細井郁代という「私」のプロフィール

2018年7月25日からアメリカ ニューヨークに生きる場所を移した

Ikuこと細井郁代(ほそいいくよ)です。

ニューヨークへ渡る少し前から、このブログスタートさせました。

タイトルは”I am what i am”(私はわたし)

リアルな私を発信するために、何かが成功してからではなくその過程を皆さんと共有するために。

良いも悪いも、かっこいいも恥ずかしいも、余すことなくリアルに書き綴っていきたいと思っています。

ここでは私について詳しく書いていきたいと思います。私という人物のマインドやポテンシャルをより知っていただくために。

見てくれる方の期待を裏切らない面白いキャリアだと思ふ(笑)

 

きっとこの両親を選んで生まれてきたから

私は栃木県にある人口約4万人の町で、3人兄弟の末っ子として生まれました。

厳しくもパーフェクトな父と、いつも3歩下がって父を支える母、歳の離れた兄2人。

父は私が小学校6年の時に起業し、約20年ほど土木建築会社を営んでいます。

寮も完備するほどの規模で、母は一貫して父と家族を支え、娘としては尊敬してもしきれないほど愛情ある完璧な両親です。

もちろん家族ですから、問題の一つや二つあって当然ですが、やはりこの両親の元に生まれてきたことに感謝と必然性を感じています。

幼い頃から父は自分の考えや、社会のことを私に話してくれました。本当に幼い時から。

そして耳にタコができるくらい言われた言葉

「みんなと一緒じゃなくていい。あなたは特別だから」

ハングリー精神の元、こつこつと尋常ではない努力を積み重ねる性格の父、そんな父の思想を受け継ぎながら、それを見守る母のもと、私は普通じゃない子供・普通じゃない人・よく目立つ人になりました(笑)

ただ思春期は周りとなじめない自分と、みんなと一緒になりたい自分とのはざまで葛藤・困惑したものです。

 

私という人格の礎を築いたスキー選手としての人生

多趣味な父の影響で、幼い頃から家族で山登りやスキー、アウトドアによく行った記憶があります。

特にスキーは歩いて間もない2歳で履き、スキー場でも一躍有名になるほどの上達を見せ、小学校3年生の時に試しに出てみた県大会で、なんと優勝してしまい、ここから本格的な選手生活が始まりました。

アルペンスキーという特殊なスポーツが故、スキー場を転々とする生活。日本に雪がなければ海外へ、そうして合宿、試合と動いていることが多く、夏場のオフシーズンは陸上トレーニングに励む。

趣味の領域を超え、本格的にアスリートとしての道を進んだ私は、幼い頃から親元を離れて生活することが多い子供でした。

学校の友達が遊んでる間、私はトレーニングや練習をする。小学校の時からずっと。

10歳そこそこの子供に生活費を渡し、飛行機や電車に乗せて北海道や海外へ行かせる。親の付き添いなしに目的地に向かい、レーシングチームのコミュニティに自分の力でなじんでいく。まだ携帯もない時代。親に電話できるのは公衆電話から。10代前半はそんな環境で育ち、高校・大学はより本格的になり、体育会スキー部でも強豪を選んで進学しました。

 

高校時代・大学時代はスキーとトレーニングと、恋愛しかしてません。

ぶっちゃけそんなもんです(笑)

 

国体、インターハイ、インカレ、とにかく大きな大会に出場し、小さな大会では入賞する。

大学では将来を考え教育学部で教員免許を取得しましたが、卒業単位もギリギリなくらいな実情。

毎日厳しいスキー部の女子寮生活と、朝練から始まる練習、学校では寝て、隙間時間に恋愛を謳歌する。

なんならスロットもよく彼氏と行ったもんです(笑)

大学時代はサークルや飲み会に一切行ったことがありません。私の生活は、兎にも角にもスキー選手として勝つことと、恋愛が全てでした。

そんな普通ではないスキー選手としての人生が、今の私の根幹になっています。

目標設定して突き進んでいく強さや、自分の意志や想いを相手に伝えて意思表示する明確さに加え、環境が変わった際の適応能力は早いもので、コミュニティの中での空気や人柄の察知能力はずば抜けていると自負しています。

相手に物事を伝える能力も、コミュニティに自ら入って、自ら自分の扉を開いて行く力も、この選手生活で間違いなく養われたと思っています。

 

ちなみにアスリートの名残で、今もトレーニングが好きな私。

トレーニングすると頭も心も身体も「今」に集中できるから。

 

突き進んだ就職活動、捨てる神あれば拾う神あり

大学2年生の時、就職活動が本格的になる頃、私の思いはスポーツ選手ではなく、
バリバリキャリアを積むキャリアウーマンとしてシフトする人生にベクトルが向いていました。

特にスポーツに長年打ち込んできた私の想いは「女性として輝ける仕事」でした。

そこでANAのCAを大本命に、選手生活・大学・専門学校と3足の草鞋を履き、就職活動を進めました。

CA採用試験はこの私が4次まで進みましたが、残念ながら受かることはなく、その他の航空会社のCAも受かることはありませんでした。

当時の彼氏の実家に遊びに行ってる車の中で、悔しさで号泣したことを覚えています。

 

まさにこの時捨てる神に出会い(笑)

 

同時に私はとある有名ジュエリーブランドを受けていました。

そして私の就職活動上、最も早く内定の知らせと共に、熱い熱いオファーをいただいた企業がこのジュエリーブランドでもあります。

内定が出た当時、まだ本命ANAの採用が進んでた私は、やはり自分の想いにウソは付けず「第一希望はANAであり、今諦めるわけにいかない」と人事部長に断りをしました。

しかし数日後
「何か月でも待ちます」と名もない大学3年生の私に可能性も見出し、熱烈な引きの声をかけてくれ、後に計8年お世話になることになります。

 

ここで私は拾う神に出会う(笑)

 

ジュエリーブランドでは販売職採用のため、配属店舗の希望を聞かれたとき「一番忙しく、厳しい店舗に配属してください」と本気で人事担当にリクエストしたものです。

今思うとよく言ったなとも思いますが、やはり私は実績を積みたかった。
後に本店配属になり、この本店で短期間で実績を積んでいくことになります。

新入社員研修の時、当時の営業本部長の話があまりに興味深く、一番前の席に座る私は「この人の部下になる」と心に決めたのも事実。

そう決めた私は、店舗配属後も、結果をしっかり出していくことにベクトルを向けます。

ありがたいことに本店は、美人でセールススキルがトップの先輩方が揃っており、とにかくよく動きを見て自分の中に取り入れていきました。

 

紆余曲折はあるものの、入店半年で販売客数が全国1位になり、1年後には販売額全国3位になりました。

 

新卒採用の社員が短期間でトップセールスに成り上がり、多くの社員が私を認識するようになりました。

その頃には本社の営業本部に行きたいという野望が噴火寸前で、そのために嘆願書を書き、数回アプローチの後、営業本部長本人に「部下にしてください」と告白まがいの意思表示をすることで、3年目に晴れて本社営業本部に異動しました。

大きな百貨店や専門店のデベロッパーとの密なやりとり、店舗スタッフとの距離の取り方、この部署にいる4年の間に、私は多くの刺激と沢山の知識、知恵を授けてもらいました。

その後一度会社を離れましたが、アウトレット店舗進出時には東京から軽井沢まで通勤し、後に都内店舗で管理職を務めました。

相変わらず店頭に立つと、老若男女問わずお客様との距離を詰めるのが得意で、販売以外にも様々な相談事をされたり、兎にも角にも関係性を築くのが得意な私でしたが。社内表彰も数多く。

しかし大きな組織での管理職としては「最低評価」。その評価の事実にショックを通り越し、驚いた記憶も数年前の話(笑)

 

個人と組織のはざまで

当時SNSを活用したマーケティング塾「エクスマ塾」に自分の直感に従って通っていた私は、ここで新しい概念や考え方に触れました。

しかしながら大手の個人を出してはいけないという枠の中でもがき、自問自答を繰り返し、大きな組織の中での自分と、個人を出していきたい自分の本音とのはざまに苦しんだ時期がありました。

このタイミングで、スタートアップしたばかりの渋谷にオフィスを構える化粧品ブランドからオファーをいただき、移る決断をします。

 

2016年9月 化粧品ブランドのセールスマネージャーに転職した私は、自らショップチャンネルに出演したり、新規取引先の開拓やプレゼンから、既存取引先のフォロー、商品のデザイン、販促物の作成と、企画立案と、とにかくブランドに関わる業務で経理以外に当たる広範囲で携わりました。

小さな組織の凝縮したチームワークで結果を出し、作り上げていく。とにかくたった一人でブランドの顔として矢面に立って進んでいくことに、やりがいを感じていました。

 

直接会ったことがある方は分かると思いますが、こんなキャラですから、一回会ったら忘れられることはありません。

物事を端的かつ明瞭に伝えることも得意で、相手の温度や感度を感じるセンサーもかなりいいと自負しています。営業としては強みであり、アスリート時代に培った、目標に向かって真っすぐ進んでいくマインドも強い。

ただ、非常にメンタルは弱め。気にするし心配症という実情(笑)

意外に弱い、それが私。。

決して完璧なんてことはなく、コミュニケーション力が問われることに関しては得意ですが、数字の管理は大の苦手。営業なのに数字見ると吐き気がします(笑)
数字の細かい話は経理に・・・って逃げたくなります(笑)

 

そんな私がニューヨークで生きる理由

29歳の時、私は当時愛していた人と自ら婚約破棄しました。

 

あの熱い日、汗だくになりながら、都内一等地のマンションを出るときの情景は今でも覚えています。

積み上げた絆も、築き上げた栄光も、女性としての社会的幸せも、大切なものも、大切な人も、自ら捨てた。
そして自分を見失いました。

どう顔を上げて街を歩けばいいかわからなかった。胸を張って歩く方法がわからなかった。

自分の心を閉ざして生きた数か月、たくさんの本を読み、ブログを読むことで、少しづつ自分を取りもどした私は、

会いたい人に会い、行きたいところに行き、コミュニティを知ることで、様々な概念に触れ、私は自分を取り戻し、自分を超えていきました。

 

その中で出会った

「自分の本音」を大事にする生き方。

「自分の好きや感覚」を大事にする生き方。

そして今、ニューヨークにいます。

2016年、2017年と2年連続で有給休暇を使い、一人でニューヨークに来ました。

特に2度目のニューヨーク。いつものカフェでカウンターに座り、パンとコーヒーをかじりながら、この街の流れ、この街の声に意識を傾けていた時ふと浮かんだ言葉

「この街に住んで、この街で働く」

 

その思いは、SNSを通じて出版社でのインターンというチャンスを掴んだことにより、現実化に近づきます。

語学も堪能じゃない

長期滞在VISAもない

手に職があるわけじゃない

なん保証があるわけじゃない

 

それでも私は「自分の本当の想い」「自分の本音」に従って、この街に飛びました。

リモワ2台の荷物と共に。

 

そして今、マンハッタンに住んでいます。

 

自分の想いを潰さない

自分の本音をごまかさない

自分をないがしろにしない

そうして今、ここにいます。

仕事も、恋愛も、いろんなものをドロップアウトして

失う怖さと保証のない不安

ビビりながらこの街に来ました。

ただ一つ、恥かく覚悟だけは持って。

ここから私がどんなふうに進み、どんなふうに笑って生き抜くのか、
良いも悪いも、かっこいいも恥ずかしいも、
笑うも泣くも、嬉しいも悲しいも、リアルを書き綴っていこうと思います。

さぁみんなも夢を乗せて!!