マナーモードにしておいてよかった。
 少し前から震え続けている携帯、代わり映えのしない表示を眺める顔の、表情筋が死んでいる自覚がある。短く溜息をついて携帯は震えるままポケットへ入れ、代わりに出した財布から硬貨を探した。ようやく試合を終え、片付けも終え、今は部員達がミーティングを行っている。本物のマネージャーならまだしも、代役の雑用係に出番はない。なんだか疲れた、と感じたまま甘い缶コーヒーのボタンを押し、自販機前でタブを開けた。
 ――疲れた。ほんとうに、疲れた。
 あの無力感に晒されるのは随分久しぶりな気がしたが、思えば中学卒業からまだそれほど経ってはいないのか。よくこんなもんに三年間も耐えたな、と過去の自分に感心する。帝光よりもずっと優しく無関心な桐皇でこの疲労だ、病むのも歪むのも致し方ない話だ。我ながら同情する。

(……ほんっと、酷かったもんなぁ)

 マネージャーリーダーになって、逃げるように二軍三軍にばかり入り浸ってはいたが。一軍を、まさかさつき一人で処理できるはずもなく。誰か人手が必要だった。かといって下手なマネージャーを入れたがらなかったレギュラー達の方針で、さつきの補佐として働くことを求められたのは名前だけだった。レギュラー達に対して騒ぐ心配がなく、さつきに危害を加える可能性もない。そんな理由で。
 一軍専用体育館から出てこないさつきと、二軍三軍との唯一のパイプ役である名前。能力や容姿を理由に、妬まれない、なんて限度のある話だ。むしろ無能が重用されていることで反感を買うこともある。妬まれるような環境でもないのに。それでも、そんな可能性、考えれば解ることだろうに。彼らが必死に守ろうとする桃色のヒロインに対する気遣いの、欠片でもあれば気付いただろうに。

(……、甘いの買うんじゃなかった、胃が重い)

 ――えー、桃っちじゃないんスか。

(水とかに、しとけばよかった)

 ――桃井。ああいや、お前ではない。

(気持ち悪い)

 ――アンタには用ねーんだけど。桃ちんいねーの?

(吐きそう)

 ――お前に何がわかるんだよ。

(……くそ、)

 こんなことを思い出すために来たんじゃないのに。私は少しずつでも確実に前進しているはずなのに。バスケ部には入っていなくて彼らには極力関わっていなくて。もう違うはずなのにもう大丈夫なはずなのに。
 完全に、再生ボタンが押されてしまった。たった一度の言葉や悪意に、何度も何度も傷ついている。笑って許すべきことを、悪気がないんだからの一言で済ますべきところを。今も、吐き気を伴ってしか思い出せない。
 また震え始めた携帯を、衝動的にコンクリートの壁へ投げつけそうになった。

「大丈夫ですか」

 その声が、一秒遅ければそうしていたに違いなかった。

「……え……」
「酷い顔色ですよ。……とりあえず、日陰へ」
「は……」

 大きくて冷たい手に導かれ、どうやらタオルらしいものを頭の上に乗せられる。貧血かな、ひとりごとのように言った人が、先程立ち尽くしていた自販機に行ってすぐに戻ってきた。その間にも顔も上げられないほど気持ちが悪い。日陰へ座らされて初めて気付いたが、確かにじっとり重い、嫌な汗をかいていた。

「どうぞ、水。ゆっくりでいいんで、飲んでください」
「……は、ぃ」

 ぱきっと軽い音に続いて、見える位置に蓋の開いたペットボトルを差し出される。そこでした返事にようやく喉の渇きを自覚して、ゆっくりと冷たい水を煽った。急げば咽そうな喉に、ぶつかるように入った水が徐々にしみていく。

「苦しいなら、最初は口に含むだけで。常温に近付いてから飲むと楽です」
「……あ、りがとう、ございます」
「いいえ」

 少し迷った気配の後、背中をさする冷たい手。
 ……人に触られるの、あんまり好きじゃないけど。でもこの手は、なんか落ち着くな。この状況だからかな。親切な人もいたもんだ。ぼんやり繰り返す『ありがとうございます』に、そのたび律儀に『いいえ』や『いいんです』と返される。それにもなんだか申し訳ない気になって、最後に一回言ってお金返して終わりにしよう……。そう思って水を口に含むこと数回。ようやく落ち着いた名前は、頭上のタオルをさっと下ろした。洗って返したいところだが、また会えるとも限らないしこのまま返すしかない。そう思いつつ、顔を上げると。

「大丈夫ですか?」
「――は、い」

 つい一時間ほど前まで見つめていた顔がそこにあった。
 花宮真。そう教えられた、霧崎第一のキャプテン。

「あっ、あの、ありがとうございました。水もっ、お金払います」
「いいえ。お金はいいです、受け取ってください」
「い、いえまさかそこまでお世話になるわけには」

 ていうか誰だ。こいつ誰だ。いや恩人にこいつって言ったら悪いけど誰だ。
 あだ名は悪童、なるほどなーと思いつつ見つめていたコート上の人物とはあまりにも表情が違う。眉毛がこんなに特徴的でなかったら別人だと思うところだ……が……あっ双子とか! 私とさつきとは逆パターンでそっくり双子とか兄弟とか! でなければ同じ顔でこんな爽やか好青年の理由が!

「桐皇のマネージャーさんですよね? 先程の試合ではお世話になりました。霧崎第一の、一応キャプテンをやってます。花宮真です」

 はい同一人物!!

「……桐皇の、マネージャーといっても代理なんですが、桃井名前と申します……お世話になりまして、ありがとうございます」

 手にしたタオルを思わずぎゅっと握り締める。
 同一人物……えー同一人物……コートに入ると性格変わるとかそんなのだろうか……電波ばっかだなバスケプレイヤーのあだ名持ちは、い、いやこれも作戦の一環とかそんな話? か?
 ぐるぐる考えながらもつい笑顔を返して頭を下げると、『ふっ』と少し性質の違う笑みが漏れたのを聞いた。

「……?」
「いえ、選手達にはきちんとクエン酸と糖分摂らせてたのに、自分では飲まなかったんだな、と」
「あ」

 ハチミツレモン。……あれ見られてたのか。

「代理といっても、しっかりされてるんですね。なのに自分には少し無頓着なようなのが、……少し、危なっかしいけど、かわいいなと思って」
「……い、え、」

 やわらかく微笑んで言う人に、意思とは関係なく顔が熱くなる。
 ちょ、やめてくださいよこういう空気に慣れてないんですよさつきじゃあるまいし! 初対面の人に、ていうか人にかわいいとか言われること無いんですよ! やめてくださいよそういうお世辞とか社交辞令は通じないんですよ私には!

「でも、桐皇のマネージャーで桃井さんって聞いたことありますけど……」
「あ、それはたぶん双子の姉です。桃井さつきの方です。姉は選手の病院に付き添ってまして、来ることになってた私が代理で」
「ああ、それでか」

 人の良さそうな笑みをのせていた目が、少しだけ細められる。刹那、感情をすべて削ぎ落としたような無表情が現れた。

「折角あのクソ忌々しい女がいねえと思ったら余計なモンがくっついてきやがって」
「――……」

 聞き間違い。と思い込むには、あまりに明確に発音されていた。
 先程の好青年はどこへ行ったのか、目の前に立つ男子生徒は確かに『悪童』、少し前に見た霧崎のキャプテンだ。笑顔のまま硬直している私の首ごと、ぐいと引き寄せる。

「んで、あの妖怪の女か」
「……え、 っと?」
「っは、違ぇか。それともまだ騙されてんのか」

 いや何の話ですかっていうか近い近い近い! やめて照れるシーンじゃないのに照れちゃう恥ずかしい! やめてください男子と至近距離なんてなったことが……あっ大ちゃん。大ちゃんと思えばいいのか。いきなり落ち着いたわ。
 控えめながらジリジリ続けていた抵抗を急にぱったり止めたからなのか、怪訝そうな顔が向けられる。近くでよく見れば整った顔をしている、けれど、如何せん眉毛が特徴的過ぎてなあ……美形とかそのへん気にならなくなるレベルの眉毛……いやまあ個性か。個性だな。

「……あの」
「あ?」

 でも柄は悪い。

「とりあえず、どうあれ、助けて頂いてありがとうございました」
「……どういたしまして」

 にこり、また好青年の顔で笑いかけられる。あ、こっちはちょっと照れる。けど今回のこれは前フリだなって読めた。

「なんて言うかよバァァアカ!」
「へぶっ」

 読めたけどタオル奪われて投げつけられるとは思わなかった。離れてもらえたのはよかったが。頭にかけてくれたときに使ってないやつだから云々って聞こえたけどいいのか初対面の女の顔にぶつけて。どっちにしろもう洗うからいいのか。

「姉妹揃ってガン見かウゼェんだよ金取んぞ! ジロジロジロジロ無心で見やがって! 睨むなら睨めよ恨み言のひとつも言いたいなら言やいいだろうがクソが!」
「えっ」

 顔のタオルをどけながら、思わず声が出る。そんなに見てただろうか。……見てたな確かに。気分的には今吉先輩につられて、なんだけど。でも別に睨むような理由はないし、恨み言も特には……言われてみればひとつふたつあってもいいような。でも別に怒ってないしな、私。

「……、」

 言われたこと、というよりはその内容によって気付いた自分自身に、戸惑って口を閉じる。
 顔をしかめたままの相手――花宮さんが何か言おうとしたのだろう、口を開いた時、背後から『桃井さーん』と声がした。軽い足音が近付いてくる。

「、桜井くん……」
「桃井さん、携帯出ないからっ……」
「あ、ごめん」

 ポケットに入れっぱなしの携帯は、さつきからの着信そのままの流れで無視していた。後半それどころじゃなかったし。桜井くんが来てくれたということは、ミーティングは終わったのか。というと……やべ、私が揃わないとバスが出ないとかそういう事態か。やべ。
 霧崎も同じ状態だと気付いたのか、ちっと舌打ちがひとつ聞こえた。このひと包み隠す気があるのかないのかわかんないな……隠して隠せないことはないだろうに……。面倒くさそうだった表情が、桜井くんと私を交互に眺め、やがてにっこりと好青年の顔で笑った。うおう。

「じゃ、次は気をつけるんだよ、名前」
「あ、ハイ……ありがとうございました……」
「もういいって」

 くすくす笑って、優しげに頬を撫でて去っていく。さっきの至近距離のあとだから特に気にならないけど近くない? あといつのまに名前呼び? ああ桃井だとさつきと被るから? いやでも私代理って言ってあるし被るような事態には……それにしても黄瀬くんとはまた違った二面性のある人だな……いや二面性って言うんだろうかこの場合。

「……桃井さん、今の、って」
「あーうん……なんか貧血? っぽくなって今の人が助けてくれたの……」

 っていう認識でいいんだよな。多分。
 結局手元に残されてしまったタオルに視線を落とし、考える。うん、助けられた、はず。……嫌な事も、考えないで済んだし。そう思い出すものの、『嫌な事』スイッチは切れたらしく、一年ほど前に聞いた声や彼らの顔が再生されることはなかった。うん、やっぱり助けられた。と思っておこう。

「あ、あと水おごってもらった」
「……捨ててください」
「えっ」
「嘘です。……みんな待ってるから、戻りましょう」
「う、うん。ごめんね着信気付かなくて」
「いえ……でも次は、誰かと一緒にいてください」
「うん……?」

 まあもうマネージャー代理する気ないですけど? 今回もやりたくなかったけどこうなったし、次回あるとしたら何が何でも断るし仮病も辞さないけど? ……っていうのは、いくら桜井くん相手でも言わない方がいい。腕を引かれて歩きながら、そういえば開けたままの缶コーヒーを置いてきてしまったと思ったけれど、手に残った水のペットボトルを見てまあいいかと思い直した。ゴミ箱の上に置いたし、申し訳ないが清掃の人が片付けてくれるだろう。
 『霧崎』のロゴ入りタオルを抱えたまま、バスに戻る。なんとなく手放すのが惜しくて、帰りの道中はひざ掛けのようにしてしまった。


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2014.06.20