「大ちゃん」

 幼馴染の姉妹の片割れ、姉より幾分落ち着いた声が、そこに相手がいることを疑わず名前を呼ぶ。青峰はそれを確かに聞いていたが、半分眠っているような状態で口は動かなかった。やがて同じ高さまで上ってきた気配が、納得したように溜息を落としたのを聞く。お邪魔しまーす。眠りを妨げない程度の音量で言って、狭苦しいスペースに滑り込んできたのがわかった。
 時折。本当にたまにではあるけれど、名前はそういうことをする。眠り込んでいる(ことになっている)青峰の隣で、ただただぼうっとしていたり、何か食べたり飲んだり、小説を読んだり携帯を眺めたり。時には同じように眠ったり。それには条件がいくつかあることは感づいているけれど――たとえば人がやってくる心配のない授業時間中であることとか――そのすべてを把握できているわけではない。ただひとつ確実なのは、青峰が寝入っている(ように見える)ときに限る、ということだった。
 今日はどうやら眠る日だったらしい。寝転がってもぞもぞ身体を動かして、大きく深呼吸したかと思うと五分も経たずに規則正しい寝息が聞こえてきた。それが作り物でないことを更に十分、背中に感じる気配で確かめて、青峰はようやく身体を起こして背後の幼馴染の様子を伺う。横に転がり身体を丸める、昔から変わらない名前の寝姿を見て、その顔を覗き込んだ。

(顔色、悪い……か? なまっちろくてわかんねーな)

 疲れているのだろうと思ったが、どうにも自信がない。すぐ顔にも態度にも出るし出すことに躊躇のないさつきと比べ、名前は体調不良をあまり大っぴらに言わず、一人で耐えて一人で治す性質だった。この我慢強さはどこから来ているのか、青峰は時々不思議に思う。やはり幼い頃、名前の体調不良で誰より泣いたさつきに心配をかけたくない一心なのだろうと予想はついているけれども。
 昔は何度かあった、我慢が行き過ぎて吐いたり倒れたりするようなことはなくなった。それは青峰の目を完璧に欺けるようになったのか、それとも本当に体調を崩すことがなくなったのか、青峰にはいまいち判断がつかない。中学で本格的にバスケを始めて以降、名前とは随分遠くなってしまったように思う。物理的にも精神的にもだ。以前なら、他人の口から名前の様子を聞くことなんてなかった。

 ――貧血だか熱中症だか起こしてたらしいから、そんな怒らんどいてやってや。

 名前が電話に出なかったと頬を膨らませるさつきを、なだめるように言っていた先輩の声が甦る。

 ――偶然見かけた他校の生徒が助けてくれたんやと。

 そうなのかと、改めて聞いたときの困ったような顔を思い出す。そんな大げさなもんじゃないんだけど。そう言葉を濁して、あまり説明したがらなかった。それはいつものことだ。いつだって自分のことはあまり話さない、説明しない。とはいえ名前のそういった性質は、最近になってやっと気付いたものでもある。
 バスケに夢中だった時期、良くも悪くも名前の印象は殆ど無い。ただマネージャーリーダーをしているらしい、さつきの手伝いでたまに同じ体育館内に見かける、本当にその程度だった。休日にバスケ部の連中とつるむ時も名前はいなくて、試合後や練習後の寄り道にもやっぱりいなくて。あの時は、それをどうとも感じていなかった。存在を、忘れてさえ、いたのかもしれない。
 バスケを真面目にやらなくなって、名前と過ごす時間が増えたかというとそういうわけでもない。名前は三年の最後までマネージャーリーダーで、忙しそうに働く姿を見かけることはあっても一緒にいることはなかった。部活に引き戻そうとするさつきと違って、追ってきたわけでもない。同じ高校に進学すると聞いてむしろ驚いた――……いや、もしかしたら、その時に思い出したのかもしれない。さつきの片割れ、名前という幼馴染を。
 同じ高校には入っても、バスケ部には入らない。けれどさつきに押し負ける形で、完全に無関係にもならない。昔と変わらない呼び名で、昔と変わらない態度で、少し広い距離感で付き合い続けている幼馴染。バスケ部に戻れとも、バスケをやめろとも言わない。

 ――私は別に、大ちゃんがバスケやってなくてもいいからね。

 少しだけ首を傾げて、そう言った。

 ――私は私なりに、大ちゃんの味方だよってことだよ。

 照れくさそうに、笑いながら。はっきりとそう言った。途端、じん、と響くように胸が痛んだのを、生々しく覚えている。
 もしかして、誰より傍にいてくれたんじゃないのか。誰より味方で、いようとしてくれたんじゃないのか。かつての仲間や今の仲間とも違う場所で。深い闇に沈み込むようにひた走っていた、誰のことも振り切って走った、その先で。もう本当に一人きりになってしまったのだと感じたその瞬間、目の前に現れたように思えた。昔と変わらない笑顔で、変わらない呼び名で。ただ、赦してくれたんじゃないのか、と。

「名前」

 名前を呼ぶ。そうしても目覚めないと知っていた。昔から、一度寝入るとなかなか起きない。
 白い頬は触れると冷たく、顔を寄せると甘い匂いがしたような気がした。

「名前」

 目覚めない音量で、もう一度呼ぶ。
 人の目がない時にしか、青峰自身にさえ気付かれないような瞬間にしか、自ら寄り添っては来ない。さつきやバスケ部員達や、他の誰かがやってきたりすると、不自然に思われない程度の気安さでそっと消えるのだ。影の薄さが黒子とはまた違うのは、きっと由来のためだろう。資質と気質。誰とも違う形で気遣われているのを、青峰はここしばらくでようやく自覚した。
 人前であからさまに避けることはないけれど近付こうともしない、誰の気配もない時にだけ音を殺してやってきてそっと寄り添う。その健気さに胸がぎゅうっとしたなんて、名前は知ったら逃げるだろうか。笑うだろうか。照れて知らないふりをするかもしれない。もう何年も見ていない表情を想像し、青峰は少し笑って、幼馴染の身体を抱き込む形でもう一度横になった。
 俺には名前がいる。何があっても、何もなくても。何をしたって、何もしなくたって、全部まるごと赦してくれる。

(名前、)

 今くらいはその甘やかさに浸っていたっていいだろう。

「……あんな腹黒メガネに、目ぇつけられてんじゃねーよ……」

 お前は俺だけのモンなんだから。
 冷たい頬を指の背で撫で、寝顔を眺めながら、やがて自身もとろとろとまどろんでいく。
 やっぱりバスケ部マネージャーにはさせなくていい、と、だいぶ遠くなった意識で思った。


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2014.06.25
男子視点回を挟んでいきたい所存