私は何か前世でひどい悪事でも働いたのだろうか。今世では前世の罪を償い続けているのだろうか。
 いよいよ病んできた考え方を自覚しつつも、名前はさつきが置いていったレモンのハチミツ漬け(丸のまま)をそっと鞄の奥へしまい込み、そこに置いてあった自作のレモンのハチミツ漬け(スライス済み)を取り出した。レモンを輪切りにしてハチミツに浸すだけの、料理とも呼べないそれをさつきに教えること数十回。今はもう完全に諦めて、こうして秘密裏に自分で作ってきている。さつきのためではなく自分のためでもなく選手達のためだ。好きでやっていたわけではないとはいえマネージャー歴三年、ハードなスポーツをする部員達を見てきて、その程度の気遣いはするようになった。休憩時間に差し出されるのがアレとか目も当てられない。
 レモンの水分でいい具合に薄まったハチミツ部分をボトルに取り、簡単なドリンクを作る。量がないので一人あたり紙コップ一杯程度だが、そもそも一人一本ボトルは持っているので足りるだろう。レモンは大皿に一気に上げてしまい、簡易的な休憩スペースを作って監督のところへ行くと、ちょうど通話を終えたところだった。

「監督」
「はい。青峰くんは無事だそうです」
「そうですか……」

 前回の試合で負傷していたらしい大ちゃんに、気付いたのは今朝だった。別になんともねーし試合出れる、と言い張る大ちゃんを無視して、大事を取って試合を休ませたのはさつきだ。確かに大した怪我ではないだろうが、スポーツ選手にその類の油断はなにより危険だ。この時期だとインターハイ本戦も出られないだろうな、と思いつつ病院へ同行を申し出て――さつきによって却下された。
 病院には私がついていくから、名前はマネージャーとして残って。
 人によっては気遣いにも聞こえるその言葉の真意はどんなものであったのか。今日当たる相手、さつきのデータ能力、自分に雑用しかできないこと、青峰の怪我はおそらく本当に大したものではないこと――第三者的に、状況を前提にして考えて、それが最良の選択ではないと名前は知っていた。わかっていながら、頷いた。この眼をしている姉には何を言っても無駄だと一瞬で悟ったためだ。
 青峰がその場で何も言わなかったことは、少なからず名前を落胆させた。お前ほんとにバスケもチームもどうでもいいんだな、マジでバスケやめちゃえばいいのに。と、気を抜けば口走りそうだった。
 あまり評判のよろしくない、初めて当たる相手。一人一人がずば抜けているとはいえ、ぼんやりした知識しかないまま挑む選手達。その場にマネージャーとして誰が必要かなんてわかりきった話だ。
 軽い練習ならば気付かれない程度の負傷に、病院への付き添い。下手をすれば必要がない――見張り程度の役割でしかない付き添いに、参謀と雑用係のどちらが相応しいか。考えるまでもない話だ。
 事実、部員達の多くは名前と同じことを思っただろう。監督と名前へ向けられる無数の視線がそれを物語っていた。なんで何も言わないんですか。なんでお前がこっちに残ってるんだ。無言の圧力に、返される答えは無い。

(……なんだかな。大ちゃんもさつきも、なんだかなぁ)

 何を気取っているのか知らないが、お前らのドラマティックに巻き込まれる人間の身にもなれよ。この人達は真剣にバスケに青春捧げてんだぞ。私が言うのも変だけどさぁ、言わないけどさあ。バスケが好きで大事だってんなら多少は考えろよ。ちっとも好きじゃない私にこんなこと思わせるなよ。

「手、震えてんで」
「……今吉先輩」
「緊張しとる? ここ空気悪いもんなぁ、スマンな、こんな状況で」
「……いえ……こちらこそ、私で」
「顔色悪いで」
「私で……すみません」
「…………」

 残るべきは私じゃなかった。
 ここに居なくても問題ないのは私じゃなかった。
 なのに私はここにいて、帝光を全中三制覇に導いた眼を持つ女神とエースはここにいない。
 結果――負傷者が、ひとり。大ちゃんのポジションに入っていた先輩が、足をやられて退場した。入ったばかりの一年に、キセキの名を冠した一年にポジションを奪われ、代わりのように再び投入されて、おそらくはスタメンの座を奪い返すつもりで活躍していた、先輩が。

「……っ、」

 さつきがいれば避けられたかもしれない事態だ。
 大ちゃんに付き添うのを、どうしても私がやると言い張っていれば。さつきを縛り付けてでもここに残していれば。私が、私がもう少し、

「そんなん言いなや」
「……」
「桃井が――違うな、名前が。いてくれて、助かってることも仰山あるで。レモン旨いしな」
「……貴重な休憩時間にまで、お気を使わせてすみません」
「うは! だから謝んなや、仲ええからって桜井のが移ったか? んー?」

 頭をわしわし撫でられて、上を向かされる。『ん、泣いてないな』と初めて聞くほど柔らかく言われ、眼鏡越しに合った目が優しく細められた。

「大丈夫や。ワシらもアイツも、なんともない。バスケやってりゃ多少の怪我は覚悟の上やし、ちゃーんと予防できとる」
「……」
「アイツも、こんなとこで諦める奴とちゃう。きっちり治してリベンジマッチかますに決まっとるし、この試合はワシらが勝つ」
「……、はい」
「よし」

 そうだ。過度の心配は、失礼だ。なったもんは仕方がない。なんて言い方は大嫌いだけど、でも起きてしまったことは確かにどうしようもない。過去に対してできるのは、今後に活かす、それだけだ。大ちゃんとさつきの対応についても考えなければいけない。

「それにな、あっちのチームのあいつ、ワシの後輩なんよ。だからちゃんと対策も情報共有もできとるで」
「え」
「まー、ここまで荒っぽいとは思わんかったけどなー……ありゃ完全に勝ちを捨てて来とるな」

 少しばかり苦笑して相手側のベンチを見やる、その横顔はラフプレーをかます敵チームを、というよりは確かに手のかかる後輩へ向けるような穏やかなものだった。ついつられて同じように見た先には、キャプテンらしい選手がなにやら図を広げてチームメイトに話をしている。長身と黒髪と、特徴的な眉毛。霧崎第一は進学校だったはずだが、それにしては随分選手達の柄が悪い。

「花宮真ってゆーんや。あれで結構かわええで」
「……今吉先輩にかかれば皆かわいいじゃないですか」
「おう、まあなあ。中でも名前は一番かわえーで!」
「……私バスケ部じゃないですよ。もう、適当なことばっか言うんですから」

 ふっと笑って、頭の上に乗ったままだった先輩の手を退ける。もう大丈夫です、の意思表示は伝わったらしい。苦笑とともに、『お前はもう少し手がかかってもええんやけど』と呟いた。いつもへらへら笑って飄々として、誰のこともお見通しなような先輩は、これでもしっかりキャプテンなのだと、思う。
 ……後輩だからって端から端まで手をかけてやるようなやり方は、どうかと思うけれど。もう少し自分を重要視してはどうかと。

「あの、今吉サン……」
「おー。再開か」
「……お気をつけて」

 呼びにきた部員が、控えめに声を出す。ベンチの端で存在感を消していたつもりだったが、やはり部員の何人かは気になっていたらしい、チラチラと向けられる視線があった。皆もっと一杯一杯だと思ったけれど。そうでもなかったのだろうか。
 ……試合のことは、最終的には選手達にしかわからない。過度の心配は失礼だ。個々を重視する桐皇だからこそ、先輩達は強いし、勝つ。――怪我して退場したとしても、またコートに戻ってくる。
 今の私にできることは、マネージャーのするべきことは、支えることと信じることだ。
 もう大丈夫です。もう一度そう言うつもりで頷くと、今吉先輩は意外なほどやわらかく笑った。

「よっしゃ、勝つでー」
「おう」
「ハイ!」
「はいっ」
「はい!」

 目が合った桜井くんが、口の形だけで『勝ちます』と言ったのがわかって、頷いた。


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2014.06.18