先週は失敗だった、本当に大失敗だった。
 最初は誰が悪かったわけでもない、言うなれば運が悪かった。中学時代の同級生に会い、触れられたくないところを突っ込まれつつも笑顔で誤魔化せば彼は案外あっさり流されてくれた。そこの部分は、私の努力だ。むしろ誇っていいだろう。
 当日の夜に『ミドリンからメール来たよー勉強がんばってるんだね! えらいね名前! 私も手伝うよ、だから名前もバスケ部行こ?』と断られる可能性について微塵も考えていない顔で部屋に入ってきた姉、を受け流すのは、なかなか骨が折れた。男のくせにおしゃべりとかマジで救えないな骨の一本二本でも折っちゃえばいいのに、と思ったのはまあ、思う程度なので犯罪にはならない。人としてどうかなんて話はとっくの昔に決着がついている。卑屈系クズの自覚があります! 以上!!
 翌日以降。もう居ないだろうと、やはり行き先に困って図書館へ行くと待ち伏せられていて、ついでに宿題を教えられて帰ってきた。お前さえよければまた教えてやってもいいだなんて珍しくツンデレ控えめに申し出されたが、いいよお遠慮するよおー緑間くんの時間を私なんかに使っちゃダメだよおーそれよりバスケで活躍してほしいなあー! というような内容を大人しい口調で言えば引っ込んでくれた、ちょろい。ていうか親しくもない私のために先生役を買って出るなんて意外と献身的ですよね! 元チームメイトとさつきに対してだけはね!
 さて、どうしようか。
 緑間くんによって『名前は勉強がんばってる』イメージが着いたのはまあ幸いだろう。しかしあの図書館にはもうあまり行きたくない、また会ったら嫌だ。テスト期間が終われば会わなくなるのだろうが、それでも避けたい。
 どこかのマジバにでも入り浸ることにしようか、そういう学生は少なくないし。でもなあー毎日となると流石にお金の面で不安だなー……ずーっと百円のドリンクで居座るのは、友達と一緒ならまだしも一人じゃあなあ……。あ、ちなみに友達はほぼ居ません。いい妹ぶってるおかげでクラス内でまでキャラが定着してしまっているため、本音で話せる相手がいないのです。これは完全に自業自得だけど。

「……バイトでもしようかなあ」

 時間が余っていて、学校にいたくなくて、家にもあんまり帰りたくない。かといってどこかで時間を潰せるほどのお金もない。
 思いつきで口にした案はなかなか使えるように思った。理由を聞かれたとしてもバイトなら言い訳なんて結構簡単だし、なんならバレるまで言わなきゃいい。うちの高校は特にバイト禁止もしていない。よしきた。
 その日のうちに履歴書を買って書いて、書いたそのマジバで店員さんに手渡して、驚かれつつもとんとん拍子にバイトが決まった。
 いえーい今日からマジバのクルーの一員でーす! 思えばさつきと完全に無関係の場所に来るのは久しぶり、っていうか初めてかもしれない。クズキャラはさすがに引かれるだろうから小出しにしつつ、少なくとも演技はしないでもいられるわけだ。万歳! 世界が広がるって素晴らしい!

 初めてのバイトは上手く行かないこともそれなりに多く、だけど周囲も似たような学生がいるから焦らず頑張ることができて。仕事をしながら人間関係を築きながら、三ヶ月が経ったころにはすっかり居心地が良くなっていた。

「外の掃除終わりましたー」
「お疲れー。まだ外暑い?」
「だいぶ暑いわー。……フルーリー始まったし、今日も忙しくなりそう」

 掃除道具を片付けて手を洗い、レジの中に戻る。同じ時期に入った仲間、年齢も一緒の藤井奈津実ちゃん、通称なっちゃんは元気で可愛くていい子だ。ふざけると乗ってきてくれるのも嬉しい。テンションが合う。

「あ、そろそろチーズの補充しなきゃ」
「……チーズバーガーの? 今ある分で足りるんじゃない?」
「でも今日は火曜だから、……っと、名前はあんまりこの時間に入ってないんだっけ」
「うん、火曜日シフト入ったの今週から。何かあるの?」
「名物のお客さんがいてねー。たぶん今日も来るよ」
「へえ」

 チーズ増し増し、みたいなラーメン屋っぽい注文の仕方でもあるんだろうか。『まぁ待ってなって』とにんまり含み笑いをするなっちゃんに、これは時が来るまで教えてくれないなと察してレジ業務に戻る。今はまだ忙しくないけれど、もう少し遅くなると仕事終わりの社会人や部活帰りの学生でわっと混むのだ。その前に補充できるものを補充して店内を軽く掃除して、やるべきことは沢山ある。

「にしても名前、バイト始めたばっかの頃から手際よかったよねえ。何かやってたの?」
「あー、中学の時に運動部のマネージャーやってた」
「うわキッツそー。あたしも運動部だったけどさぁ、マネージャーって大変でしょ? なんでやってたの? やめたんでしょ?」
「あははっ」

 言外に『気が知れない』と言いつつ、口には出さず、けれど顔には出ている。
 なっちゃんの、こういうところが結構好きだ。

「ちょっと、事情があってね」
「えー……あ、わかった! 好きな人とかいたんでしょー!」
「そんなんじゃないってー」

 この子の前では、さつき達のいないところでは、私は『バスケが好きな少女』でなくていい。男の子を目当てに部活を選んだり、高校では部活よりも遊ぶことを優先したり、そういったことを自然に行っていい。そうしても、軽蔑や侮蔑の対象にはならない。
 そんな些細で当たり前なことが、とても嬉しい。

「えー、でもさでもさ、マネージャーやってると部員の誰かといい感じにとか! そういうの無いのー?」
「そういう子もいたみたいだけどねー。私はなかったなぁ」
「好きな人とかも?」
「うーん、まあ……アイドルみたいな部員は何人かいたけど……」

 むしろ逆恨みが入っているとはいえ、若干嫌いな分類だからなあ。とはさすがに口に出来ずに、言葉を濁す。そうしてふと、色とりどりの部員達の中に一時期だけいた、取り残されたような無彩色を思い出した。一方的で勝手な仲間意識と、少しの――慕情。

「う、ん」
「うん?」
「……ちょっとだけ、憧れてる人は居た、かも」
「お! おおお!」
「な、なにっ」
「詳しく聞かせなさいよー!」
「やーだー! あっ、いらっしゃいませー!」
「うおっと、いらっしゃいませ!」

 カウンターの下で肘をぶつけ合いながら、堪え切れずにクスクス笑う。隣のなっちゃんも笑っていて、つられたのかお客さんも少し笑っていて。
 ――ああ、なんだかすごく幸せだ。どこにでもあるファストフード店のレジの中で、名前はじんわりと喜びを噛み締めた。こんなに穏やかなのは、こんなに裏表なく振舞えるのは、そして楽しいのは。大げさでなく人生で初めてかもしれない。



「チーズバーガー、三十個。あとコーラ二つ」
「……少々お時間頂きますがよろしいでしょうか」
「おう」

 これか。チーズ補充、これか。
 あれからすぐに混み始めた店内で、お喋りをする暇もなくなってきたところでやってきた高校生の注文に少しばかり顔を引きつらせた名前はそれでもマニュアル通りに言った。

「お持ち帰りでよろしいですか?」
「いや、食ってく」
「かしこまりました。」

 彼の様子から察するに、こういった注文の仕方は慣れているに違いない。同じく慣れた様子の店員達が背後でてきぱきとバーガーの山を作っているのを感じながらレジを打っていると、ふと視線を感じた。隣でにまにまと笑っているバイト仲間から――ではなく、真向かいの彼から。

「……? もうしばらくお待ちください」
「お、おう」

 何だろう、見慣れない店員だなとか思われているんだろうか。まあ店員を凝視するお客さんというのも実はそれほど少なくない。一番大きなサイズのカップにコーラを満たして蓋をするのと同時、きっちり三十個のチーズバーガーが上がってきた。どんなに気をつけて盛り付けたところで山になる量なのはわかりきっているので、手早さ重視でさっさと積み上げる。

「お待たせいたしました」
「あ……おう。サンキュー」

 おお、と内心で思う。彼が口にした、若者言葉になりがちな軽い感謝は、しかしきちんとアルファベットの発音で聞こえた。帰国子女か何かなのかもしれない、そういえばずいぶん背も高いもんなあ。やっぱり食事が違うのかな。物珍しさと意外な嬉しさから『いえ』と営業的意味合いばかりでない笑顔を浮かべ、大きな背中が離れていくのを見送った。ちょうど混むピークを外れたらしい、先程まで列を作っていた人の群れは店内や外へ散らばっている。
 やれやれ、と一息ついた瞬間、とんと肘でつつかれた。

「いい感じだったじゃーん」
「……チーズ補充ってあれだったんだ、言ってよ。焦っちゃったじゃん」
「言わない方が面白いかなーって! でもさ、なんかちょっとイイ雰囲気漂ってたよねっ」
「注文後にありがとうございます言うお客さんなんて結構いるでしょー」
「いや、なんかチーズバーガーさんの顔が違った!」
「チーズバーガーさんて」

 同じタイミングでぷっと吹き出し、小さく肩を震わせて笑う。小声で交わす会話はレジの中で行われながら誰も聞いていない。こうした、女の子同士の小さな秘密にもならないような内緒話が名前は好きだった。誰が相手だとしても内容は大抵くだらないもので、当日の夜には忘れてしまうようなささやかなものだ。 あのお客さん、カッコイイね。 同級生が来た。 あれ絶対ヅラじゃない? ヅラ疑惑といえば学校の先生がさあ。 新作のコスメが。 等々。何気なくて、楽しさだけをふわふわと残すようなやり取り。年頃の少女たちが当然のように得てきた経験を、名前は今になってようやく手に入れた。それが嬉しくて楽しくて、心から幸せで。鬱屈として呪ってばかりだった去年までを許せるような気持ちで、思い返せたのだ。一時期しか一緒にいられなかった憧れの人を、日々の憎悪に埋まってしまった感情を、掘り起こせるまでに。
 この時点で完全に浮かれていたのだと、数秒後、名前は自覚することになる。

「――だから! せめて前もって言えよ!」
「んっ?」
「あー、大丈夫大丈夫、あれもいつものことだから」
「えー? 何があるの?」
「さっきのチーズバーガーさん……ホラ、あの席。なんかいっつも相席してるし、制服同じだから友達か何かでしょ」

 彼女の指先に従って顔を上げ、見つけた四人掛けのボックス席と、先程見送った長身の赤毛――その影に隠れていた、こちらから見える位置に座る、水色にビクンとする。

「たぶん、赤毛チーズさんの地声がでっかいんでしょ」
「……」
「……名前?」
「……あ かげ、チーズさんって。どんどん進化してるじゃん」

 苦笑して見せた名前に、イマイチあだ名が決まりきんないんだよねぇと笑い声が返される。表情を作っていられたのは、彼と目が合う、その瞬間までだった。


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バイト仲間のなっちゃんはときメモGSの彼女です(ひっそりと主張)