えるとバスケ部に引っ張っていったほうが早い。今吉としても名前が正式にマネージャーになってくれればと、思っている部分はある。
 けれど。

「……いただきます。ありがとうございます」

 缶を受け取って、力なく笑った後輩の姿を見るとそんなことは言い出せなかった、し、望んでいたことすら申し訳ない気分になった。
 やっぱ嫌だったんやなぁ、と、落胆と罪悪感がない交ぜになる。薄々であるが予想はできていた、けれどまさか本当にそうだとは思わなかった。薄手のカーディガンを羽織り始め、隠れがちの指先を取って導く。人の気配を充分撒いて空き教室に入ったところで、ちょうど授業開始のチャイムが鳴った。

「……先輩、さぼって平気なんですか?」
「ワシが言い出したことなんやから。でも、こんなタイミングで誘ってもうてちょっと悪かったな」
「いえ、むしろ助かります」

 適当なところに座った名前と、席ひとつ空けた隣に腰を下ろす。
 手元に視線を落としているその横顔を見て、やっぱ重症や、と心の中で繰り返した。
 桃井名前は決して嘘が上手い人間ではない、と今吉は考えている。彼からすれば嘘が上手い人間というのは少数派なので、一般的にはそれほど下手ではないだろうが、それでも上手い方の分類ではない、とも。
 なのにどうして、バスケ部に関わるのが本意ではないなんて程度のことを見抜けなかったかというと――彼女は嘘が上手くはない分、隠すのが上手かった。今吉ほどではなくとも多少鋭い人間ならばわかるような、ふとした瞬間の仕草、視線、声。感情が露に出る部分を実に絶妙なタイミングで誤魔化す。少し注意が逸れていれば、ではない。注視していなければ気付けない、偶然だろうと思えるささやかさで、巧みに隠す。
 ただ気付いてしまえば察することはできた。隠すということは、そこに疚しさがあるということだ。
 勧誘ではないと伝えたとき、名前は少しばかり安堵の色を見せて笑った。つまりはそういうことなのだろう。

(……案外、寂しいモンやなぁ)

 それなりに有名人、それなりに人気者。特定分野で名を上げて実力を誇示した結果としての入学であり入部だ。当然ながら桐皇のバスケ部には、そういった人間しか集まっていない。今は一年の青峰に代表されてしまっている面もあるが、キセキの世代が参入してくる前からずっとそうだ。今吉も間違いなくその一員で、昔からそうだという自覚もあった。クラスの人気者。女子生徒に憧れられる存在。ある種の人間からすれば手の届かない、――有体に言うと、女子に嫌われる方の男子ではない。異性に持て囃される人間の常として、それを疎んでいる部分も多少はあったのだけれど。
 いざ、自分に興味を抱かない女の子が目の前にいるとなると。しかも多少なりとも、ではなく、可愛い後輩だったりすると。
 一抹の寂しさに区切りをつけ、頭を切り替えて口を開いた。こんな空しさを味わうために呼び出して授業をサボらせたわけではない。

「ワシが訊くのも変な気はするんやけどな、……何があったん?」
「……何かあったこと前提ですか」
「んー。何もなかったら、名前はもうちょい上手くやるやろ」

 伏せがちだった眼が見開いて今吉の姿を映し込む。思ったまま口にした言葉だったが、それは彼女の琴線に触れたらしい。良いか悪いかはまだ判らないが。
 桃井名前はとても器用な人間だ。嘘の使い方、隠し方からもそれは窺える。そして基本的には心優しい女の子だとも今吉は考えている。気付いてみればわかりやすかった彼女の嘘や、声や、あえて空気を壊すような話題運びは、いつもその場の空気や誰かを穏やかにすることに尽くされてきたから。
 その器用で優しい人間が、唐突に今まで守り続けてきたルールや場所に背を向けたのだ。それなりに気を配れば桃井にも桜井にも気付かれないように、あるいは納得させて離れることもできたに違いない。けれど彼女は今もなお、視線を彷徨わせて言葉の一つも紡げずにいる。
 忙しなく視線を揺らしていた名前はやがてぎゅっと瞼を閉じて――できなくなったんです、と、消え入りそうな声で言った。

「……できなくなったんです。今までできていたのに、完璧だったはずなのに、急に、全然できなくなって」

 俯いた顔の下、机に置いた缶を握り締めている両手の指先が白く色を変えている。

「わからないんです、自分でも、何が、こんなに……」

 その先は言葉にならなかったが、今吉には『つらいのか』と続くような気がした。
 考えもせず、衝動的に手を伸ばす。白く冷たい頬は濡れてはいなかったが、それでも名前は泣いているような気がした。顔に触られても反応しない名前をいいことに、頬を撫でさすって、もう片手で頭も撫でる。小動物を愛でるような慰めるような動きは自覚したことではない。

「……何が、欲しかったん?」

 ゲームは得意だ。人の状態を読むのは得意だ。親しい人間にほど、あるいは試合で直面した相手にほど、嫌がらせが上手すぎると言われてきた。それでも――泣くこともできないような女の子を慰めるなんて、高校生の部活漬け男子には経験がなかった。色恋がこじれた話でもないなら尚更だ。少しも上手くできる自信がない。その不安が今吉の声を僅かに細くさせていた。それでも絶対放っておけないという想いが、慌てるように詫びるように、彼女の輪郭を撫で続けていた。

「『できる』ことで、何が欲しかったん? それはたぶん、あくまでも手段やろ?」
「……」
「それとも、『できる』こと自体が目的だったんか? 責めてるんと違う、ただ考えてみ。目的地がはっきりしないで走るの、辛いやろ」
「……先輩」
「あー、んな、うー、例えがバスケになって悪いんやけど。ウチのバスケ部の目的は勝利や。それ以外ない」
「……はい」
「だから年功序列とか全部切るし、一年坊主をエースにもする。それが気に入らない奴等は辞めるか、最初から入っとらん」
「はい」
「似たようなタイプ集めたとはいえ、主義主張はそれぞれ違う。けど勝ちたいから、ウチの戦法がそれだから、って理由で納得してる部分はあるんや。レギュラー皆。ワシにもそういう部分はある」
「……」
「多少納得いかなくても、気に入らない部分があっても、勝ちたいからまとまれる。そんで、勝っとる」
「はい」
「……名前、何が欲しい? それは、『できる』をクリアしないと手に入らんか? 別の手段もあるんちゃう?」
「……」

 向かい合う黒い瞳が、ゆっくりと凪いだ海のような印象を取り戻す。穏やかで優しくて包み込むようで、といったばかりではない、理性的な色だ。今まで気付かれなかった……気付こうとしなかった一面だ。たった一度判れば、こんなにヒントがあったのに。

「先輩」
「ん?」
「……近いです」
「ぅお」

 顔中頭中を撫でさすっていた手が名前の両頬に終着していて、ひとつ開けて座ったはずの席もえらく距離を詰めていた。どうも膝に何か触れると思ったら間にあった椅子が窮屈そうに挟まっている。慌てて身を引いた途端にぶつかりあってガタガタ鳴り、感情をどこかに置き忘れたような無表情でいた名前が、思わずといった様子で笑った。

「、笑わんといてや」
「今吉先輩って、案外優しい先輩ですよね」
「案外って、ワシはいつも優しいやろ」
「ふ、はい。そうですね」

 笑っているくせに、心からそう思っているみたいな優しい声で言うから。ふざけることもできずに、柄にもなく照れくさくなって中途半端に笑みを浮かべるだけで精一杯だ。
 そんな今吉をわかっているのかいないのか、名前は少しばかり目を伏せて、ありがとうございます、と囁いた。静かな教室に二人きりだからこそ聞こえる程度の音量で。

「今吉先輩はいつも、優しいです」

 微笑む顔が今はもう繕っているようでも、泣いているようでもないから、それでいいとする。
 あまり見つめていると頬が熱くなってきそうで、微妙に目を逸らしたまま我ながら不器用に返事をするとくすくす笑う声が聞こえた。ああもうそれでええ、笑ってくれてええ。諦めたようなほっとしたような心地で、……次のチャイムが鳴るまでにもうそれほど余裕がないことだけは、残念に思った。


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2014.07.04