「集中できていないようだね」

 主人公であるメイドが、雇い主のご子息の部屋から妙な声を聞く。猿のような、高くしわがれて不吉な声の紡ぐ言葉――というシーンでそう声をかけられ、反射的に肩が跳ねた。割とのめりこんで読んでいた私を無視して、隣いいかな、と椅子を引く。返事も待たず座った人は、見間違えようもなく中学時代の同級生であり――所属していた部活で、主将を務めていた人物だ。

「……赤司くん?」

 どうしてここに。その思いは顔に出たのだろう、『うちも出場校なんだ』と解りきったことを言った。私が疑問に感じたのはそういうことではないのだけれど、そこまでは伝わらないのか、あるいは伝わった上で答える気など無いのだろうか。薄く、口元だけで笑む。

「桃井はどうしてこんなところに?」
「……桐皇も、出場してるから」
「そんなことを聞いたわけじゃないと、君なら解るだろうにね」

 自分は答えないくせに、とは言えず、アイスティーのストローをくわえる。カランという氷の音は、間を持たせるどころか却ってこの場を白々しく演出した。
 インターハイ本戦、開始日。会場ではもう桐皇と海常の試合が始まっている。

「……」

 どう返答していいのかわからないけれど、さすがに無視して読書を続けられるほど無神経でもない。というかそこまで素直に生きられていたら彼と知人になっていない。閉じた文庫本のカバーを意味もなく整え、そこにじっと視線を落とす。
 バスケ観戦自体は嫌いじゃない。今日の試合は大ちゃんが最初からいるし、今吉先輩や桜井くんのことも応援したい気持ちはある。けれど相手は海常、エースは黄瀬くんだ。桐皇のベンチにはさつきが居る。確認はしていないが、客席には緑間くんが居ることだろう。黒子くんも、もしかしたら。帝光時代に同じ部活で過ごした、その主要人物がほとんど揃っている。……できるだけ見たくないし、会いたくない。
 この広い会場で会うことは無いだろうし顔を合わせたところで会話をするほどの間柄でもないのだけれど、正直言って見かけることすら億劫だ。相手からすれば何でもないだろうが、こっちからすれば嫌な思い出の登場人物。嫌悪感と罪悪感と自己嫌悪の入り混じる、あの微妙な気分になりたくない。
 諸々考えた末に、応援は応援席じゃなくてもできるし! 気分の問題だし! あとごめんやっぱ興味ない! と脳内で片付けて、同じバスでやってきたクラスメイトには『さつきに応援言ってくるー』と、さつきには『客席で見てるから頑張ってねマネージャーだって選手の一員だもんね!』と伝えて、タイミング的に閑散としている喫茶室で時間を潰そうとしていた、わけだ、が。

(……同じ本読むなら女子トイレで個室にでも篭ってりゃ良かった……まさか赤司くんが絡んでくるとは……)
「気になって仕方がないんだろう? さっきから何度も振り返っては会場の方を見ている」
(人に見つからないように気をつけたかっただけです……まぁ赤司くんに見つかったので努力は無駄でしたけれども……)
「そこまでしてバスケを――彼らを遠ざける理由は何かな」

 むしろお前らが絡んでくるのが何なんだよお、この数分で赤司くんの一学期分くらいの声を聞きましたけどお……。
 二軍三軍さつきの手伝い関係の雑務を報告しては『ああ』とか『ご苦労様』程度の返答しかなかった中学時代が嘘のようだ、廊下ですれ違ってもこっちが一方的に会釈するだけの関係どこ行ったんだよ。こんなことならあの日に戻りたいマジで。私あの頃のビジネスライクな赤司くんの方が好きだな! 戻りなよさっさと! 今すぐ!!

「……別に、遠ざけてるつもりはないよ」

 言うと、赤司くんはこちらを見もせずに薄く笑った。ちっとも信じていない、というか相手にもしていないような笑顔だ。
 遠ざけるも何も元々近くない。お近付きになった覚えはないしこれからもそうなる予定はない。それは私というより赤司くん達の方がそう考えていると思っていた。バスケに愛情と熱意、同じくらい高い能力を持つさつきならともかく、こちらは居ても居なくても大差ない一般人だ。しかもバスケ部には入っていない、ガチの一般人。これから接点があるわけでもない。なのになぜ今になって絡まれるのか。

「そうだろうね。本気で見たくないならここに来ることはないし、会場を去ればいい話だ」
(私学校のバスで来てるんで……さすがに一人で勝手に帰る勇気はないです……)
「……不思議そうな顔をしているね」

 あっバレてた。流石にバレるか。けど構わない、赤司くんに話しかけられること自体を不思議に思ったっていい程度の間柄のはずだ。はっきり言って顔と名前を覚えられていたことに驚いた。絶対に存在から忘れられてると思ってたよ。いや頭脳的な意味じゃなく価値的な意味で。

「……入学式の朝、君の姿がなくて」
「……うん?」
「桐皇に進学したのだと知って、僕は少なからず驚いた。君は、青峰や桃井とは行かないと思っていた」
「…………」

 それ、は。
 カラン、グラスの中の氷がバランスを崩して音を立てる。似たような冷ややかさを背中に覚え、いつのまにか彼の横顔を凝視していた。
 気付かれていた。さすがに、気付かれていたのか。小細工も態度も嘘も塗り重ねて固めてきたけれど、お姉ちゃん大好きないい妹という幻想を守り続けてきたけれど、彼には一切通用していなかったというのか。焦る反面、どこか納得してもいた。気付く人がいても不思議じゃないとは思った。どんなに顔でへらへら笑っても、優しく甘やかす態度を取っても、根本にあるのは徹底した無関心だ。人の目さえなければ私は躊躇なくさつきや大ちゃんからの連絡を無視するし放置する。大ちゃんの関心が私からほぼ完全に離れていた中学時代は楽でさえあった。別の部分で面倒はかけられたけれど。
 ……天帝の眼、だっけ。ずいぶん大仰だなと感じていた呼び名を思い出す。隠し事なんか出来ないってか。気付かないうちに小さく笑っていたらしい、振り返った赤司くんがわざとらしく目を丸くして、それから常のように薄く微笑んだ。相手にもしていないような笑顔。

「……赤司くんはお見通しだったんだね。ずっと」
「確定ではなかった。君は難しいから」
「褒めてくれてるの? それ」

 九割以上はサービス精神から出た言葉なのだろうそれに、つい笑ってしまう。この男の子にとって『難しい』ことなんて実在するのだろうかとさえ思う。
 クズがバレてて見た目や態度以上に軽蔑されてたってとこかーまぁ仕方な…… ……あれ、それで何で普通に話しかけられてんだ。さつきや大ちゃんの邪魔すんなって牽制されるならともかく、今の私はバスケ部の関係者ではない。少なくとも書類上では。今だって大人しく読書しつつのティータイムを楽しんでいただけだ。放置されたり攻撃されたりはまだしも、試合を見に行くのに背中を押すようなことを言って。
 ん、待てよ、赤司くんは結局なんのために私に話しかけてきたんだ?

「本心だ。君は僕が考えていた以上に難しく、自律的で、自己評価が低い」

 んんん?
 状況がどんどん解らなくなってきた。なんで唐突に褒められてるんだ。褒められてるんだよね?

「……赤司くんの買いかぶりすぎじゃないかな……」

 とりあえず当たり障りのなさそうなことを言いつつ、明るいものではないとはいえ『心から』のものではあった笑顔が引っ込んで、顔の筋肉だけで困り笑いをかたどる。それは意識してそうしたわけではなく、まったく本能的な演技だった。
 赤と金の瞳が細められる、それに理由もわからず恐怖をおぼえる。待て、待て待て待て。この状況はなんだ、彼は私に何を言おうとしているんだ。私はどうしたい。一刻も早く、出来れば波紋を立てずに逃げたい。赤司くんが首を傾げるようにして私の作り笑顔を正面に捉えた、その瞬間、金縛りにでもあったような気になった。にげられない!

「――名前。君に、謝らなければいけない」

 あっ私の名前ご存知だったんですか! 意外!

「……な、何を……? 私、赤司くんに謝られるようなことされてないけど……」

 ていうか接点ないし。敢えて言うなら中学時代の態度かもしれないけれど、今更わざわざ謝るようなことじゃないし、赤司くんの場合私に謝るようなら帝光生徒の同級生ほぼ全員に謝って回らなきゃならなくなる。他の連中はともかく、赤司くんの態度については結構マジで気にしてない。どこまでも乾いた対応はある意味では平等で、キセキとか呼ばれる奴らの中ではむしろ割と好きな方だった。

「君のそういう態度が僕を増長させることになった、という点では、反省を求めたい」
「え、す、すみませんでした……」

 でも何が? ねえ何が?
 いよいよ話が通じていない感がして背筋が寒い。電波か中二病かと思っていたものの、結局はまぁロマンチストというか独特なポエマーなんだろうなと片付けていた彼らの種別がいきなり歪む。何を、話されているんだ。彼には何が聞こえているんだ。クズバレとかそういう話じゃない気が、もう結構前からしている。

「――僕らは、言葉や態度に出すということを怠りすぎていた。言わなくても通じるものがあった、その事実に甘えて」

 何の話!?
 なんで別れ話するカップルみたいなことになってんの!? なんで手ぇ取られてんの!? ねえなんで!? 誰か! 誰かー!!

「赤司、くん」

 取られた片手を引っ込めようとすると、予想外の強さでぎゅっと握られる。悪化した。怖い。

「……覆水は盆に返らない、こぼしたミルクを嘆く真似はしないつもりだ。僕がどれほど後悔しても、あの日の教室には戻れない」

 有名な言葉ですね何の話ですか特に後半。意味は知っているけれど意味がわからない。意味がわからないよ!
 伏せられて翳っていた目が強く前を向く。自分の影がくっきり映りこんだような気さえした。常ならば見惚れていたような美貌が、今はただ怖い。

「こんなことは言いたくはないんだが、……僕は、僕が思っているより、君を頼りにしていたらしい」

 光栄です、あたりが無難な返しとして候補に挙がるけれど、至近距離で見つめられて声も出ない。
 とりあえずあの、クズバレどうのこうのではなくて、普通に当時のことを反省され謝られてるって解釈でいいの……? 微妙に会話が成立しなくて怖いし、もうそういうことで片付けちゃいたいんだけどいい? それでいい? いいよね? いい! もういい! もう終わりにしたい怖い!

「……ありがとう、赤司くんにそんなふうに言ってもらえるなんて思いもしなかったよ」

 当時の努力や忍耐が認められたと思っておこう。うん。
 素早く深呼吸して、彼に掴まれている手ごと包むようにもう片手を添える。色違いの瞳がぱちりと瞬いて、ああやっぱり綺麗な顔してるなあ、と頭の端で思った。この恐怖とは別のことを考えたがっているようだ。

「あのころが、報われたような気がする。ありがとう」

 そして手をやんわり押してから引き離す。当時はごめんね! 気にすんなむしろありがとう! はい会話終わった、これで終わった。なんか会話が成立してないとか意味のわからない台詞が多々あったとかいう気もするけど気のせいだよね。うん知らないけど絶対そう。そういうことにする。この場面さえ切り抜ければ二度と会うこともないだろうし! 会話の一つ二つ成立しなかったところで何が困るというのか!

「……君はまた、そうやって逃げるのか」
「えっ」
「いや。これは僕への罰だな。甘んじて受け入れよう」

 だから何の話だよお!! やだもう怖いー中二病っていうかポエマーっていうか電波怖いー……これが電波か、電波ナメてたわー大ちゃんとか黒子くん程度をポエマーとか中二病って呼ぶべきですね、今後改めます。電波っていうのはこういうのだ。電波怖い。

「名前」

 そしていつのまに名前呼びがデフォになってんだよお許可した覚えありませんけどおー……。
 私を名前で呼んでいい男子は今のところ大ちゃんと今吉先輩だけなんですけどー! すいません冗談です気にしてない。誰に呼ばれてもいい。いいけど親しくもない人に名前で呼ばれるとやっぱ違和感が、とか言えない。『赤司様』相手に言えない。

「僕の罰で君の試練だ。覚悟と準備が済んだら、君から話してほしい」

 何をですか……。マジで疑問なんですけどなんなんですか……。思い切って聞いてしまって積極的に空気をぶち壊しに行くのと、ここをスルーして永遠に話を先に進めないのと、どっちが面倒がないだろう。後者か。後者だろうな、次は私から話せってことは話しかけなきゃ済む話なんだろうし。よし、ここは無視してやり過ごそう。何も聞かなかったことにしよう。
 ――私に対して彼らが繰り返したのと同じことを、今。
 吐き気のようなものが、喉の奥に込み上げた。

「先回りして伝えておくが、僕は決して拒否しない。そのときを待っていると、覚えておいてくれ」
「……、」
「……名前?」
「……はい……」

 瞬時に胸を過ぎった不快感が、じくりとその場に腐ったような痛みを残す。
 相変わらず、言われている内容は意味が解らないながら頷くと、彼はやはり薄く笑った。
 ……赤司くん、嫌いじゃない方だったけど、今日一日でものすごく苦手になったな。品のいい笑顔を見つめながら、そう思った。


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2014.06.26
インハイに出なくても会場にはいた…きっといた…という妄想