中学卒業と同時にバスケをやめたのは大正解だった。
 双子の姉には、どうしてどうして一緒にやろうよ今までずっと一緒だったじゃない私のこと嫌いになったの大ちゃんのこと見捨てちゃうのキセキの皆が嫌になったのバスケが嫌になったの、ねえ二人で取り戻そうよ、と大きな瞳をうるうるさせて引き止められたものの、そしてそんな姉を見た両親により一緒にやればいいじゃないと遠まわしに責められたものの、私はさつきと違って頭があんまり良くないから勉強についていけなくなっちゃうよ、と赤点の答案を見せれば渋々ながらも納得してくれた。でもやりたくなったらいつでも言ってね、勉強なんか幾らだって手伝うんだからねと未だ涙の気配の残る顔で繰り返す姉に、うんそうだねありがとうさつきは優しいね頑張るね、と心の一切こもっていない返答でもってして、私は完全にバスケから解放された。
 はずだったのに。

「名前名前っ! 青峰くん探して!」
「……さつき、私いま委員会の仕事が」
「ねえお願い! 私これから行かなきゃいけないところがあるんだけど、青峰くんがまだ見つからないの!」
「だから私は、」
「あーいいよ桃井さん、ここはやっておくからー」
「……先輩」
「先輩、ありがとうございますっ! 名前、ほら早く!」
「……私バスケ部でもないんだけど」
「桃井さん、鞄忘れてるよ」
「きゃー名前ってば! 先輩ごめんなさい! ほら行こう!」
「…………」

 解放された。
 はずだったのになぁ。
 あれよあれよという間に腕を引かれ荷物を渡され体育館へ連行され、大ちゃんを探すという話はいつのまにかマネージャー代役になっていて、体育着になってボトルとタオルを片手に奔走することになった。

「桃井ー、タオル……あれ」
「私も桃井なんで間違ってませんよ、どうぞ」
「今日は妹の方か。姉さんは忙しいなー」
「そうですねー。あ、休憩中に軽くコート拭くんで端に寄っといてください」
「おー」

 悲しいかな、バスケ部員はこの状態に慣れ始めている。というか私を正式なマネージャーだと思い込んでいる人までいる、なんてことだ。
 特に手渡す必要もない気がするけれどタオルを配り終え、乾いたモップを構えてコート内を走る。急がないと休憩時間が終わってしまう。体育館の端に寄せられた部員達がこちらを見ながら何かこそこそ話し合うのを、聞こえはしないけれど大方の予想はつくので見ないようにしつつ、履き慣れてしまった体育館シューズに悲しい気持ちで溜息を吐いた。
 帝光中、キセキの世代には双子のマネージャーがついていた。片や苗字の示すとおり桃色の髪を持つ美少女で、片や黒髪黒目の地味な女。苗字を名乗ったところでなかなか双子としては認識されない、全く似ていない姉妹だった。別にそれを悲しんだことはない。疎んだことは、数え切れないほどあるけれど。
 外見が似ていない双子は中身も全く似ていなかった。片方は主に参謀として、片方は雑用係としてキセキの世代に貢献した。二軍三軍もまとめてマネージャーリーダーとして働いた名前に比べ、さつきは正にキセキ専属の勝利の女神であり、トロフィーのようなヒロインだった。やはり名前が、それを悲しんだことはない。気持ち悪いと思ったことは数え切れないほどにある。

「遅くなりました、って、名前ちゃん!」
「おかえりマネージャー」
「嘘、仕事やってくれてたの? 言ってくれたら洗濯なんか後回しにしたのに」
「さつきに連れて来られちゃって」
「さつきちゃん、心配ないって言うからどうしたのかと思ったら、やっぱり名前ちゃん頼みだったんだねー」

 仕方ないんだから。もっと私達に言ったっていいのにねえ。そう言って、しかし微笑ましそうに笑い合う女子生徒二人――バスケ部の正式なマネージャー達に、名前も同じように笑顔を作っていた。ほんと、世話のやけるお姉ちゃんでさあ。意識した優しい声色。そこに隠された感情に気付く人間は、今のところ現れていない。
 コートを拭き終え、モップを持ったまま入口付近で話していると、引き戸の隙間からのっそりと長身の影が入り込んだ。

「おー……名前。マジで居んのか」
「大ちゃん! あれ、探しにいこうと思ってたのに」
「さつきがお前を送って帰れってうるせーから」
「……さつきってば、私には大ちゃん探してって言ったのに」

 苦笑する名前に、お前がそーやって甘やかすからつけあがるんだよ、と言葉の割に棘のない声が降る。お前が言うな、という反論は、名前の喉の奥で留められた。

「ていうか大ちゃんが練習出てくれれば私が駆りだされることもないの! 委員会の仕事、先輩に任せてきちゃったんだからね!」
「もうマネージャーやればいいじゃねえか」
「そうだよ名前ちゃん。もうマネージャーみたいなもんじゃん」
「名前ちゃん手際いいし助かるー」
「留年したくないから無理ですう。たまに手伝うのが精一杯だよ」

 ささやかな談笑が、ホイッスルの音によって区切られる。不在だった後輩がようやく顔を出したことに気付いた部員の誰かが鋭い声を飛ばす。マネージャーたちが籠を抱えて持ち場へと走る。名前がモップとボードを持ち替えることを求められる。それに笑顔で応じる。
 ああ、なんて。
 なんてくだらない。

 桃井さつきは昔から、それこそ生まれた瞬間から、特別な少女だった。そして同じその瞬間から、桃井名前は両親に愛されて育った普通の女の子という肩書きさえ失ったのだ。
 両親が双子の姉だけを愛していたというわけではない。常識と良識と一般成人に求められる平等さは、当然ながら一組の夫婦に努力を強いた。平等に愛そう。たとえ生まれながらに優劣がはっきりと着いていても。そう意識した瞬間から、それは不可能だとどこかで理解していても。
 華やかな姉と地味な妹は年を追うごとにそれぞれの個性を強くして、つまり姉はより美しく輝くような才能に頭脳さえ併せて見せ、妹はどこまでも凡庸で人混みに入れば一瞬で埋もれ見えなくなる性質だった。
 それでも互いを尊重し大事にし合って、姉は妹を引っ張り、妹は姉のちょっとした可愛らしい我侭を苦笑とともに受け入れる――というのが両親、姉、そして周囲の人間の描いている、そして信じているシナリオだ。
 どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。

「あ、大ちゃん。お疲れ」
「おう。帰んぞ」
「先に帰ってていいよ。私はさつき待ってるから。鞄置いてあるだろうから戻ってくるだろうし」
「……お前を送れって言われて俺は今日来たんだよ」

 っていうか帰ったところで、さつきがいなきゃ家に入れないんだよ。鍵を持ってるのはさつきなんだから。とは言わず、柔らかな笑みを口元に浮かべる。

「じゃあ二人で待ってるしかないねー」
「……お前はホンットにさつきが好きだな」
「ふふふ」

 ばあか。
 その言葉の代わりに笑う。桃井名前が、姉のお城のような家で育つうちに得た唯一の処世術だ。あの家では、この世界では、姉を好きで慕って何でも受け入れる妹しか存在を許されていないから。

「お姉ちゃんだからね」

 ――一度たりともその言葉を肯定していないことに、気付いている人間は今のところ、居ない。


next
===============
web clap(別窓注意)
↑ご連絡はこちらから。中身は空ですが感想等いただけると幸いです。