分をわきまえている。
 赤司征十郎から桃井名前に対する印象は、突き詰めてしまえばその一言だった。
 出しゃばることをせず、卑屈になることもなく、淡々と役割だけをこなす――けれど無機質なわけではない。幼馴染だという青峰には気安かったし、双子の姉である桃井には目に見えて柔らかく接していた。黄瀬に騒ぎ立てることはなく、近寄り難いであろう緑間相手に構えている様子も見られない。紫原に菓子をねだられ、苦笑しながらもポケットを探っては飴玉やチョコレート菓子を渡している姿も見られた。黒子の影の薄さを感じないらしく、あそこにいるよ、と教えていることがしばしばあって、灰崎に至っては普通に会話していることもあった。言ってみれば、彼女の態度はあまりにも普通だったのだ。同級生として、同じ部のマネージャーとして、近くも遠くもない一生徒として。一軍の中にいてもキセキだけに視線を向けることはなく、無視をするわけでもなく、そのくせ一線を引いていて。選手たちがバラバラになりはじめた時期も、彼女は双子の姉を慰めなだめる程度に留めて選手達には一切介入しなかった。二軍三軍はまだしも、一軍の担当は桃井さつき。自分はその補佐でしかない。そう、言葉でも態度でも示していた。

 ――大ちゃんと誰かが喧嘩でもしたの?

 亀裂と分裂を静かに見守っていた彼女が、報告ついでの雑談のように口にしたのは、そんな砕けた表現だった。そういう次元のものではないとわかっていても、敢えて些細なことのように表現する。それは少ない接点のうちに知った彼女の癖でもあった。相手が本当に切羽詰っている時にはそっとしておくか気付かれない程度の助け舟だけ出して、口を出さない、ということも。
 三度目の全中を終え、黒子が姿を消し、書類上でも解散寸前。そんなときになってようやく口に出した彼女に感じたのが、呆れであったのかある種の感心であったのか。赤司は自覚していない。
 ただ、端的に状況を説明した、その直後に彼女が小さく笑ったのを覚えている。

 ――何だ。
 ――いや、ごめん。不謹慎だった。
 ――何がだ、言ってみろ。
 ――……。

 怒らない? と、少しだけしかめられた表情が云っている。言ってみろ。繰り返した声に――いつもなら気にすることもないはずなのに、どうしてそのときに限って何度も問いただしたのか、そのときは自覚が無かった――彼女は少し視線をずらしながらも、答えた。

 ――音楽性の違いってやつか、と思って。

 なんて皮肉めいたことを言う女子だと思った。おそらく自分でもそう感じているのだろう、決まり悪そうに視線を泳がせてごめんと繰り返す。けれど、彼女の言葉に、なんだか笑えたのも事実だ。
 音楽性の違い。わかりやすくてわかりにくくてシンプルな、決裂のフレーズ。この場にそれをあてはめる彼女の感性は、鈍くはないが悪趣味だ。そして――すとん、と赤司を納得させた。確かにその通りだ。言ってしまえばそれだけのことなのか。言葉の軽さが、彼の気分を多少なりとも軽くさせた。
 黙ったままの赤司を怒らせたと思ったのだろう。ごめん、と先程と同じ、反省はしているが重くはない謝罪を繰り返して、報告を切り上げる。いつもより少し早足で去っていく背中を、消えるまで見つめていた。その場に一人きりになって、我に返って、少し笑った。ずいぶん久々に笑った、と、そのとき思った。
 多少なりとも頼りにしている桃井さつきの、双子の妹。
 それだけに集約していた桃井名前という存在が、そこから少し変化した。
 とはいえ彼女の態度はキセキの分裂を知っても何ら変わりはしなかった。一軍専用の体育館には報告時にしか顔を出さない。青峰や他の誰かに干渉する様子もなく、マネージャーリーダーとして忙しく立ち働いていた。誰より桃井を慰め、報告時に一軍の練習風景を見ては息苦しそうに目を伏せる。それでも毎日、彼女の口から伝えられることは二軍と三軍の報告だけだった。
 分をわきまえている。
 短く表現できる印象の、意味合いが変わっていくのを自覚したのは、どの段階だっただろう。どこまでも『普通』であり続けた、おそらくは強く自分を律していたのだろう彼女の姿勢に、最初は気付かなかった。気付けば好ましかった。それから少し、理由もわからないまま、もどかしくなった。
 幼馴染と双子の姉以外は誰のことも苗字で呼ぶ。特別扱いをしない特別は、相手の負担になることを恐れたためだろう。青峰にさえ遠くからしか気遣わない様子がそれを窺わせた。他の誰が気付かなくとも、赤司は気付いた。天帝の眼と呼ばれる能力のためか、単純に彼の資質か、他の何か(たとえば、恋する男の過敏さだとか)か。気付いた理由を赤司が自覚することはなかったけれど。
 慈愛のような、痛ましいような視線で見つめながらも、踏み込みはしない分別。彼女はいつも己の分をわきまえて、役割だけに徹して――それが結果として、誰かの助けになると知っていたのだろう。信じてもいたのだろう。手や口を出さないことが、邪魔をしないことが、求められたことだけを果たすことが、誰かの。赤司の、役に立つと信じて。

 赤司征十郎は鈍感な分類の人間ではない。
 けれど彼女の想いに気付くには少しばかり時間がかかった。態度にも言葉にも出さず、まるで彼女自身でさえ気付いていないかのような扱い。けれど部員達と話しているところに割って入れば――たいていは黄瀬や紫原だった――安堵したようにこぼれる笑顔や、廊下で頻繁に合う視線。そのたびの慌てたような会釈や挨拶。動じることの少ない彼女の、ほんのすこしだけ赤い頬。赤司くん。双子の姉と同じように呼ぶ声がわずかに甘く優しいのは、彼女にも自覚のなかったことかもしれない。レギュラー陣での外出に同行させた際は、赤司の隣に多く居た。
 恋されていると気付いて、赤司は彼らしくもなく動じた。慕情を告白されたことはある、恋人にして欲しいと見知らぬ少女に求められたこともある。とはいえ赤司自身には誰か特定の人物へ想いを寄せた経験はなかったし、生まれと育ちを自覚してそういった話題を避けてきたところもあった。赤司の子息は、やがて相応しい女性と結ばれることを義務付けられている。叶わない想いは持たない方がいい。そういう言い訳で、興味のない自分自身から目を背けてきたのかもしれない。何より彼には、わからなかった。ろくに言葉を交わしたこともないのに恋を伝えてくる少女達が。好きだという、その言葉の意味が。
 けれど名前はまたしても、他の女子とは全く違った。言葉に出さず、積極的に接点を持とうともしない。ただ瞳から零れる熱に、赤司が気付いてしまっただけの事だ。本人が言わないのだから気付かなかったことにするのがきっと正しいマナーなのだろう。そう思いながらも、ちりちりと痛むような熱に、赤司にかけられる普段よりも柔らかな声に、意識を向けないなんてできなかった。
 冷静に考えて、桃井名前を嫌いな訳がない。意識して普通であろうとしてくれる少女、線引きを間違えない冷ややかな聡明さは赤司の好む類のものであったし、種類こそ違えど桃井さつきに負けず劣らず頼りにもなる存在だ。与えられた役割と分をわきまえ、その枠組みの中で精一杯に働く。友人付き合いはしていないが部員達への態度や日常生活を見るに、人間として嫌いなわけでもない。想いを募らせながらも気付かせず一歩引いている様子は、いじらしいとさえ感じる。
 けれど彼は赤司征十郎、王であることを求められた少年だった。
 誰よりも高みに立たなければならない。誰のことも切り捨てられなければならない。いつかは然るべき女性を、腕の中へ迎えなければならず――それは桃井名前ではない。
 ああ、だからか。
 彼は深く納得し、彼女の聡さに同情した。賢く、場を読むことに長けている彼女は、恋をしながらも愚かにはなりきれなかったのだろう。きっとすぐに気付いてしまったのだ。自分自身と恋した男、赤司の、立場と役割を。たとえ想いが通じたところで、共には歩めない未来を。
 だから口にも出さず態度にも出さず、息を潜めて心を殺すようにして。
 何か言いかけて口を開き、なんでもないよと誤魔化して笑った顔を思い出し、赤司はやはり彼女に同情した。可哀想に。もう少し愚かであれば、もしくはもう少し冷たい人間であれば。告白さえ許さないような男に、想いを寄せることなど無かっただろうに。

 ――洛山?

 あの日の会話は、一種の賭けだった。赤司なりの、謝罪と受容のつもりだった。
 そういえば赤司くんは、進学先を人に知らせてないんだね。同じところに行きたいのにって言ってる女子が嘆いてたよ。まるで他人事のように、軽く笑ってそう言った彼女に。ああ、ついてきたいのか、とそのとき知って、そんなことにも思い至らなかった自身に呆れた。好きな男についていきたい。そんな当然のことにも気付かないほど、色恋について自分は疎いままなのか。もしかしたらずっと解らないままなのかもしれない。彼女が抱き、傷付きながらも手放せないでいるその想いを、完全に理解できる日など来ないかもしれない。彼女の痛みの半分も解らないまま、違う女性を腕に迎えなければいけないのかもしれない。
 可哀想だ。こんな男を好きな彼女が。

 ――そう。知っているかい、京都だ。

 気持ちには応えられもしないくせに、一部の人間以外には内密にしてきた進学先を明かす。
 残酷なことをしている。知っている。
 見開かれた黒曜石の瞳に薄く笑って、洛山高校、と繰り返す。彼女の学力では厳しいかもしれないが、不可能ではない。――追ってきても構わない。傍に居ることを許す。そう言葉に出さずとも伝わったのだろう、日誌を書いていた白い手がぎゅっと強く握り締められたのを見た。それでいい。
 こうして進学先を彼女だけに打ち明ける限り、自分が許す限り、きっと付いてくるのだろう。報われぬ想いと知りながら、苦しみながら傷付きながら。せめて赤司征十郎のために働こうとするのだろう。これまでのように。これまで以上に。他ならぬ赤司自身がそれを許したのだから。
 ――予想が裏切られたと知ったのは、入学して少し経ってからだ。


「桐皇に進学したのだと知って――僕は少なからず驚いた」

 随分久しぶりに会ったような彼女の隣で、顔も向けずに言う。突然声をかけたにもかかわらず、あまり驚いた様子はなかった。こうなることを予想していたのかもしれない、と少し思う。自分に彼女の意思がなんとなく伝わっていたのと同じように、彼女が赤司の思考を先回りして行動したことも幾度もあった。
 この再会を、心待ちにしてくれていたのだとしたら。……嬉しい、と思っていいのか、赤司には判断がつかない。

「君は、青峰や桃井とは行かないと思っていた」

 追って来るとばかり思っていた。
 戸惑い、気まずそうに視線を落としていた顔が静かに上げられる。隠しようもなく驚愕の色を映した瞳に、珍しいなと薄く思った。優しく柔らかく人当たりのいい少女。その表情のほとんどが取り繕うようなものであることに、気付いたのはいつだっただろう。その場その場に相応しい態度と表情を差し出そうとする彼女の性質に、気付いたのは。
 ……それを突き崩しているのが、いつも自分だと知っている。
 見開かれた大きな眼はやがて彷徨い、下がって、再び赤司へ向けられた。疲れたような、悟ったような笑顔。

「……赤司くんはお見通しだったんだね。ずっと」

 悲しげに目を伏せて口にする言葉は、赤司の仮説をすべて肯定した。やはり追いたい気持ちはあったのだろう。けれど理性や不安に邪魔されて、結局は幼馴染や双子の姉と同じところを選んだ。――会話がすぐに繋がったあたり、未だに迷っているのかもしれないが。
 自身も薄く微笑みかける。今は彼女に自覚があったことに安堵した気分だった。恋がひとつ暴かれたというのに、彼女は照れる素振りもなくアイスティーを一度かき混ぜた。ミルクを足したわけでもないそれに色の変化が現れるわけもなく、からんと氷が鳴るだけだ。諦めたような眼をしていた。

「……確定ではなかった。君は難しいから」
「褒めてくれてるの? それ」

 くすくす笑う、その顔がどこか辛そうで痛ましい。
 告げることもできず追うこともできなくなった、諦めさせた恋を、もう実ることはない想いを、わざわざ暴き立てに来て。赤司には、残酷なことをしているという自覚はあった。恋心は理解できないまでも、彼女を苦しめることは本意ではなかった。それでも。

「本心だ。君は僕が考えていた以上に難しく、自律的で、自己評価が低い」
「……? 赤司くんの買いかぶりすぎじゃないかな」

 訝しげに上げられた顔が、かたちばかりの笑みをつくる。見慣れた笑顔だった。中学時代、幾度となく彼女を苦しめるたびに見た笑顔だった。
 ああ、また彼女を苦しめようとしている。わかっている。それでも。

「――名前。君に、謝らなければいけない」

 名前を呼ぶくらいで、そんなささやかな見返りで、彼女のこれまでに報おうなんて考えてはいないけれど。

「な、何を? 私、赤司くんに謝られるようなことされてないけど……」
「君のそういう態度が僕を増長させることになった、という点では、反省を求めたい」
「え……」

 あまりにも当然のような顔をして全て受け入れてくれるから。盲目的なまでに赤司の判断を信じてしまうから。自分の意思をどこまでも蔑ろにして、人に委ねてしまうから。
 だからあのとき、決別してしまった。一番伝わってほしい言葉だけが、上手く伝えられないで。結果として桃井名前は赤司征十郎を追わず――おそらくそれが互いにとって最善だと信じて――連絡先のひとつも交換しないで。関係は、途切れてしまった。

「僕らは……言葉や態度に出すということを怠りすぎていた。言わなくても通じるものがあった、その事実に甘えて」

 通じないことだっていくらでもあったし、自覚のなかったこともある。
 進学先を伝えたあのとき、彼女は本当はどう感じていたのか。自分は本当は何を考えていたのか。ついてきてもいいと許したつもりで、――本当は、ついてきてほしかったのだと、自覚したのは彼女が居ないと気付いてからだ。ほんとうに自分でも、呆れるほど鈍い。
 白い手を取り、包むように触れる。細い肩がびくっと跳ねて、怯えたように名前を呼ぶ。赤司くん。幾分かたいけれど、やはり柔らかく甘い声。反射的にだろう、引こうとした手首を強く握った。

「……覆水は盆に返らない、こぼしたミルクを嘆く真似はしないつもりだ。僕がどれほど後悔しても、あの日の教室には戻れない」

 時間は戻らない。名前は桐皇の生徒としてこの会場に訪れていて、赤司は洛山の主将としてここにいる。
 ――けれど、会えた。たったひとり、試合も見ずに彼女はここにいた。おそらくは赤司を待って、ここにいたのだ。そうして再会は果たされた。
 白い手に落としていた視線を上げ、どこか怯えた様子の顔を見つめる。僕が、恐ろしいか。そうだろう。今も君に残酷なことを言おうとしているんだ。酷い男だと思うだろう、僕もそう思っているさ。けれど。

「こんなことは、言いたくないんだが――……」

 本当は、言ってはいけないことだ。彼女の想いを無視してきた。今の自分にとって彼女が必要だというのは、間違いなく利用に分類される。……利用という形でしか傍に置けない。想いには、応えてやれない。

「……僕は、僕が思っているより、君を頼りにしていたらしい」

 そうやって、耳触りのいい言葉で取り繕う。
 主将として。選手とマネージャーという関係として。友人として。どうとでも受け取れる言葉、けれど恋する少女にとってどんな意味になるか、どれほどの重みになるか。薄々察しながらもそう口にした。
 息を呑んだ音。彼女が再び、赤司に囚われた音。可哀想に。こんな男を好きになったばっかりに。

(それでも、君を離してやれないんだ)

 そう伝えられたなら、お互い少しは楽だっただろうに。
 不器用な作り笑いを見守りながら、握ったままの手をゆるりと撫でる。白く華奢な手は、僅かに震えているようだった。


next
===============
2014.06.27
「こいつ俺に惚れてるな」って時はたいてい『俺』が『こいつ』に惚れてる法則