水泳、陸上、お絵かき、音楽、友達作り、恋。
 同い年の姉と幼馴染の枠から抜け出したくて自分の世界を構築しようとしたこと、数回。ぶち壊されること、同数。小さい頃から容姿に恵まれ、妹のことがよほど好きなのか、もしくはいっそ憎んででもいるのか。どこにでもついて回って同じことをしたがって、出来はどれもまちまちだったけれども、比べられることだけは避けられなかった。
 さつきちゃんの方が上手ね――その言葉の後には、姉がその場のすべてを持っていった。
 名前ちゃんの方が上手ね――その言葉の続きは、一緒じゃなきゃやだつまんない置いてかないでひとりにしないで一緒にやろうよ。そう悲しんで泣く姿を見た両親により、辞めること、あるいは姉とだけ一緒にいることを求められた。
 上手かろうが下手だろうが、優先されるのは愛らしく素直で厭味のない、人気者で優しい姉の意見。無口がちで人に従順であった妹は、誰にも意識されずに我慢ばかりを強いられていた。いつだってさつきのために、さつきがそう望むから、悲しむから。涙を流さない名前の傷には、誰も気付かず見向きもしないで。――いつからか妹は、抵抗するのを諦めた。無理矢理に連れて行かれた遊び場で、教室で、その時々の場所や人を相手に、居心地が悪くなって終わったからだ。わがままな妹さんで大変ね。さつきちゃんは名前ちゃんのためにやってるのに。さつきちゃん、あんなにお願いしてるのに。あれくらい、許してあげればいいのにね。そう囁かれ、姉がまた優先されるのだと学習したからだ。
 抵抗をやめ、笑顔を作り、あたかも能動的に、もしくは満更でもなくこの場にいるのだという態度でいれば、風当たりの強さはなくなった。そこそこに笑顔で接してもらえるようになった。なるほど、優しくされるには優しくしなければいけないのか。常識を今更ながら学習した気になり、だとすればなぜ姉はちっとも優しくならないのか、と不思議に思った。あれで本人は優しいつもりなのだと気付いてやんわりと吐き気がした。
 ほのぼのと見えてなかなか鬱屈した少女時代を過ぎ。
 高校生になって、バスケから離れるという一点でようやく一人の時間を勝ち取った名前は、もしかしたら初めて得た自由に喜び――しかし途方に暮れていた。
 学ぶことも遊ぶことも、何かに夢中になることも、すべて姉に奪われてきた。この歳になっていざ自由を手にしてみても、何をすればいいのかわからなくなってしまったのだ。周囲には成績が原因と言ってはあるが、信憑性のため一度赤点を取りもしたが、基本的にはそこまで成績が悪くはない。よほど油断しなければ進級に不安もない。図書室やらカフェやら色々なところで勉強している、ことになっているこの時間。さてどうしよう。

(……とりあえず、一回くらいは本当に図書館に行って勉強するべきかなー……)

 何か聞かれたときに嘘ついてバレたらまずいし。それっぽいことが言えるようになっておかないと。
 明日以降の放課後のことは、またそれまでに考えればいいだろう。



 失敗した。
 開いたノートに視線を落としながら、強くそう感じる。椅子ひとつ開けた隣に座る長身の男――中学時代の同級生に、気付かれぬよう溜息を漏らす。別に彼を嫌いではない、好きでもないが。人間としては尊敬さえしている。しかしそれらは別にして、自分と姉の両方を知っている人間、というのは名前にとってただひたすらに厄介で、鬱陶しい存在になる。入りたくて入っていたわけではない部活の仲間だったということも、名前の憂鬱さに拍車をかけた。

「久しぶりだな」

 数式をひとつ解き終えたのをペンの音で察したのか、静かな声がかけられる。図書館ではお静かに。その規約を破らない程度の声。
 名前はふっと笑って――どうして笑みが漏れたのか、自身でもよくわからない――久しぶり、と答えた。ひさしぶり、緑間くん。視線を向ければ、同じように視線を向けられるけれど彼は決して笑わない。相変わらず、愛想のない人だ。

「偶然だね。今日は、部活はお休み?」
「テスト前だ。お前こそどうした」
「ああ、秀徳はテスト多そうだね――私は部活には入ってないよ」

 ノートも参考書も閉じないしペンは手放さない、けれど机に両肘をついて、覗き込むように顔を向ける。驚いたのか、少しばかり見開かれた眼は、次の瞬間ぎゅっと眉間を寄せた。訝しそうだ。笑顔の下で、自分の感情が冷えるのを感じる。

「桃井と青峰は――……」
「あの二人はバスケ部だよ。相変わらず。私はちょっとね、勉強しなきゃだし……高校では、まあいいかなあって」

 別にバスケ部に入りたいわけでもないし。というのは、現役プレイヤーに言うのは少し失礼だろう。気遣ったつもりで付け加えれば、ぱたん、彼が手にしていたハードカバーが音を立てて閉じられた。栞も挟まってないけどいいのかな。それにしても図書館の似合う人だ、絵のような風景というのは本当にあるのだなあと、名前は現実逃避めいたことを思った。今、自分が前にしているのが、一枚の絵だったらどんなに良いだろう、とも。

「お前は」

 人間は口をきくから、よろしくない。

「お前は、自身の影響力を甘く見ているのだよ」
「……うん?」
「勉強は大事だ。お前がそこに力を尽くしたいのはわかる。しかしそれは、お前が一人で努力しなければならないことではない」
「……ごめん、どういうこと?」
「桃井も、他の人間も、……俺であっても、お前の学習に力を貸せる。お前がバスケで桃井や青峰を助けられるのと、同じように」
「…………」

 この人に、悪気はゼロだ。だから怒りを向けるのはお門違いだ。そう自覚しながら、腹の底でふつふつと沸くような怒りをどう鎮めたものか、名前は細く深く息を吸った。気付かれないよう深呼吸するのは、あの姉と十数年を過ごすうちに得た癖でもある。

「桃井や青峰には……きっと、お前の力が、必要なのだよ」
「…………」

 桃井には。青峰には。ここにはいない人物の名を出しながら、目の前にいる人物の意思を無視していることに、彼が気付くことはきっとない。
 ……仕方ないな。緑間くんにとっては、かつての仲間や敏腕マネージャーのほうが大事なんだろうから。おまけ程度の片割れに、意志なんか無いと思ってさえいるのかもしれない。
 仕方ない。仕方ない。仕方ない。そう仕方ないのだ。私よりさつきが優先されるのは、さつきの方が優秀だから仕方ない。私より大ちゃんが優先されるのは、大ちゃんのほうが親しくて仲間だったから仕方ない。私がそんな感情を見せていないのだから、気付かれないようひたすらに努力と小細工を重ねてきたのだから、今こうして抱えている鬱憤に気付かれないのは仕方ない。軽んじられるのは仕方ない。意思を確認さえされていないのも目の前にいながら眼中にないのも全部。仕方ない仕方ない仕方ない。
 ……そうやって諦めるのが嫌だから、これ以上は嫌だから、行動を開始したのだ。
 名前は一瞬俯き、瞼を下ろして、そこに感情が出ないよう気をつけた。これだから、共通の知人には会いたくもない。

「――ありがとう。緑間くんは、相変わらず優しいね」

 さつきと、大ちゃんにはね。ああ、自分が認めた人間には、か。そして、そこに私は含まれていない。
 ゆるゆるとぎこちなく微笑み返す端正な顔立ちを眺めながら、口には出さない言葉達が自分の心臓を腐らせていくような錯覚を抱いた。


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2014.05.30